第十一章 王太子殿下
目を覚ました瞬間、リリアは見慣れない天井を見つめた。
白い天井には繊細な花模様が描かれ、窓から差し込む朝の光が薄いカーテンを透かしている。
「……そうだった」
王宮だ。
昨日の夕方までは、コレットと街を歩いていた。
焼き菓子を食べて、本屋に寄って、帰り道でルクスを見つけた。それから古い石碑に辿り着いて、触れた途端に空が光って、星が降って――気づけば王宮に連れてこられていた。
一晩眠れば何かが元に戻っているような気がしていたけれど、そんなことはなかったらしい。
リリアは寝台の上で身体を起こした。
「帰りたい……」
思わず声に出したところで、扉が叩かれた。
「リリア様、起きていらっしゃいますか?」
聞き覚えのある声に、少しだけ安心する。
「はい」
入ってきたのは、昨夜からリリアの世話をしてくれている王宮の侍女、ヴィオラだった。
「おはようございます。昨夜は眠れましたか?」
「少しだけ」
「やっぱり」
ヴィオラは苦笑した。
「私も初めて王宮に泊まった日は眠れませんでした。夜になると妙に静かなんですよ、ここ」
「分かります」
リリアは大きく頷いた。
「Lilasには、本当に連絡していただけたんですよね?」
「はい。昨夜のうちに」
「マダム・エレナ、怒ってないかな……」
「怒るんですか?」
「急に仕事を休んでるので」
「それはリリア様のせいではないような……」
ヴィオラは困ったように笑った。
「それより、今日は少し急いで支度をした方がよさそうです」
「どうしてですか?」
「先ほど、面会のお知らせがありました」
「面会?」
ヴィオラは少しだけ姿勢を正した。
「王太子殿下が、リリア様にお会いになります」
リリアは瞬きをした。
「……王太子殿下?」
「はい」
「どうして私が?」
「私に聞かれましても……」
ヴィオラも困った顔をしている。
「昨日は宰相様で、今日は王太子殿下……」
リリアは両手で顔を覆った。
「帰りたい……」
「さっきも仰ってましたね」
「昨日より帰りたいです」
*
支度を終える頃には、緊張で指先まで冷たくなっていた。
今日は白に近い薄桃色のドレスが用意されていた。淡い桜色の長い髪も丁寧に梳かれ、背中へ流されている。
「王太子殿下にお会いするときは、どうすればいいんでしょう」
リリアが尋ねると、ヴィオラは歩きながら最低限の礼を教えてくれた。
呼ばれるまで勝手に話しかけないこと。
正式な場では「殿下」と呼ぶこと。
退出するときにも礼をすること。
「それから……」
「まだあります?」
「あります」
「覚えられるかな……」
「全部完璧にできなくても大丈夫ですよ」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
不安になった。
長い廊下を進むにつれて、人の数が増えていく。
昨日はただ連れていかれるだけで精いっぱいだったが、朝の王宮はまるで別の場所だった。
書類を抱えて歩く官吏。足早に行き交う侍従。持ち場に立つ騎士。
ここでは大勢の人が働いている。
リリアが知っている王宮は、本の中にあるものだった。
王族が暮らし、舞踏会が開かれ、国の重要なことが決められる場所。
けれど実際の王宮は、もっと忙しい。
一つの巨大な仕事場のようだった。
やがてヴィオラが、一つの扉の前で足を止めた。
「こちらです」
扉の両脇には、王宮の騎士が二人ずつ立っていた。
それだけではない。
廊下を振り返れば、少し離れた場所にも騎士がいる。ここへ来るまでにも、何人もの騎士とすれ違った。
昨日とは明らかに警備の様子が違う。
王太子に会うのだから当然なのだろう。
そう思ったところで、リリアの視線が一人の騎士の腰にある剣で止まった。
王宮の騎士と王都騎士団では、制服も装備も違う。
それなのに、剣を帯びて立つ姿を見た瞬間、ヴァレンを思い出した。
――今頃、どうしてるかな。
昨夜の騒ぎなら、きっと仕事に追われている。
自分が王宮にいることは、もう知っているだろうか。
知っていたら――たぶん、怒っている。
リリアは少しだけ眉を下げた。
会いたい、と思った。
昨日までは、隣の家に帰れば会えた人なのに。
「リリア様?」
ヴィオラに呼ばれ、リリアは我に返った。
「あ、ごめんなさい」
「緊張されています?」
「……はい。かなり」
本当は、それだけではなかった。
扉の前だけでも四人。廊下にも騎士がいる。
そして、この先にいるのは十歳の王太子。
ここまで厳重に守られている人に、自分はこれから会うのだ。
それを考えると、急に自分の置かれている状況が現実味を帯びてきた。
「……ヴィオラさん」
「はい?」
「私、何もしてませんよね?」
「それは私に確認することではないと思います」
「そうですよね……」
扉が開いた。
*
部屋に入って最初に目に入ったのは、大きな窓だった。
その向こうにはリュネールの街と湖が広がっている。
そして、その窓を背にして一人の少年が立っていた。
淡い金色の髪。きちんと整えられた服。まだ小さな身体には、その装いが少し重そうにも見える。
