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セレニア王国物語 ~花冠の女王と白き神獣~  作者: n.
第一部 花冠の女王
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13/21

第十二章 もう一人の継承者



「……見つけました」


その一言で、シリウスは書類から顔を上げた。


昼を少し過ぎた頃だった。


朝から続いていた会議を終え、ようやく執務室へ戻ったばかりの宰相シリウスの前に、アルタイルが一冊の古い記録簿を置く。


昨夜からリリアの身辺を調べ続けている外交・儀礼官の顔には、いつもの人当たりのいい笑みがなかった。


「何が見つかった」

「リリア・ローレンの血統です」


シリウスの視線が記録簿へ落ちる。


「母方を遡りました。かなり古い記録まで確認することになりましたが」


アルタイルは数枚の紙を広げた。


出生記録、婚姻記録、古い家系図。


時代も紙の色も違う記録が、一本の線で結ばれている。


「リリアの母、エミリア。その母、そのまた母と遡って――ここです」


アルタイルの指が止まった。


「およそ百年前、アルヴェール王家から臣下へ降嫁した王女がいます」


シリウスは黙ったまま、その名前を見た。


確かに王家の記録に残されている。


王女は婚姻によって王族としての立場を離れ、その子どもたちも王宮ではなく夫の家で育った。


そこからさらに代を重ね、家名も変わり、爵位も失われた。


やがてその子孫は、ごく普通の市民としてリュネールで暮らすようになった。


そして、その血筋の先に一人の娘がいる。


リリア・ローレン。


「……間違いないのか」

「三系統の記録を照合しました」


アルタイルの声は静かだった。


「教会の出生記録、王都の住民記録、それから王宮に残されていた古い婚姻記録。名前だけではなく、生年月日と居住地も一致しています」

「本人は知っているのか」

「まず知らないでしょう」


アルタイルは肩をすくめた。


「王家とのつながりが消えてから、何代経っていると思ってるんです。ローレン家は現在、貴族ですらありません」


シリウスは眼鏡を外し、眉間を押さえた。


昨夜までなら、それだけの話だった。


王族の血が遠く平民の家系へ流れていること自体は、あり得ないことではない。


長い王国の歴史の中で、王族が臣下へ降嫁することもあれば、傍系が爵位を失うこともある。


問題はそこではない。


「……石碑か」

「はい」


アルタイルが答えた。


「遠い傍系の血を引く平民。それだけなら、わざわざ宰相閣下のところへ走ってきたりしません」


古き碑。


王位を継ぐ資格を持たぬ者は、その場所へ辿り着くことさえできない。


何百年も前から残る伝承。


そして昨夜、リリアはそこへ辿り着いた。


石碑に触れた。


白い光が王都を覆い、セレニア王国の空に無数の星が降った。


「……会議を開く」


シリウスは眼鏡を掛け直した。


「今すぐだ」


*


王宮の会議室に呼び出された者たちの間には、明らかな緊張が漂っていた。


長い机の中央に宰相シリウスが座る。


その右手には、内務長官オルディス。


先王の時代から国内行政を取り仕切ってきた古参の官僚であり、王宮でも特に大きな権限を持つ人物だ。


その隣には一人の女性が座っていた。

波打つ長い髪を背に流し、机の上にはすでに何枚もの書類を広げている。


内務省で財務と産業部門を任されているダリアだった。


三十四歳。


オルディスの下で国庫や産業に関わる実務を担い、数字に関しては王宮でも彼女の右に出る者は少ない。


反対側には、地方監察を担当するリゲルがいる。


三十八歳。地方の出身で、王都にいるより各地を巡っている時間の方が長い男だった。


そして末席に、アルタイル。


全員が揃ったところで、シリウスが口を開いた。


「今から話すことは、この部屋の外へ出すな」


空気が変わった。


「昨夜、古き碑へ辿り着いたリリア・ローレンについて、血統調査の結果が出た」


アルタイルが資料を配る。


ダリアは受け取るなり、すぐに目を走らせた。


リゲルも紙をめくる。


オルディスだけが、表情を変えずに待っていた。


「彼女の母方を遡ると、およそ百年前にアルヴェール王家から降嫁した王女へ辿り着く」


沈黙。


最初に声を発したのはダリアだった。


