第九章 王宮の夜
王宮という場所は、もっと遠くにあるものだと思っていた。
リリアは馬車の窓から、夜のリュネールを見つめていた。つい数時間前まで、コレットと焼き菓子を食べながら眺めていた王宮。そのときは街の向こう、高台に建つ白い城にしか見えなかった。
まさか、その日のうちに自分がそこへ向かうことになるとは思わない。
空はようやく本来の夜を取り戻しつつあった。白銀の輝きは薄れ、流れる星も少なくなっている。それでも街にはまだ大勢の人が出ていて、誰もが空を見上げていた。
「……大騒ぎになってる」
小さく呟いて、リリアは膝の上で手を握った。
原因は、たぶん自分だ。
石碑に触れた。それだけだった。それだけで、セレニア王国中の空が光ったらしい。
向かいには王宮から来た騎士が座っている。何か聞きたいのに、先ほどからずっと難しい顔をしているので話しかけづらい。
「あの」
「はい」
「私、怒られますか?」
騎士が一瞬、言葉に詰まった。
「……それは、私からは何とも」
やっぱり怒られるのかもしれない。
リリアは窓の外へ視線を戻した。少なくとも、勝手に古い建物へ入ったことは謝ろう。
そんなことを考えているうちに、馬車は大きな門をくぐった。
王宮を下から見上げたことなら何度もある。けれど、門の内側に入るのは初めてだった。
石造りの建物は、近くで見ると想像していた以上に大きい。白い壁に並ぶ無数の窓。高い塔。広い中庭。夜だというのに、あちこちで人が慌ただしく行き来している。
馬車が止まり、扉が開く。
「こちらへ」
リリアは恐る恐る地面へ降りた。
王宮の中へ入ると、磨き上げられた床に自分の姿が映りそうだった。高い天井には細かな装飾が施され、壁には大きな絵画が並んでいる。見たこともないほど立派な花器には、白百合と淡い青の花が生けられていた。
こんなときでも花に目が行ってしまう。
けれど、ゆっくり眺めている暇はなかった。
騎士に案内されて長い廊下を歩き、階段を上がり、また廊下を進む。
すでに帰り道が分からない。
やがて、一つの大きな扉の前で騎士が止まった。
「お入りください」
「……一人で?」
「はい」
ここまで来たのだから、今さら逃げるわけにもいかない。
リリアは小さく息を吸って、部屋へ入った。
机の向こうに、一人の男がいた。
四十代後半くらいだろうか。銀縁の眼鏡をかけ、隙なく整えられた服を身につけている。机の上にはすでに何枚もの書類が並べられていた。
男はリリアを見ると、手元の書類を置いた。
「こちらへ。座ってください」
促され、リリアは向かいの椅子へ座る。
男の視線が一度だけリリアの姿を確認した。
旧市街を歩き回った靴には土がついている。服の裾も少し汚れているし、長い髪も風に吹かれて乱れていた。
王宮に来るような格好ではないことくらい、リリアにも分かっている。
けれど男は何も言わなかった。
「私はシリウス。この国で宰相を務めています」
リリアは固まった。
「……宰相?」
「そうです」
知っている。
本で。
国王を補佐し、王国の政務を統括する重職。
なぜ、そんな人が自分の前にいるのだろう。
「宰相って、あの宰相ですか?」
シリウスが眼鏡越しにリリアを見る。
「他にどの宰相をご存じなのか分かりませんが、おそらくその宰相です」
どうしよう。
思っていたより、ずっと偉い人が出てきた。
リリアは座り直した。
「いくつか確認します」
「はい」
「名前は」
「リリア・ローレンです」
「十八歳?」
「はい」
「職業は」
「Lilasというブックカフェで働いています」
「リュネール生まれ?」
「はい」
「現在もリュネールに?」
「ずっと住んでいます」
「貴族ではない?」
「違います」
「王宮に来たことは」
「今日が初めてです」
「王家、あるいは貴族との個人的な繋がりは?」
リリアは少し考えた。
「……ないと思います」
「思います?」
「お店にはいろんなお客様が来るので、知らないだけで貴族の方がいたことはあるかもしれません。でも、個人的にはありません」
