第十章 王宮から来た男
「今夜はデートの予定だったんだけどな……」
王宮の長い廊下を歩きながら、アルタイルは小さく呟いた。
当然、返事をする者はいない。
時刻はとうに夜更けを過ぎている。本来なら今ごろ、気に入りの店で食事をしていたはずだった。それがどうして、十八歳の娘の身辺を調べることになっているのか。
原因はもちろん、昨夜セレニア王国の空を覆った異変だった。
夕暮れの空が白銀に染まり、数えきれないほどの星が降った。王宮は今も騒然としている。
そして、その中心にいたのがリリアという娘らしい。
「今夜中、ねえ」
アルタイルは手にした紙へ視線を落とした。
無茶を言う。
もっとも、シリウスが無茶を言うのは今に始まったことではない。
王宮で外交と儀礼を担当するアルタイルは、二十九歳という若さながら、他国の使節や貴族を相手にすることに慣れていた。
赤みのある栗色の髪に、緑の瞳。整った顔立ちはどちらかといえば柔らかく、口元にはいつも人好きのする笑みが浮かんでいる。
初対面の相手ともすぐに打ち解け、気難しい相手にもするりと懐へ入り込む。女性から好意を寄せられることも多く、本人もそれを嫌ってはいない。
ただし、軽やかな物腰だけで今の地位まで来たわけではなかった。
相手の言葉。表情。沈黙。視線が動いた先。何を話し、何を話さなかったか。
そうしたものを拾うことに、アルタイルは長けていた。
外交とは、笑顔で交わす会話だけではない。時には、相手自身も話したつもりのないことまで持ち帰るのが仕事だった。
「さて」
アルタイルは紙を折り畳んだ。
「どんなお嬢さんなんでしょうね」
*
調査は、記録を辿るところから始まった。
リリア、十八歳。リュネール生まれ。
父親は六年前、病により死亡。母親は四年前、当時王都でも流行した風邪で死亡。兄弟はいない。
現在は両親が残した家で一人暮らし。
十四歳から、Lilasというブックカフェに勤務。
犯罪歴なし。大きな借財もなし。王宮への出入りなし。確認できる範囲では、貴族との特別な関係も見当たらない。
アルタイルは書類を一枚めくった。
「……普通だな」
あまりにも普通だった。
王家へ恨みを抱いている形跡もなければ、王宮へ取り入ろうとしていた様子もない。むしろ、王宮とは縁遠い。
昨夜までの人生だけを見れば、王都で働きながら一人で暮らしている、ごく普通の娘だった。
その娘が、古い伝承に残る石碑へ辿り着いた。
「だから困るんですよねえ」
何か怪しいものが一つでも出てくれば、まだ話は簡単だった。
アルタイルは書類を閉じた。
紙の上だけでは足りない。
ならば、本人を知る者に聞くしかない。
*
翌朝。
Lilasの扉を開けると、ベルが軽やかに鳴った。
花の香りと、淹れたてのコーヒーの匂い。
店内には朝の光が差し込み、入口近くには色とりどりの花が並んでいる。その奥には本棚が続いていた。
「いらっしゃいませ」
声をかけたのは、栗色の髪を後ろでまとめた女性だった。
アルタイルはいつもの笑みを浮かべる。
「王宮で外交・儀礼官を務めております、アルタイルと申します。マダム・エレナでいらっしゃいますか?」
「そうだけど」
エレナの目が、アルタイルの服装から胸元の徽章へ移った。
「リリアのことでしょう」
先に言われた。
「ええ。少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」
「その前に教えて。あの子はいつ帰ってくるの?」
「申し訳ありません。今のところ、まだお答えできません」
「そう」
エレナはそれ以上問い詰めなかった。ただ、花を整えていた手がわずかに止まった。
「では、こちらからいくつか伺っても?」
「仕事をしながらでよければ」
「もちろんです」
アルタイルは店内を見回した。
花。本。奥には喫茶の席。
昨日まで、リリアはここにいた。
「十四歳から働いているそうですね」
「ええ」
「随分若い」
「母親を亡くしたばかりだったから」
「お母様とはお知り合いで?」
「昔からの友人よ」
「それで、こちらで働くように?」
「ちょうど人手が足りなかったの」
エレナは花の茎を切り揃えながら答えた。
「あの子に仕事を頼んで、働いた分はきちんと払う。それだけよ」
「なるほど」
その言葉の選び方を、アルタイルは覚えておく。
「どんな従業員です?」
「真面目。覚えも悪くない。本のことなら私より詳しいこともある。花も扱えるし、接客もできる」
エレナは少し考えた。
「たまに本を読みすぎるけど」
「勤務中に?」
「そこまでではないわ」
「そこまでは」
「休憩が終わってることに気づかないくらい」
「なるほど」
アルタイルは笑った。
「何か変わったことは?」
「変わったこと?」
「王宮に興味を持っていたとか。貴族と親しくしていたとか。最近、急に羽振りがよくなったとか」
「ないわね」
迷いのない答えだった。
「では、政治に関心は?」
「最近、税の本を読んでたわ」
