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セレニア王国物語 ~花冠の女王と白き神獣~  作者: n.
第一部 花冠の女王
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10/21

第九章 王宮の夜


王宮という場所は、もっと遠くにあるものだと思っていた。


リリアは馬車の窓から、夜のリュネールを見つめていた。つい数時間前まで、コレットと焼き菓子を食べながら眺めていた王宮。そのときは街の向こう、高台に建つ白い城にしか見えなかった。


まさか、その日のうちに自分がそこへ向かうことになるとは思わない。


空はようやく本来の夜を取り戻しつつあった。白銀の輝きは薄れ、流れる星も少なくなっている。それでも街にはまだ大勢の人が出ていて、誰もが空を見上げていた。


「……大騒ぎになってる」


小さく呟いて、リリアは膝の上で手を握った。


原因は、たぶん自分だ。


石碑に触れた。それだけだった。それだけで、セレニア王国中の空が光ったらしい。


向かいには王宮から来た騎士が座っている。何か聞きたいのに、先ほどからずっと難しい顔をしているので話しかけづらい。


「あの」

「はい」

「私、怒られますか?」


騎士が一瞬、言葉に詰まった。


「……それは、私からは何とも」


やっぱり怒られるのかもしれない。


リリアは窓の外へ視線を戻した。少なくとも、勝手に古い建物へ入ったことは謝ろう。


そんなことを考えているうちに、馬車は大きな門をくぐった。


王宮を下から見上げたことなら何度もある。けれど、門の内側に入るのは初めてだった。


石造りの建物は、近くで見ると想像していた以上に大きい。白い壁に並ぶ無数の窓。高い塔。広い中庭。夜だというのに、あちこちで人が慌ただしく行き来している。


馬車が止まり、扉が開く。


「こちらへ」


リリアは恐る恐る地面へ降りた。


王宮の中へ入ると、磨き上げられた床に自分の姿が映りそうだった。高い天井には細かな装飾が施され、壁には大きな絵画が並んでいる。見たこともないほど立派な花器には、白百合と淡い青の花が生けられていた。