シリウスが一度だけ顔を上げた。
「分かりました。では、今日あなたがあの場所へ辿り着くまでの経緯を、最初から話してください」
リリアは頷いた。
昼間は友人と出かけていたこと。帰り道で、以前から何度か見かけていた白い生き物と再会したこと。
「以前から?」
「はい。最初に見たのは少し前です。お店にも来ました」
「その生き物を、あなたはルクスと呼んでいる?」
「今日、名前をつけました」
「あなたが?」
「名前がなさそうだったので」
シリウスのペンが、一瞬止まった。
「なぜルクスと?」
「昔読んだ物語に出てきた古い言葉です。光、という意味だったと思います。白くて、光みたいだったから」
「なるほど。続けてください」
ルクスについていったこと。
知らない路地へ入り、古い石壁に囲まれた場所へ辿り着いたこと。そこには、Lilasでも見たことのない白い花がたくさん咲いていたこと。
そして、古い石碑を見つけたこと。
「石碑には何がありました」
「花の紋章です。周りに、蔓みたいな模様があって……文字もありました」
「読めましたか?」
「いいえ。古い文字みたいでしたし、欠けているところも多くて」
「その紋章に見覚えは?」
リリアは少し考えた。
「あるような気がしたんです。でも、どこで見たのか思い出せません」
シリウスは何かを書き留める。
「それから?」
「触りました」
「なぜです」
「……気になったので」
シリウスが顔を上げた。
「気になったから?」
「はい」
しばらく見つめられ、リリアは少し小さくなる。
「触ってはいけないものだとは思わなくて」
「なるほど」
怒られなかった。
それが逆に怖い。
「触れた直後、石碑が光った?」
「はい」
「その前に何か唱えたり、特別な動作をしたりは?」
「してません」
「血を流した?」
「いいえ」
「何かを石碑へ捧げた?」
「いいえ」
「では、本当に触れただけ?」
「……はい」
シリウスは黙った。
リリアも黙る。
やがてシリウスが再び口を開いた。
「その白い生き物について、もう少し詳しく教えてください」
「ルクスですか?」
「ええ」
リリアは思い出しながら説明した。
猫にも狐にも似ていること。真っ白で柔らかな毛。大きな耳と、身体に不釣り合いなくらい大きな尻尾。銀紫色の瞳。
そして、あの場所で気づいたこと。
「耳のところに、花が咲いていたんです」
シリウスのペンが止まった。
「花?」
「はい。白い小さな花です。あの場所に咲いていたものと同じだと思います」
「以前から?」
「いいえ。少なくとも、お店に来たときにはなかったです。今日、石碑のところで見たら咲いていて」
「間違いありませんか」
「はい」
初めて、シリウスの表情がわずかに変わった。
本当に、ほんの少しだった。
けれど、人の顔をよく見る癖のあるリリアは気づいた。
何かを知っている。
「……あの」
「何でしょう」
「ルクスのこと、知ってるんですか?」
シリウスはすぐには答えなかった。
「現時点では、何とも言えません」
「そうですか」
教えてくれないらしい。
「では、空が変化したあとのことを」
「はい」
リリアは続きを話した。
石碑から光が空へ昇ったこと。夕焼けだった空が白銀に変わったこと。そこへ無数の星が流れ始めたこと。
その後、王宮から来た騎士たちが現れた。
気づいたときには、ルクスはいなくなっていた。
「以上です」
シリウスは書類を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
リリアは待った。
一分も経っていないはずなのに、ずいぶん長く感じる。
「あの」
「何でしょう」
「やっぱり、触ったらいけないものだったんでしょうか」
「それを確認しています」
「壊してはいません」
「それは確認済みです」
「よかった……」
思わず胸を撫で下ろす。
シリウスの眉がわずかに動いた。
「心配していたのは、そこですか」