「税?」
「市場でいろいろあったからでしょう。気になったら自分で調べないと気が済まないのよ、あの子」
アルタイルはそれを書き留めた。
「他には?」
「特に思いつかないわ」
エレナはそう答えてから、手元の花へ視線を落とした。
「……ねえ」
「はい?」
「聞きたいことがあるなら、いくらでも答えるわ」
花の茎を切る鋏が、静かに作業台へ置かれた。
「だから、早くリリアを返してちょうだい」
アルタイルは黙ってエレナを見る。
「あの子は十四のときから、ここで働いてる。失敗したら叱ったし、仕事もたくさん任せてきた。もう四年よ」
エレナはほんの少しだけ目を伏せた。
「……私の大切な子なの」
それは母親のような言葉にも聞こえた。
けれど、きっと少し違う。
リリアを子ども扱いせず、一人で生きていけるように働かせてきた人だからこその言葉なのだろう。
アルタイルは、いつもの笑みを少しだけ収めた。
「分かりました」
今度の返事には、軽さがなかった。
「私から帰すとお約束することはできません。ただ、その言葉は必ず王宮へ持ち帰ります」
エレナは小さく頷いた。
話を終え、アルタイルが店を出ようとしたところで、再び呼び止められた。
「アルタイルさん」
「はい?」
「朝ごはんは?」
「え?」
思いがけない質問だった。
「食べてないでしょう」
「どうして分かるんです?」
「顔」
エレナはそう言って、紙袋を差し出した。焼き菓子が二つ入っている。
「聞きたいことがあるなら、また来ればいいわ。朝食くらい食べてから来なさい」
「……ありがとうございます」
アルタイルは素直に受け取った。
店の外へ出て、一つ口にする。
花蜜の柔らかな甘さがした。
「なるほど」
リリアが四年もここで働いている理由が、少し分かった気がした。
*
その後も何人かに話を聞いた。
近所の住人。
よく店へ来る客。
そして、仕立屋の娘。
誰に尋ねても、出てくるのは似たような話だった。
本が好き。
花が好き。
少しお人好し。
好奇心が強い。
時々、周りより自分のことを後回しにする。
そして――王宮とは何の関係もない。
「本当に普通ですね」
アルタイルは歩きながら呟いた。
ただ、一つ。
何人かの話に、同じ名前が出てきた。
ヴァレン。
隣の家に住む幼馴染。
リリアより六歳年上。
王都騎士団長。
昨夜、シリウスからも確認するよう言われた男だ。
「……王都騎士団長、か」
十八歳のブックカフェ店員の交友関係としては、そこだけが少し目立つ。
アルタイルは次の目的地を決めた。
*
王都騎士団の詰所では、昨夜から慌ただしさが続いていた。
異変のあと、市内では大きな混乱こそ起きなかったものの、問い合わせや警戒対応に追われているらしい。
アルタイルが名乗ると、ほどなく団長室へ通された。
扉を開ける。
机の向こうにいた男が顔を上げた。
黒い髪。
鋭い青灰色の瞳。
背が高く、騎士服の上からでも鍛えられていることが分かる。
アルタイルは一目で理解した。
なるほど。
噂になるのも分かる。
ただし、愛想は期待できそうにない。
「王宮外交・儀礼官のアルタイルです。少しお時間を――」
「リリアは無事なのか」
挨拶が終わる前だった。
アルタイルは口を閉じた。
黒髪の男は、机の向こうからまっすぐこちらを見ている。
怒鳴ってはいない。
けれど、部屋に入ったときとは明らかに空気が違っていた。
「……ええ。無事ですよ」
「怪我は」
「ありません」
「なぜあいつなんだ」
アルタイルの目がわずかに細くなる。
「それを調べるために、私はここへ来ました」
「なぜ帰されない」
「現在、彼女は王宮で保護されています」
「保護?」
低い声だった。
「本人が帰りたがっていても?」
アルタイルは答えなかった。
その沈黙だけで、ヴァレンには十分だった。
「……いつまでだ」
「現時点では申し上げられません」
「何があった」
「それもお話しできません」
「なら、何を聞きに来た」
ぴしゃりと言われる。
アルタイルはしばらくヴァレンを見た。
昨夜から眠っていないのだろう。目の下にはわずかに疲労が滲んでいる。それでも背筋は伸び、机の上には昨夜の騒動に関する報告書が積まれていた。
ただ、その青灰色の目だけがひどく冷たい。
「リリアについて、いくつか確認したいことがあります」
「答えろと言うなら、先にそっちが答えろ」
「難しいですね」
「なら帰れ」
即答だった。
アルタイルは思わず息をつく。
「……ずいぶん嫌われたものですね」
「お前個人に興味はない」
「それはそれで傷つくなあ」
冗談を挟んでも、ヴァレンの表情は動かなかった。
アルタイルはようやく笑みを消した。
「彼女に危害を加えるための調査ではありません。それだけはお約束します」
「約束?」
ヴァレンの目が細くなる。
「昨夜、あいつを連れていった連中も、同じようなことを言った」
空気が張りつめた。
「その結果が、一晩経っても帰ってこない、だ」