肖像画で見たことがある。
ノア・アルヴェール。
セレニア王国の王太子。
いずれ、この国の王となる人。
リリアは慌てて、教えられた通りに礼をした。
「リリア・ローレンと申します。王太子殿下にお目にかかれて光栄です」
言えた。
たぶん。
少なくとも途中で噛まなかった。
「顔を上げてください」
まだ幼さの残る声だった。
「はい」
顔を上げる。
そして、リリアは少し驚いた。
――小さい。
もちろん、ノアが十歳だということは知っていた。
知っていたけれど、数字として知っていることと、実際に目の前にすることは違う。
王太子。
次の王。
そういう言葉ばかりが先にあった。
けれど、こうして間近で見ると、本当にまだ十歳の少年なのだ。
「初めまして。ノアです」
それでも、話し方はしっかりしている。
「昨夜のことについて、私からもあなたに聞きたいことがあります」
「はい、殿下」
リリアはそこで、改めて室内を見た。
ノアの近くには一人の男が控えている。そのほかにも侍従が二人。
そして、壁際には四人の騎士が立っていた。
扉の外にいた者まで合わせれば、いったい何人いるのだろう。
リリアはようやく理解した。
これはただの面会ではない。
王宮はまだ、自分が王太子のそばにいて安全な人間なのかどうかさえ、判断していないのだ。
そのとき、ノアの近くに立っていた男が一歩前へ出た。
五十歳ほどだろうか。
灰色の混じった髪は隙なく整えられ、身につけている服にも乱れ一つない。穏やかな表情と落ち着いた声は、いかにも長く王宮に仕えてきた人物という印象を与えた。
「その前に、私からもご挨拶を」
男は丁寧に頭を下げた。
「オルディスと申します。先王陛下の御代より、王国の政務に携わっております」
リリアも慌てて礼を返す。
「初めまして」
「昨夜は大変でしたね。突然王宮へ来ることになり、不安な思いをされたでしょう」
「……はい」
正直に答えると、オルディスは柔らかく微笑んだ。
「心配はいりません。いくつか確認が済めば、今後についてもお話しできるかと思います」
優しそうな人だ。
少なくとも、昨日の宰相シリウスよりは話しやすそうに見える。
「では、座ってください」
ノアに促され、リリアは用意された椅子に腰掛けた。
「昨日、あなたは古い庭園にある石碑へ辿り着いたと聞きました」
ノアが口を開いた。
「はい」
「一人で?」
「途中までは一人でした」
「途中まで?」
リリアは少し迷った。
「ルクスがいました」
「ルクス?」
ノアが首を傾げる。
「白い生き物です。猫みたいな……狐みたいな」
「どちらなのです?」
「それが、私にもよく分からなくて」
ノアが黙った。
リリアも黙った。
「……名前はあなたがつけたのですか?」
「はい。古い言葉で『光』という意味があると本で読んだことがあって」
「その生き物が、あなたを石碑まで?」
「そうだと思います」
ノアは考えるように視線を落とした。
「なぜ、ついて行ったのですか?」
昨日も聞かれた質問だ。
「気になったので」
「……それだけ?」
「はい」
ノアの顔に、わずかに戸惑いが浮かんだ。
リリアは少し不安になる。
「やっぱり、ついて行かない方がよかったでしょうか」
「それは……」
ノアが言葉に詰まる。
代わりにオルディスが口を開いた。
「結果を知った今なら、そう言うこともできます。しかし、昨夜の時点で彼女が何かを予測することは難しかったでしょう」
「……そうですね」
ノアは素直に頷いた。
その様子を見て、リリアは少しだけ緊張が解けた。
怖い人ではなさそうだ。
少なくとも、自分を責めるために呼んだわけではないらしい。
「石碑には、何がありましたか?」
ノアが尋ねる。
リリアは昨日の光景を思い出した。
「花のような紋章がありました。それから、周りに白い花がたくさん咲いていて……」
「白い花?」
「はい。私の知らない花でした」
ノアがオルディスを見る。
「オルディス。あの場所には、以前から花が?」
「私の知る限りでは、そのような記録はございません」
「では、昨日突然?」
「その可能性はございます」
ノアの眉が寄る。
「それから?」
「ルクスの耳の辺りにも、白い花が咲いていました」
「生き物に?」
「はい。最初に会ったときにはなかったんです。でも昨日は……」
リリアは自分でも説明しながら、妙な話だと思った。
白い猫とも狐とも分からない生き物。
知らない花。
古い石碑。
セレニア王国の空を覆った、あの星。
どう考えても、普通ではない。
「それで、石碑に触れました」
ノアが真剣な顔になる。
「触れた直後に?」
「光りました」
「空も?」
「はい」
リリアは膝の上で手を握った。
「……やっぱり、私がやったんでしょうか」
部屋が静かになった。
ノアが答えようとしたが、その前にオルディスが口を開いた。
「まだ分かりません」
穏やかな声だった。
「あなたが石碑に触れたことと、昨夜の現象に関係がある可能性は高いでしょう。しかし、それが何を意味するのかは現在調査中です」