「……王家?」


もう一度、資料を見る。


「このリリア・ローレンが?」

「そうだ」


シリウスが答える。


「ですが、かなり遠い」


ダリアは家系図を指で追った。


「これだけ代を重ねていれば、現在の身分は完全に平民でしょう。王位継承を議論するような距離ではありません」

「通常ならな」


その一言で、ダリアが顔を上げた。


「古き碑ですか」

「そうだ」


今度はリゲルが口を開く。


「つまり、血筋だけなら無視できた。しかし本人が、あの場所へ辿り着いてしまった」

「しかも石碑が反応しました」


アルタイルが続けた。


「昨夜の現象との因果関係はまだ証明できませんが、偶然として片づけるには少々派手すぎますね」


「派手すぎる、で済ませないで」


ダリアが即座に返す。


「昨夜のせいで今朝から問い合わせが殺到してるのよ。市場も港も、あの星が何だったのかって大騒ぎなんだから」

「それはご苦労さまです」

「他人事みたいに言わないで」


アルタイルがわずかに笑ったが、すぐに表情を戻した。


リゲルは資料を見ながら考え込んでいる。


「地方でも同じでしょうね」

「報告は?」

「まだ全部は届いていません。ただ、王都からかなり離れた場所でも確認されたようです」


「セレニア王国全域で見えた可能性がある、ということか」


シリウスの言葉に、誰も答えなかった。


昨夜の現象を目撃したのは王都の人間だけではない。

もし国中の人々が同じ空を見ていたのなら、隠すことなどできない。


やがて、オルディスが静かに口を開いた。


「一つ、分けて考えるべきでしょう」


全員の視線が集まる。


「リリア・ローレンがアルヴェール王家の血を引いていること。そして、古き碑へ辿り着いたこと。この二つです」


ダリアが頷いた。


「血統だけなら、王位継承者とは呼べない」

「ええ」


オルディスは落ち着いている。


「古い王族の血を引く者をすべて探せば、彼女以外にも存在する可能性があります。百年という時間は、それほど短くありません」


「しかし、その中で石碑へ辿り着いた者は確認されていない」


シリウスが言う。


「その通りです」


オルディスは否定しなかった。


「だからこそ、慎重に調査すべきです。古い伝承一つを根拠に、十八歳の平民を王位継承者として扱うことはできません」


「それは同感ね」


ダリアが腕を組んだ。


「王位継承って、昨日までブックカフェで働いていた女の子に突然つけていい肩書きじゃないでしょう」


アルタイルが小さく息を吐く。


「本人も同じことを言いそうですね」

「会ったの?」

「少し調べましたから」

「どんな子?」

「驚くほど普通ですよ」


アルタイルは少し考えた。


「本が好きで、花が好きで、真面目に働いてる。大きな借金も犯罪歴も、政治団体とのつながりもない。王宮に入り込もうとした形跡なんて当然ありません」


「王位への野心は?」


リゲルの問いに、アルタイルは首を振った。


「ないでしょうね。少なくとも昨日までは、自分が王家とつながっていることすら知らなかったはずです」


「本人にはまだ血統のことを知らせていない」


シリウスが言った。


「今朝、王太子殿下との面会で石碑の伝承については伝わった。だが、自身の血筋については知らない」


「殿下と?」


ダリアが少し驚いた。


オルディスが答える。


「私も同席しておりました」


「殿下のご様子は?」

「落ち着いておられました」


オルディスはそこで一度言葉を切った。


「ただし、この件を曖昧なままにしておくべきではないとお考えのようです」


シリウスが目を細める。


「十歳の子どもの耳に、『もう一人の王位継承者が現れた』などという言葉を入れるつもりはない」

「もちろんです」


リゲルがゆっくりと頷いた。


「ただ……いずれ避けられなくなるでしょう」


その言葉に、室内が静まる。


誰も口には出さなかった。


ノア・アルヴェール。


先王の息子。


十歳の王太子。


正式に王位を継ぐ者として、今日まで育てられてきた少年。


そこへ突然、もう一人が現れた。


「そもそも」


ダリアが資料を机へ置いた。


「古き碑が示す『資格』って何なの?」


誰もすぐには答えなかった。


「王位を継ぐ資格を持たない者は辿り着けない。そう伝わっているのは分かった。でも、辿り着いたら王になれるの? 王にならなきゃいけないの? 王太子殿下より優先されるの?」