こんなときでも花に目が行ってしまう。


けれど、ゆっくり眺めている暇はなかった。


騎士に案内されて長い廊下を歩き、階段を上がり、また廊下を進む。


すでに帰り道が分からない。


やがて、一つの大きな扉の前で騎士が止まった。


「お入りください」

「……一人で?」

「はい」


ここまで来たのだから、今さら逃げるわけにもいかない。


リリアは小さく息を吸って、部屋へ入った。


机の向こうに、一人の男がいた。


四十代後半くらいだろうか。銀縁の眼鏡をかけ、隙なく整えられた服を身につけている。机の上にはすでに何枚もの書類が並べられていた。


男はリリアを見ると、手元の書類を置いた。


「こちらへ。座ってください」


促され、リリアは向かいの椅子へ座る。


男の視線が一度だけリリアの姿を確認した。


旧市街を歩き回った靴には土がついている。服の裾も少し汚れているし、長い髪も風に吹かれて乱れていた。


王宮に来るような格好ではないことくらい、リリアにも分かっている。


けれど男は何も言わなかった。


「私はシリウス。この国で宰相を務めています」


リリアは固まった。


「……宰相?」

「そうです」


知っている。


本で。


国王を補佐し、王国の政務を統括する重職。


なぜ、そんな人が自分の前にいるのだろう。


「宰相って、あの宰相ですか?」


シリウスが眼鏡越しにリリアを見る。


「他にどの宰相をご存じなのか分かりませんが、おそらくその宰相です」


どうしよう。


思っていたより、ずっと偉い人が出てきた。


リリアは座り直した。


「いくつか確認します」

「はい」

「名前は」

「リリア・ローレンです」

「十八歳?」

「はい」

「職業は」

「Lilasというブックカフェで働いています」

「リュネール生まれ?」

「はい」

「現在もリュネールに?」

「ずっと住んでいます」

「貴族ではない?」

「違います」

「王宮に来たことは」

「今日が初めてです」

「王家、あるいは貴族との個人的な繋がりは?」


リリアは少し考えた。


「……ないと思います」

「思います?」

「お店にはいろんなお客様が来るので、知らないだけで貴族の方がいたことはあるかもしれません。でも、個人的にはありません」


シリウスが一度だけ顔を上げた。


「分かりました。では、今日あなたがあの場所へ辿り着くまでの経緯を、最初から話してください」


リリアは頷いた。


昼間は友人と出かけていたこと。帰り道で、以前から何度か見かけていた白い生き物と再会したこと。


「以前から?」

「はい。最初に見たのは少し前です。お店にも来ました」

「その生き物を、あなたはルクスと呼んでいる?」

「今日、名前をつけました」

「あなたが?」

「名前がなさそうだったので」


シリウスのペンが、一瞬止まった。


「なぜルクスと?」

「昔読んだ物語に出てきた古い言葉です。光、という意味だったと思います。白くて、光みたいだったから」

「なるほど。続けてください」


ルクスについていったこと。


知らない路地へ入り、古い石壁に囲まれた場所へ辿り着いたこと。そこには、Lilasでも見たことのない白い花がたくさん咲いていたこと。


そして、古い石碑を見つけたこと。


「石碑には何がありました」

「花の紋章です。周りに、蔓みたいな模様があって……文字もありました」

「読めましたか?」

「いいえ。古い文字みたいでしたし、欠けているところも多くて」

「その紋章に見覚えは?」


リリアは少し考えた。


「あるような気がしたんです。でも、どこで見たのか思い出せません」


シリウスは何かを書き留める。


「それから?」

「触りました」

「なぜです」

「……気になったので」


シリウスが顔を上げた。


「気になったから?」

「はい」


しばらく見つめられ、リリアは少し小さくなる。


「触ってはいけないものだとは思わなくて」

「なるほど」


怒られなかった。


それが逆に怖い。


「触れた直後、石碑が光った?」

「はい」

「その前に何か唱えたり、特別な動作をしたりは?」

「してません」

「血を流した?」

「いいえ」

「何かを石碑へ捧げた?」

「いいえ」

「では、本当に触れただけ?」

「……はい」


シリウスは黙った。


リリアも黙る。