アルタイルは何も返さなかった。
「無事だと言うなら会わせろ」
「それはできません」
「なぜだ」
「現在、彼女は王宮の保護下にあります。面会には許可が必要です」
「なら取れ」
「現時点では許可できません」
ヴァレンが立ち上がった。
背の高い男が机越しにこちらを見下ろす。
剣に手をかけたわけではない。
それでもアルタイルは、反射的にその腰の剣へ視線を落とした。
王都騎士団長。
若くしてその地位まで上がった男が、本気で怒っている。
「俺は王都騎士団長だ」
声を荒らげたわけではない。
それでも、その一言には十分な重みがあった。
アルタイルも立ち上がる。
「存じています」
「王都で保護された市民の安否を確認する」
アルタイルは静かにヴァレンを見返した。
「ここは王都ですが――彼女がいるのは、王宮です」
一瞬、沈黙が落ちた。
「申し訳ありませんが、王都騎士団長の権限で面会を許可することはできません」
ヴァレンは動かなかった。
ただ、机についた手が強く握られる。
王都で起きる事件なら動ける。
市民を守るためなら、部下を率いることもできる。
そのために登ってきた。
力だけでは守れないものがあると知ったから、権限を持つ側へ行こうとした。
王都騎士団長にまでなった。
それなのに。
まだ、足りなかった。
「……あいつは」
ヴァレンが低く言う。
「ごく普通の平民だ。何かしらの事件に巻き込まれた可能性の方が高いだろう。自分で何か大それたことをするやつじゃない」
一拍置いて、
「一刻も早く、解放を」
その声には怒りがあった。
けれど、それ以上に――恐れている。
アルタイルはそこで初めて、この男が何を警戒しているのか理解した。
リリアが何かをすることではない。
王宮が、リリアに何かをすることを警戒している。
「……分かりました」
アルタイルは静かに答えた。
「あなたの言葉も、宰相閣下へ伝えます」
「伝えるだけか」
「私に約束できるのは、そこまでです」
ヴァレンは何も言わなかった。
アルタイルは一礼し、扉へ向かう。
その背中へ、低い声が飛んだ。
「待て」
「はい?」
振り返る。
「リリアに会うことがあるなら」
ヴァレンは一度言葉を切った。
「……いや。いい」
アルタイルは少しだけ眉を上げる。
「何か伝えますか?」
「会ったときに言う」
それ以上、ヴァレンは何も言わなかった。
アルタイルは軽く頭を下げ、部屋を出た。
廊下を歩きながら、手元の紙へ視線を落とす。
ヴァレン。
王都騎士団長。
幼馴染。
紙の上では、それだけだ。
けれど。
「……なるほど」
アルタイルは小さく呟いた。
少なくとも、ただ隣に住んでいるだけの男ではなさそうだった。
*
王宮へ戻ったころには、昼を過ぎていた。
シリウスは相変わらず執務机に向かっていた。
「戻りました」
「遅い」
「街中を歩かせておいて、それを言います?」
アルタイルは机の前まで進み、まとめた書類を置いた。
「それで?」
「今のところ、不審な点はありません」
シリウスが顔を上げる。
「今のところ?」
「ええ」
アルタイルは指を折る。
「リュネールで生まれて、両親と暮らしていた。十二歳で父親を亡くし、十四歳で母親を亡くした。その後は両親が残した家で一人暮らし。十四歳から現在までLilasに勤務。犯罪歴なし。大きな借財なし。王宮との接点もなし。貴族との特別な付き合いも確認できませんでした」
「周囲の評判は」
「真面目。本好き。花好き。好奇心が強い。少しお人好し」
アルタイルは肩をすくめた。
「驚くほど普通のお嬢さんです」
シリウスは黙って報告書を見る。
「ただし、王都騎士団長とは幼馴染です」
「ヴァレンか」
「生まれたときからの付き合いだそうです」
アルタイルは少し笑った。
「かなり心配していましたよ」
「それは調査に必要な情報か?」
「人間関係も調べろと言ったのは宰相閣下でしょう」
「余計な解釈はいらん」
「はい」
シリウスが報告書をめくる。
「家系は?」
アルタイルの表情が変わった。
「そこなんですが」
別の紙を取り出す。
「父方、母方ともに確認を進めています。少なくとも、すぐに王家へ繋がるような記録はありません」
「なら、なぜあの場所へ辿り着けた」
「それが分かれば、私もデートを潰された甲斐があるんですけどね」
シリウスが冷たい目を向ける。
「冗談です」
アルタイルはすぐに続けた。
「もう少し時間をください。古い記録になるほど、保管場所が分かれています。教会の記録や古い住民台帳も当たってみます」
「急げ」
「分かっています」
アルタイルは報告書を閉じた。
昨夜までは、名前すら知らなかった娘。
花と本のある店で働き、休日には友人と街を歩き、両親の残した家へ帰る。
そんな、ごく普通の十八歳。
そのどこに、王家へ繋がるものがあるのか。
今のところ、何も見つからない。
だからこそ。
昨夜、古き碑が彼女を受け入れたという事実だけが、ひどく不自然に浮かび上がっていた。