「分からない」


シリウスが答えた。


「記録が足りない」


「じゃあ現時点で分かっているのは――」


ダリアが指を折る。


「リリア・ローレンには王家の血が流れている。古き碑へ辿り着いた。石碑に触れたら光った。その直後、国中で星が降った」


「そして白い生き物です」


アルタイルが付け加える。


「リリアは『ルクス』と呼んでいます」


オルディスの視線がわずかに動いた。


「《白き花の守り手》との関連は?」

「不明です」


シリウスが答える。


「ただし、リリアの証言では、その生き物の耳元に白い花が現れたという」


再び沈黙が落ちる。


古い伝承。


白い花。


王家の血。


古き碑。


あまりにも多くのものが、一人の娘の周りへ集まり始めている。


リゲルが静かに言った。


「地方では、昔の言い伝えがまだ残っています」


「どんな?」


ダリアが尋ねる。


「《白き花の守り手》は、王統が揺らぐときに現れる、と」


シリウスがリゲルを見る。


「どこの地方だ」

「北西部の村々です。土地によって少しずつ話が違います。子ども向けの昔話になっているところもありますから、史実として扱うのは危険ですが」


「調べろ」

「承知しました」


ダリアが椅子の背にもたれた。


「なんだか、本当におとぎ話みたいになってきたわね」


「昨夜まではな」


シリウスは机の上の家系図を見る。


「だが、おとぎ話の中にしかなかった場所へ、実際に一人の娘が辿り着いた」


そしてその娘には、アルヴェール王家の血が流れていた。


偶然。


そう呼ぶには、重なりすぎている。


「では」


オルディスが静かに尋ねた。


「彼女をどうなさいますか」


全員がシリウスを見る。


それが、この会議で決めなければならない最も現実的な問題だった。


リリア・ローレンを帰すのか。

王宮に留めるのか。

何も知らない市民として扱うのか。

王家につながる者として扱うのか。


「外へ出せば、昨夜の件を知る者が接触する可能性があります」


アルタイルが言った。


「本人は何も知らない。利用しようと思えば簡単でしょうね」


「逆もあるわ」


ダリアが続ける。


「王太子殿下の地位を脅かす存在だと考える人間が出てくるかもしれない」


その言葉で、室内の空気がさらに重くなった。


リリア本人が王位を望むかどうかなど、関係がない。


王位に利用できる。


それだけで、人は動く。


「……危険ですね」


リゲルが呟いた。


「本人にとっても、殿下にとっても」


シリウスはしばらく黙っていた。


昨日まで、リリア・ローレンはただの平民だった。


王都の一角で働く、十八歳の娘。


朝になれば仕事へ向かい、本を並べ、花を束ね、客に茶を出す。


おそらく今日も、本来ならそうしていたはずだ。


だが、もう王宮は彼女をそう扱うことができない。


「当面、リリア・ローレンを王宮の保護下に置く」


シリウスが告げた。


「行動を制限するの?」


ダリアが尋ねる。


「必要最低限だ。監禁するつもりはない。ただし、王宮の許可なく外へ出すことはできない」


「本人には?」

「私から話す」


アルタイルが少し眉を寄せた。


「嫌がるでしょうね」

「だろうな」


シリウスも否定しなかった。


「生家にもしばらく戻れない可能性がありますよ」

「分かっている」


「王都騎士団長にも?」


その一言で、シリウスがアルタイルを見る。


アルタイルは何でもないような顔をしていた。


「昨日、面会を断られた彼です。次はもっと怒ると思いますよ」

「それも分かっている」


短い返事だった。


ダリアが不思議そうに二人を見る。


「王都騎士団長が何?」

「幼馴染だそうです」

「誰の?」

「リリアの」

「……へえ」


ダリアの顔に、一瞬だけ興味が浮かんだ。


「今は関係ない」


シリウスが切った。


「最優先は情報の管理だ。この血統について知る者は、この場にいる者と王太子殿下の周辺でも必要な者に限る。公表はしない」


「異論ありません」


オルディスが答える。


「彼女自身の安全を考えても、それが最善でしょう」


穏やかな声だった。

誰が聞いても、妥当な判断だった。


「それから」


シリウスは古い家系図へ目を落とす。


「王家の記録をさらに遡れ。古き碑が最後に使われた時代までだ。王位継承と石碑が、かつてどのような関係にあったのか調べる」


アルタイルが頷く。


「承知しました」


「リゲルは《白き花の守り手》に関する地方の伝承を集めろ」

「はい」


「ダリア」

「何?」

「昨夜の現象による市場と産業への影響を確認してくれ。妙な便乗値上げが出る可能性もある」

「もう出てるわよ」

「……早いな」

「商人を甘く見ないで」


ダリアはため息をつきながら書類をまとめた。


会議は終わった。

椅子が引かれ、一人、また一人と部屋を出ていく。


最後に残ったオルディスは、机の上の家系図へ視線を落とした。


アルヴェール王家から伸びる一本の細い線。


何代もの名前を経て、その先に書かれている。


リリア・ローレン。


「オルディス?」


シリウスの声に、彼は顔を上げた。


「いえ」


いつもの穏やかな表情に戻る。


「百年という時間は、面白いものだと思いまして」


「何がだ」

「王宮から消えたはずの血が、誰にも知られぬまま残っている」


オルディスは家系図から手を離した。


「そして百年後、自ら王宮へ戻ってくる」


「本人は戻ってきたつもりなどないだろう」

「ええ」


オルディスは微笑んだ。


「だからこそ、厄介なのかもしれません」


そう言って、彼も会議室を出ていった。


残されたシリウスは、一人で家系図を見つめた。


王太子ノア・アルヴェール。

そして、リリア・ローレン。


二人の名は、遠い過去で確かにつながっている。

だが問題は、血ではない。


シリウスは古い記録簿を閉じた。


王家の血を引く者なら、ほかにもいるかもしれない。


けれど――


古き碑は、リリアを拒まなかった。

それこそが、何よりも重かった。


そしてその頃。


自分の知らないところでそんな会議が開かれていたことなど知るはずもなく、リリアは王宮の客室で窓の外を眺めていた。


遠くに、リュネールの街が見える。


そのどこかに、自分の家がある。

会いたい人たちも、いる。


「……今日も帰れないのかな」


小さく呟く。


昨日まで自分が何者だったのか。


それなら、リリアにも分かっていた。


好きなものに囲まれて、慎ましい生活でも働く場所があって。


隣の家にはヴァレンがいて。


いつか小さな店を持ちたいと思っている。


ただの、リリア・ローレン。


けれど王宮では今、その名前の意味が静かに変わり始めていた。

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