やがてシリウスが再び口を開いた。


「その白い生き物について、もう少し詳しく教えてください」

「ルクスですか?」

「ええ」


リリアは思い出しながら説明した。


猫にも狐にも似ていること。真っ白で柔らかな毛。大きな耳と、身体に不釣り合いなくらい大きな尻尾。銀紫色の瞳。


そして、あの場所で気づいたこと。


「耳のところに、花が咲いていたんです」


シリウスのペンが止まった。


「花?」

「はい。白い小さな花です。あの場所に咲いていたものと同じだと思います」

「以前から?」

「いいえ。少なくとも、お店に来たときにはなかったです。今日、石碑のところで見たら咲いていて」

「間違いありませんか」

「はい」


初めて、シリウスの表情がわずかに変わった。


本当に、ほんの少しだった。


けれど、人の顔をよく見る癖のあるリリアは気づいた。


何かを知っている。


「……あの」

「何でしょう」

「ルクスのこと、知ってるんですか?」


シリウスはすぐには答えなかった。


「現時点では、何とも言えません」

「そうですか」


教えてくれないらしい。


「では、空が変化したあとのことを」

「はい」


リリアは続きを話した。


石碑から光が空へ昇ったこと。夕焼けだった空が白銀に変わったこと。そこへ無数の星が流れ始めたこと。


その後、王宮から来た騎士たちが現れた。


気づいたときには、ルクスはいなくなっていた。


「以上です」


シリウスは書類を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。


リリアは待った。


一分も経っていないはずなのに、ずいぶん長く感じる。


「あの」

「何でしょう」

「やっぱり、触ったらいけないものだったんでしょうか」

「それを確認しています」

「壊してはいません」

「それは確認済みです」

「よかった……」


思わず胸を撫で下ろす。


シリウスの眉がわずかに動いた。


「心配していたのは、そこですか」

「だって、すごく古そうだったので」

「……そうですか」


また少し沈黙が続いた。


リリアは思い切って聞いた。


「それで、私は帰ってもいいんでしょうか」


シリウスは答えなかった。


その沈黙で、嫌な予感がした。


「……帰れないんですか?」

「今夜は王宮に滞在してください」

「今夜?」

「はい」

「どうしてですか?」

「確認しなければならないことが、まだあります」

「でも、家に何も持ってきてません」

「必要なものはこちらで用意します」

「明日は仕事があります」

「勤務先にはこちらから事情を伝えます」


そこまでされるのか。


「マダム・エレナ、心配してると思うんです」

「すでに使いを出しています。あなたが王宮にいることは伝わるでしょう」


少しだけ安心した。


でも、もう一人。


「……ヴァレンには?」

「ヴァレン?」

「隣の家に住んでる人です。たぶん、私が帰ってないと――」


言いながら、リリアは気づいた。


ヴァレンは王都騎士団長だ。


今夜の騒ぎなら、きっと仕事をしている。


「いえ。たぶん大丈夫です」


シリウスは何も言わず、その名前だけを書き留めた。


「他に質問はありますか?」

「今はありません」

「では、今日は休んでください」

「はい」


立ち上がったものの、まだ分からないことだらけだった。


扉へ向かい、途中で振り返る。


「あの、宰相様」

「何でしょう」

「ルクスを見つけたら、教えてもらえますか?」

「……なぜです」

「急にいなくなったから。心配なので」


シリウスはリリアを見た。


「分かりました」

「ありがとうございます」


頭を下げ、リリアは部屋を出た。


扉が閉じる。


シリウスはしばらく動かなかった。


それから机の端に置いていた古い本を開いた。王宮の書庫から急ぎ運ばせた、王家に関する古い記録だった。


擦れた頁に、花を象った紋章が描かれている。


今夜、旧市街で光を放ったものと同じ紋章。


その下に残された古い記述を、シリウスはもう一度読む。


王位を継ぐ資格を持たぬ者は、古き碑へ辿り着くことはできない。


正統な王位継承者は、すでにいる。


王太子ノア。


それなのに、王家と何の関わりもないと話す十八歳の娘が、誰にも場所を教えられず、石碑へ辿り着いた。