「だって、すごく古そうだったので」
「……そうですか」
また少し沈黙が続いた。
リリアは思い切って聞いた。
「それで、私は帰ってもいいんでしょうか」
シリウスは答えなかった。
その沈黙で、嫌な予感がした。
「……帰れないんですか?」
「今夜は王宮に滞在してください」
「今夜?」
「はい」
「どうしてですか?」
「確認しなければならないことが、まだあります」
「でも、家に何も持ってきてません」
「必要なものはこちらで用意します」
「明日は仕事があります」
「勤務先にはこちらから事情を伝えます」
そこまでされるのか。
「マダム・エレナ、心配してると思うんです」
「すでに使いを出しています。あなたが王宮にいることは伝わるでしょう」
少しだけ安心した。
でも、もう一人。
「……ヴァレンには?」
「ヴァレン?」
「隣の家に住んでる人です。たぶん、私が帰ってないと――」
言いながら、リリアは気づいた。
ヴァレンは王都騎士団長だ。
今夜の騒ぎなら、きっと仕事をしている。
「いえ。たぶん大丈夫です」
シリウスは何も言わず、その名前だけを書き留めた。
「他に質問はありますか?」
「今はありません」
「では、今日は休んでください」
「はい」
立ち上がったものの、まだ分からないことだらけだった。
扉へ向かい、途中で振り返る。
「あの、宰相様」
「何でしょう」
「ルクスを見つけたら、教えてもらえますか?」
「……なぜです」
「急にいなくなったから。心配なので」
シリウスはリリアを見た。
「分かりました」
「ありがとうございます」
頭を下げ、リリアは部屋を出た。
扉が閉じる。
シリウスはしばらく動かなかった。
それから机の端に置いていた古い本を開いた。王宮の書庫から急ぎ運ばせた、王家に関する古い記録だった。
擦れた頁に、花を象った紋章が描かれている。
今夜、旧市街で光を放ったものと同じ紋章。
その下に残された古い記述を、シリウスはもう一度読む。
王位を継ぐ資格を持たぬ者は、古き碑へ辿り着くことはできない。
正統な王位継承者は、すでにいる。
王太子ノア。
それなのに、王家と何の関わりもないと話す十八歳の娘が、誰にも場所を教えられず、石碑へ辿り着いた。
しかも、その娘を導いたのは――白い生き物。
シリウスは本を閉じた。
*
部屋を出たリリアを待っていたのは、一人の若い女性だった。
二十代前半くらいだろうか。栗色の髪をきちんとまとめ、濃紺の侍女服を着ている。
「リリア様ですね」
「はい」
「ヴィオラと申します。本日のお世話を担当するよう申しつかっております」
「あ……よろしくお願いします」
リリアが頭を下げると、ヴィオラも丁寧に頭を下げた。
そして、リリアを見る。
髪。
服。
裾。
靴。
リリアも自分を見る。
旧市街を歩き回った靴には土がついている。服にも少し汚れがある。髪にいたっては、朝とはかなり違う状態になっているはずだ。
「……汚れてますよね」
「いえ」
一拍。
「少々」
「やっぱり」
ヴィオラは申し訳なさそうに微笑んだ。
「まずは湯浴みをお願いいたします」
「……お風呂?」
「はい」
「今からですか?」
「はい」
リリアは思わず、今出てきたばかりの扉を振り返った。
宰相にいろいろ聞かれた。
帰れないと言われた。
その次がお風呂。
王宮というところはよく分からない。
案内された浴室を見て、さらに分からなくなった。
「……広い」
白い石で造られた浴槽には湯気が立ち、棚には香油や石鹸らしきものがいくつも並んでいる。
「では、お手伝いいたします」
ヴィオラが当然のように言った。
「大丈夫です」
「はい?」
「一人で入れます」
「もちろん存じております」
「じゃあ、一人で……」
「ですが、本日は私がお手伝いいたします」
「どうして……?」
ヴィオラも困ったように黙った。
どうやら、そういうものらしい。
結局リリアは、生まれて初めて、ほとんど他人と言っていい相手に髪を洗ってもらうことになった。
「……長いですね」