「そうですか……」
「ですから、今はご自身を責める必要はありません」
リリアは小さく頷いた。
やはり、優しい人だと思った。
そのとき、ノアが尋ねた。
「オルディス。あの石碑について、父上は何か仰っていましたか?」
「先王陛下も、詳しくはご存じなかったかと存じます」
「そうですか」
「何百年も前の伝承にすぎません。現時点では、それ以上のことは――」
「でも」
ノアが静かに言葉を挟んだ。
「彼女には、伝えておいた方がいいと思います」
オルディスがノアを見る。
ほんの一瞬だった。
けれどリリアには、彼が何かを考えたように見えた。
「……殿下がそうお考えでしたら」
ノアがリリアへ向き直る。
先ほどまでより、少しだけ表情が硬くなっていた。
「あの石碑には、古い言い伝えがあります」
「どんなものですか?」
「王位を継ぐ資格を持たない者は、あの場所へ辿り着くことができないそうです」
リリアは瞬きをした。
一度では意味が分からなかった。
「……王位?」
「はい」
「王位って……」
聞き返してから、自分でもおかしな質問だと思った。
王位は王位だ。
この国の王になる、その地位。
リリアは目の前にいる少年を見る。
王太子。
正式に王位を継ぐはずの人。
「でも、殿下がいらっしゃいますよね?」
「います」
本人が答えた。
「ですよね」
「はい」
二人で見つめ合う。
何だろう、この会話は。
リリアは混乱したままオルディスを見る。
「では、どうして私が?」
オルディスは穏やかな表情を崩さなかった。
「それを、王宮も調べているところです」
「私、平民です」
「承知しております」
「両親も普通の人でした」
「それも現在確認しております」
「王宮に来たのも昨日が初めてです」
「ええ」
何を言っても状況が変わらない。
リリアは困り果ててノアを見る。
ノアも少し困った顔をしていた。
「……私も、よく分かっていません」
その言葉で、初めてリリアは気づいた。
この少年も、自分と同じなのだ。
周囲の大人たちから突然、古い石碑の話を聞かされた。
自分は王位を継ぐはずなのに、見知らぬ娘までそこへ辿り着いたと言われた。
きっと、ノアにとっても訳の分からない出来事なのだ。
「そうですよね」
思わず普通に返してしまった。
ノアが少し目を丸くする。
「あ……申し訳ありません、殿下」
慌てて言い直す。
けれどノアは怒らなかった。
「構いません」
ほんの少しだけ、その表情が緩んだ。
その後、いくつか同じような質問を受け、面会は終わった。
結局、何も分からなかった。
分かったことといえば、自分が思っていたよりもずっと大変なことに巻き込まれているらしい、ということくらいだ。
「本日はこれで結構です」
オルディスが告げる。
リリアは立ち上がった。
「ありがとうございました」
教えられた通りに礼をして、扉へ向かう。
早く部屋に戻りたい。
できることなら、そのままLilasへ帰りたい。
扉に手がかかる直前だった。
「……待ってください」
ノアの声がした。
リリアは振り返る。
「はい、殿下?」
ノアは何かを言おうとして、一度口を閉じた。
オルディスがそばにいる。
騎士も侍従もいる。
それでも、少し迷ったあとでノアは尋ねた。
「昨夜の星は……近くで見ると、綺麗でしたか?」
リリアは目を瞬いた。
それまでの質問とは、まるで違った。
石碑でもない。
王位でもない。
ルクスでもない。
「……はい」
昨夜の空を思い出す。
白銀の光。
次々と夜空を走った星。
怖くて、何が起きたのか分からなくて。
それでも。
「とても綺麗でした」
ノアの目がわずかに輝いた。
リリアは少し考えてから付け加える。
「でも、すごく怖かったです」
ノアが、ほんの少しだけ笑った。
「……そうですか」
その顔を見て、リリアはようやく実感した。
王太子でも。
次の王でもなく。
目の前にいるのは、自分より八つも年下の少年なのだ。
「失礼いたします」
もう一度礼をして、リリアは部屋を出た。
扉が閉まる。
静かになった部屋で、ノアはしばらくその扉を見ていた。
「……普通の人に見えました」
「そのようですね」
オルディスは穏やかに答えた。
「本当に、あの人にも王位を継ぐ資格があるのでしょうか」
「古い伝承が、必ずしも事実とは限りません」
「でも、あの場所には辿り着いた」
オルディスは答えなかった。
窓の向こうには、いつもと変わらないリュネールの街が広がっている。
やがてノアは次の予定のため、侍従とともに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
一人残ったオルディスの顔から、ゆっくりと笑みが消えた。
「リリア・ローレン……」
誰もいない部屋で、その名を一度だけ口にする。
古き碑。
白い花。
そして、もう一人の王位継承資格者。
昨日まで存在すら知らなかった娘が、突然、王宮の中心へ入り込んできた。
オルディスは窓の外へ目を向けた。
その目にはもう、先ほどまでの穏やかさは残っていなかった。