しかも、その娘を導いたのは――白い生き物。


シリウスは本を閉じた。


*


部屋を出たリリアを待っていたのは、一人の若い女性だった。


二十代前半くらいだろうか。栗色の髪をきちんとまとめ、濃紺の侍女服を着ている。


「リリア様ですね」

「はい」

「ヴィオラと申します。本日のお世話を担当するよう申しつかっております」

「あ……よろしくお願いします」


リリアが頭を下げると、ヴィオラも丁寧に頭を下げた。


そして、リリアを見る。


髪。


服。


裾。


靴。


リリアも自分を見る。


旧市街を歩き回った靴には土がついている。服にも少し汚れがある。髪にいたっては、朝とはかなり違う状態になっているはずだ。


「……汚れてますよね」

「いえ」


一拍。


「少々」

「やっぱり」


ヴィオラは申し訳なさそうに微笑んだ。


「まずは湯浴みをお願いいたします」

「……お風呂?」

「はい」

「今からですか?」

「はい」


リリアは思わず、今出てきたばかりの扉を振り返った。


宰相にいろいろ聞かれた。


帰れないと言われた。


その次がお風呂。


王宮というところはよく分からない。


案内された浴室を見て、さらに分からなくなった。


「……広い」


白い石で造られた浴槽には湯気が立ち、棚には香油や石鹸らしきものがいくつも並んでいる。


「では、お手伝いいたします」


ヴィオラが当然のように言った。


「大丈夫です」

「はい?」

「一人で入れます」

「もちろん存じております」

「じゃあ、一人で……」

「ですが、本日は私がお手伝いいたします」

「どうして……?」


ヴィオラも困ったように黙った。


どうやら、そういうものらしい。


結局リリアは、生まれて初めて、ほとんど他人と言っていい相手に髪を洗ってもらうことになった。


「……長いですね」

「よく言われます」

「これ、ご自分で洗っていらっしゃるんですよね?」

「はい」

「毎日?」

「はい」


ヴィオラの手が止まった。


「……大変じゃありません?」

「大変です」

「ですよね」


そこで初めて、ヴィオラが少し笑った。


リリアもつられて笑う。


それまでどこか緊張していたヴィオラの肩から、少しだけ力が抜けたように見えた。


湯浴みを終えると、今度は服が用意されていた。


淡い藤色のドレスだった。


派手な装飾はない。けれど、生地には柔らかな光沢があり、袖口には細かな刺繍が施されている。どう見てもリリアが普段着ているものより上等だった。


「これを私が?」

「はい」

「借りてもいいんですか?」

「そのためにご用意しておりますので」

「汚したら……」

「大丈夫です」


ヴィオラは即答した。


リリアは恐る恐る袖を通した。


腰を整えられ、背中の留め具を留めてもらう。そのあと椅子へ座らされ、長い髪を丁寧に梳かれた。


淡い桜色の髪が、鏡の中で艶やかに整えられていく。


最後に一部をゆるくまとめられ、ヴィオラが満足そうに手を離した。


「できました」


リリアは鏡を見る。


淡い藤色のドレス。綺麗に整えられた長い髪。普段より少しだけ大人びて見える。


しばらく眺める。


「……誰?」

「リリア様です」

「知ってます」


ヴィオラが吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえた。


「すみません」

「いいですよ」


リリアも少し笑った。


王宮へ来てから、初めて緊張が解けた気がした。


「こちらへどうぞ」


今度はヴィオラについて王宮の奥へ進む。


廊下を曲がり、階段を上り、また廊下を曲がる。


「ヴィオラさん」

「はい」

「これ、一人で歩いたら迷いますよね」

「最初は皆さん迷われます」

「ヴィオラさんも?」

「三回ほど」

「三回」

「……五回だったかもしれません」


少しだけ親近感が湧いた。


やがてヴィオラが一つの扉を開けた。


「こちらです」


リリアは中を覗いた。


そして、止まった。


「……ここ?」

「はい」

「私の?」

「今夜お使いいただくお部屋です」


広い。


とにかく広い。


大きな寝台には天蓋があり、窓には重そうなカーテンが下がっている。暖炉の前にはソファ。その横には小さなテーブル。壁には絵画が掛けられ、花の彫刻が施された家具が並んでいる。