「よく言われます」
「これ、ご自分で洗っていらっしゃるんですよね?」
「はい」
「毎日?」
「はい」
ヴィオラの手が止まった。
「……大変じゃありません?」
「大変です」
「ですよね」
そこで初めて、ヴィオラが少し笑った。
リリアもつられて笑う。
それまでどこか緊張していたヴィオラの肩から、少しだけ力が抜けたように見えた。
湯浴みを終えると、今度は服が用意されていた。
淡い藤色のドレスだった。
派手な装飾はない。けれど、生地には柔らかな光沢があり、袖口には細かな刺繍が施されている。どう見てもリリアが普段着ているものより上等だった。
「これを私が?」
「はい」
「借りてもいいんですか?」
「そのためにご用意しておりますので」
「汚したら……」
「大丈夫です」
ヴィオラは即答した。
リリアは恐る恐る袖を通した。
腰を整えられ、背中の留め具を留めてもらう。そのあと椅子へ座らされ、長い髪を丁寧に梳かれた。
淡い桜色の髪が、鏡の中で艶やかに整えられていく。
最後に一部をゆるくまとめられ、ヴィオラが満足そうに手を離した。
「できました」
リリアは鏡を見る。
淡い藤色のドレス。綺麗に整えられた長い髪。普段より少しだけ大人びて見える。
しばらく眺める。
「……誰?」
「リリア様です」
「知ってます」
ヴィオラが吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえた。
「すみません」
「いいですよ」
リリアも少し笑った。
王宮へ来てから、初めて緊張が解けた気がした。
「こちらへどうぞ」
今度はヴィオラについて王宮の奥へ進む。
廊下を曲がり、階段を上り、また廊下を曲がる。
「ヴィオラさん」
「はい」
「これ、一人で歩いたら迷いますよね」
「最初は皆さん迷われます」
「ヴィオラさんも?」
「三回ほど」
「三回」
「……五回だったかもしれません」
少しだけ親近感が湧いた。
やがてヴィオラが一つの扉を開けた。
「こちらです」
リリアは中を覗いた。
そして、止まった。
「……ここ?」
「はい」
「私の?」
「今夜お使いいただくお部屋です」
広い。
とにかく広い。
大きな寝台には天蓋があり、窓には重そうなカーテンが下がっている。暖炉の前にはソファ。その横には小さなテーブル。壁には絵画が掛けられ、花の彫刻が施された家具が並んでいる。
自分の家なら、この部屋だけで一階のかなりの部分を占めるのではないだろうか。
リリアは部屋の中央まで歩いた。
「……落ち着かない」
ヴィオラが少し笑った。
「何か必要なものはございますか?」
「いえ、大丈夫です」
「何かありましたら、扉の外に控えている者へお申しつけください」
「外に人がいるんですか?」
「はい」
ますます落ち着かない。
ヴィオラは一礼した。
「では、おやすみなさいませ、リリア様」
「あ、ヴィオラさん」
「はい?」
「今日はありがとうございました」
ヴィオラは少し驚いた顔をしたあと、柔らかく笑った。
「おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
扉が閉まる。
静かになった。
リリアは一人、広すぎる部屋に取り残された。
自分の袖を見る。
綺麗な藤色。
寝台を見る。
大きい。
窓を見る。
遠い。
もう一度、寝台を見る。
「……どうしてこうなったんだろう」
返事をしてくれる人はいない。
リリアは窓辺へ歩いた。
そこからは、夜のリュネールが一望できた。
高い。
いつも見上げていた街を、今は王宮から見下ろしている。
Lilasはどの辺りだろう。
自分の家は。
コレットの仕立屋は。
そして、自分の家の隣にあるヴァレンの家。
「ヴァレン……怒るだろうな」
帰りが遅いどころではない。
王宮にいる。
しかも、ちゃんと話すこともできていない。
マダム・エレナも心配しているだろう。コレットだって、今日別れたばかりなのに。
ほんの数時間前まで、明日も今日と同じように続くと思っていた。