自分の家なら、この部屋だけで一階のかなりの部分を占めるのではないだろうか。


リリアは部屋の中央まで歩いた。


「……落ち着かない」


ヴィオラが少し笑った。


「何か必要なものはございますか?」

「いえ、大丈夫です」

「何かありましたら、扉の外に控えている者へお申しつけください」

「外に人がいるんですか?」

「はい」


ますます落ち着かない。


ヴィオラは一礼した。


「では、おやすみなさいませ、リリア様」

「あ、ヴィオラさん」

「はい?」

「今日はありがとうございました」


ヴィオラは少し驚いた顔をしたあと、柔らかく笑った。


「おやすみなさいませ」

「おやすみなさい」


扉が閉まる。


静かになった。


リリアは一人、広すぎる部屋に取り残された。


自分の袖を見る。


綺麗な藤色。


寝台を見る。


大きい。


窓を見る。


遠い。


もう一度、寝台を見る。


「……どうしてこうなったんだろう」


返事をしてくれる人はいない。


リリアは窓辺へ歩いた。


そこからは、夜のリュネールが一望できた。


高い。


いつも見上げていた街を、今は王宮から見下ろしている。


Lilasはどの辺りだろう。


自分の家は。


コレットの仕立屋は。


そして、自分の家の隣にあるヴァレンの家。


「ヴァレン……怒るだろうな」


帰りが遅いどころではない。


王宮にいる。


しかも、ちゃんと話すこともできていない。


マダム・エレナも心配しているだろう。コレットだって、今日別れたばかりなのに。


ほんの数時間前まで、明日も今日と同じように続くと思っていた。


朝になればLilasへ行く。


花の水を替える。


本を整える。


コーヒーの香りがして、マダム・エレナが店へ来る。


そんな明日を疑ったこともなかった。


「……帰りたいな」


口にすると、急に心細くなった。


リリアは窓から離れた。


何か別のことを考えよう。


部屋を見回す。


そして、棚を見つけた。


「……本、ないかな」


あった。


数冊だけだが、本が並んでいる。


リリアは少し元気になって近づいた。


『セレニア王宮建築史』


『王家儀礼典範』


『古典詩選集』


「……難しい」


それでも、一冊抜いた。


寝台へ腰掛ける。


身体が沈んだ。


「……柔らかすぎる」


家のベッドが恋しい。


リリアは『セレニア王宮建築史』を開いた。


三頁読んだ。


何も頭に入らなかった。


もう一度、最初から読む。


やっぱり入らない。


白い花。


ルクス。


石碑。


白銀の空。


流れ星。


そして、シリウスの言葉。


――確認しなければならないことが、まだあります。


何を確認するのだろう。


なぜ、自分は帰れないのだろう。


リリアは本を閉じた。


「……ルクス」


あの子なら、何か知っているのだろうか。


窓の外には、もう流れ星はなかった。


*


同じころ。


シリウスの執務室を、一人の男が訪れていた。


「お呼びですか、宰相閣下」


二十九歳。整った顔立ちに、人好きのする笑みを浮かべている。


「こんな時間に呼び出されるということは、あまり楽しいお話ではなさそうですね」


「アルタイル」

「はい」


シリウスは一枚の紙を差し出した。


アルタイルが目を落とす。


「今夜の件ですか」

「そうだ」

「石碑のところにいたという?」

「あの娘が触れた直後、石碑が反応した」


アルタイルの笑みが薄くなる。


「……本人が?」

「そう証言している」

「偶然という可能性は」

「だから調べる」


シリウスは眼鏡を押し上げた。


「リリアについて調べろ」

「どこまで?」

「すべてだ」


アルタイルが眉を上げる。


「出生。両親。親族。家系を遡れるところまで。現在の生活、交友関係、借財、犯罪歴。王宮へ近づく目的になり得るものがないかも確認しろ」

「ずいぶん徹底しますね」

「当然だ」


シリウスは机の上に置かれた古い記録へ目を落とした。


「王位を継ぐ資格を持たぬ者は、あの場所へ辿り着くことすらできないと伝えられている」


アルタイルから笑みが消えた。


「……それは」

「しかも、彼女を導いたのは白い生き物だ」


沈黙が落ちる。


「《白き花の守り手》」


アルタイルが静かに口にした。


「まだそうと決まったわけではない」

「ですが、疑うには十分でしょうね」

「だから調べろ」


アルタイルはもう一度、紙を見る。


「いつまでに?」

「可能な限り、今夜中に」


アルタイルが顔を上げた。


「今夜中?」

「不満か」

「いえ。宰相閣下は相変わらず人使いが荒いなと思いまして」

「口を動かす暇があるなら行け」

「はいはい」

「返事は一度でいい」

「はい」


アルタイルは紙を手に、扉へ向かった。


その手が取っ手にかかったところで、シリウスが呼び止める。


「アルタイル」

「はい?」

「王都騎士団長についても確認しろ」


アルタイルが振り返った。


「王都騎士団長?」

「ヴァレン。彼女の幼馴染だそうだ」


わずかな沈黙。


それから、アルタイルの目に少しだけ興味が宿った。


「……それはまた」

「余計な想像はするな」

「まだ何も言ってませんよ」


アルタイルは笑って、今度こそ部屋を出ていった。


扉が閉まる。


シリウスは一人、古びた記録を開いた。


擦れた頁には、今夜光を放ったものと同じ花の紋章が描かれている。


王太子ノアがいる。


正統な王位継承者が、すでにいる。


それなのに、王家とは何の関わりもないという十八歳の少女が、誰にも場所を教えられず、古き碑へ辿り着いた。


シリウスは眼鏡を外し、眉間を押さえた。


今夜、王宮に連れてこられた一人の少女。


その存在が何を意味するのか。


まだ、誰にも分からなかった。

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