朝になればLilasへ行く。
花の水を替える。
本を整える。
コーヒーの香りがして、マダム・エレナが店へ来る。
そんな明日を疑ったこともなかった。
「……帰りたいな」
口にすると、急に心細くなった。
リリアは窓から離れた。
何か別のことを考えよう。
部屋を見回す。
そして、棚を見つけた。
「……本、ないかな」
あった。
数冊だけだが、本が並んでいる。
リリアは少し元気になって近づいた。
『セレニア王宮建築史』
『王家儀礼典範』
『古典詩選集』
「……難しい」
それでも、一冊抜いた。
寝台へ腰掛ける。
身体が沈んだ。
「……柔らかすぎる」
家のベッドが恋しい。
リリアは『セレニア王宮建築史』を開いた。
三頁読んだ。
何も頭に入らなかった。
もう一度、最初から読む。
やっぱり入らない。
白い花。
ルクス。
石碑。
白銀の空。
流れ星。
そして、シリウスの言葉。
――確認しなければならないことが、まだあります。
何を確認するのだろう。
なぜ、自分は帰れないのだろう。
リリアは本を閉じた。
「……ルクス」
あの子なら、何か知っているのだろうか。
窓の外には、もう流れ星はなかった。
*
同じころ。
シリウスの執務室を、一人の男が訪れていた。
「お呼びですか、宰相閣下」
二十九歳。整った顔立ちに、人好きのする笑みを浮かべている。
「こんな時間に呼び出されるということは、あまり楽しいお話ではなさそうですね」
「アルタイル」
「はい」
シリウスは一枚の紙を差し出した。
アルタイルが目を落とす。
「今夜の件ですか」
「そうだ」
「石碑のところにいたという?」
「あの娘が触れた直後、石碑が反応した」
アルタイルの笑みが薄くなる。
「……本人が?」
「そう証言している」
「偶然という可能性は」
「だから調べる」
シリウスは眼鏡を押し上げた。
「リリアについて調べろ」
「どこまで?」
「すべてだ」
アルタイルが眉を上げる。
「出生。両親。親族。家系を遡れるところまで。現在の生活、交友関係、借財、犯罪歴。王宮へ近づく目的になり得るものがないかも確認しろ」
「ずいぶん徹底しますね」
「当然だ」
シリウスは机の上に置かれた古い記録へ目を落とした。
「王位を継ぐ資格を持たぬ者は、あの場所へ辿り着くことすらできないと伝えられている」
アルタイルから笑みが消えた。
「……それは」
「しかも、彼女を導いたのは白い生き物だ」
沈黙が落ちる。
「《白き花の守り手》」
アルタイルが静かに口にした。
「まだそうと決まったわけではない」
「ですが、疑うには十分でしょうね」
「だから調べろ」
アルタイルはもう一度、紙を見る。
「いつまでに?」
「可能な限り、今夜中に」
アルタイルが顔を上げた。
「今夜中?」
「不満か」
「いえ。宰相閣下は相変わらず人使いが荒いなと思いまして」
「口を動かす暇があるなら行け」
「はいはい」
「返事は一度でいい」
「はい」
アルタイルは紙を手に、扉へ向かった。
その手が取っ手にかかったところで、シリウスが呼び止める。
「アルタイル」
「はい?」
「王都騎士団長についても確認しろ」
アルタイルが振り返った。
「王都騎士団長?」
「ヴァレン。彼女の幼馴染だそうだ」
わずかな沈黙。
それから、アルタイルの目に少しだけ興味が宿った。
「……それはまた」
「余計な想像はするな」
「まだ何も言ってませんよ」
アルタイルは笑って、今度こそ部屋を出ていった。
扉が閉まる。
シリウスは一人、古びた記録を開いた。
擦れた頁には、今夜光を放ったものと同じ花の紋章が描かれている。
王太子ノアがいる。
正統な王位継承者が、すでにいる。
それなのに、王家とは何の関わりもないという十八歳の少女が、誰にも場所を教えられず、古き碑へ辿り着いた。
シリウスは眼鏡を外し、眉間を押さえた。
今夜、王宮に連れてこられた一人の少女。
その存在が何を意味するのか。
まだ、誰にも分からなかった。




