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セレニア王国物語 ~花冠の女王と白き神獣~  作者: n.
第一部 花冠の女王
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第十三章 帰れない場所


白い花が咲いていた。

その向こうで、ルクスがリリアを見ている。

そして目の前には、古い石碑。


「……触っちゃだめ」


なぜか分かっていた。


これに触れたら、帰れなくなる。


リリアは後ずさろうとした。けれど、身体が動かない。

代わりに右手がゆっくりと持ち上がる。


「いや……」


止めたいのに、止まらない。


指先が石碑に触れた。

瞬間、白い光が空へ昇った。

無数の星が降る。


眩しさに目を閉じて、もう一度開いたとき。


リリアは王宮にいた。

目の前で、大きな門が閉じていく。


「待って。私、帰らないと」


門の向こうには、リュネールの街が見えた。


自分の家も。

会いたい人たちも、あちら側にいる。


「マダム・エレナ!」


コレットの姿が見えた。


「コレット!」


それから、人混みの向こうに黒い髪を見つける。

みんなが遠ざかっていく。


「待って! 私もそっちに――」


門が閉じた。


「待って!」


そこで目が覚めた。


「……っ」


リリアは勢いよく身体を起こした。


白い天蓋。見慣れない壁。大きすぎる寝台。

心臓がまだ速い。


「……夢」


そう呟いてから、リリアは黙った。

夢の中で閉じ込められていた場所と、目を覚ました場所が同じだった。


窓の向こうには、朝のリュネールが見える。


「……帰りたい」


昨日より、その言葉はずっと切実だった。


*


朝食を終えてしばらくすると、ヴィオラが部屋へやってきた。


「リリア様。宰相閣下がお話をしたいそうです」

「……またですか?」


思わずそう言ってから、リリアは慌てて口を押さえた。


「ごめんなさい」

「いえ。お気持ちは分かります」


王宮の侍女であるヴィオラは、昨日よりもずいぶんリリアの扱いに慣れてきたらしい。


「今日は何のお話でしょう」

「そこまでは、私も」

「帰っていいというお話だったら嬉しいんですけど」

「……だといいですね」


一瞬だけ間があった。


リリアはヴィオラを見る。


「今、ちょっと目を逸らしませんでした?」

「逸らしてません」

「本当に?」

「さあ、参りましょう」


誤魔化された気がする。

けれどヴィオラを問い詰めても仕方がない。


身支度を整え、昨日も通った長い廊下を歩く。


王宮に来てまだわずかな時間しか経っていないが、中はまったく覚えられない。


右へ曲がり、階段を下り、また長い廊下を進む。


一人で部屋を出たら、きっと戻れない。


そんなことを考えながら歩いているうちに、宰相の執務室へ着いた。


扉が開く。


中にいたシリウスが書類から顔を上げた。


「来たか」

「はい」


リリアは教えられた通りに礼をする。


「お呼びでしょうか、宰相様」

「座ってくれ」


昨日と同じ机。

昨日と同じ銀縁の眼鏡。


けれど、机の上には見覚えのない古い記録簿と、何枚もの紙が置かれていた。


リリアは椅子へ腰掛ける。


「何か、分かったんですか?」


シリウスはすぐには答えなかった。


「昨夜から、あなたの身辺について調査を行っていた」

「……はい」

「出生記録についても調べた」

「出生記録?」

「あなたのものだけではない。ご両親、そのさらに上の世代までだ」


リリアは首を傾げた。


「どうしてですか?」

「古き碑の伝承があるからだ」


昨日、ノアから聞いた言葉を思い出す。


王位を継ぐ資格を持たない者は、あの場所へ辿り着くことができない。


「あなたの母方の血筋を遡った」


シリウスが一枚の紙をリリアの前へ置いた。


名前がいくつも並んでいる。


母の名前があった。

その上に、祖母。


さらに知らない名前が続いている。


「およそ百年前まで遡ると、一人の女性に辿り着く」


シリウスの指が、一つの名前を示した。


「アルヴェール王家の王女だ」


リリアは紙を見た。

それからシリウスを見る。

もう一度、紙を見る。


「……王女?」

「そうだ」

「誰がですか?」

「あなたの祖先だ」

「私の?」

「そうだ」


リリアはしばらく黙った。

何を言われているのか分からない。


「……母が?」

「いや。もっと前だ。何代も遡る」


少しだけ安心した。

母が実は王女だった、と言われたのかと思った。


けれど、安心していい話なのかもよく分からない。


「その王女は臣下へ降嫁し、その後、子孫は王族としての身分を離れている。代を重ねるうちに家名も変わり、現在のローレン家へつながった」


「……母は知っていたんでしょうか」

「おそらく知らなかっただろう」


それなら納得できる。

母がそんな話を隠していたとは思えない。


父も母も、ごく普通の人だった。

少なくともリリアが知っている二人は、王宮とは何の関係もない暮らしをしていた。


「でも、百年も前なんですよね?」

「そうだ」

「それなら、私以外にもいるんじゃないですか? その王女様の子孫」


シリウスの目がわずかに動いた。


「いる可能性は高い」

「だったら――」


言いかけて、リリアは気づく。


石碑。


「……私が、あそこへ行ったから?」

「そうだ」


シリウスは静かに答えた。


「王家の血を引いている。それだけなら、ここまで大きな問題にはならなかった。だが、あなたは古き碑へ辿り着いた」


リリアは黙った。


「現時点で、王宮はあなたにも王位継承資格が存在する可能性が高いと考えている」


「……私が?」


声が小さくなる。


「王位継承者?」

「可能性が高い、という段階だ。古い制度については、まだ調査を続けている」


リリアは椅子に座ったまま、家系図を見つめた。


昨日、ノアと交わした会話を思い出す。


――でも、殿下がいらっしゃいますよね?

――います。


本当に、何だったのだろう。あの会話は。


「でも、私は王女じゃありません」

「そうだ」

「貴族でもありません」

「そうだ」

「政治のことも知りません」

「それも承知している」

「王様になりたいと思ったこともありません」

「それも問題ではない」


リリアは顔を上げた。


「……問題じゃないんですか?」

「あなたが望んでいるかどうかと、あなたに資格があるかどうかは別の話だ」


言われて、リリアは口を閉じた。


まったく嬉しくない。


昔読んだ物語なら、突然自分に王家の血が流れていると知った主人公は、もっと驚いたり喜んだりしていた気がする。


けれど実際に自分の身に起きてみると、何をどう感じればいいのかさえ分からなかった。


「……それで」


リリアは恐る恐る尋ねる。


「私は、いつ帰れますか?」


シリウスが黙った。


嫌な予感がした。

今朝の夢が、頭をよぎる。


「リリア様」


シリウスの声が、わずかに低くなった。


「あなたは当面、王宮の保護下に置かれることになった」


「保護?」


「昨夜の現象を見た者は多い。古き碑に何者かが辿り着いたという情報も、いつまで伏せておけるか分からない」


「でも、私が行ったことは知られてないんですよね?」

「今はな」


シリウスは淡々と答えた。


「だが、いずれ漏れる可能性はある。あなたの血統についても同様だ」


「それと、私が帰れないことに何の関係があるんですか?」


声が少し強くなった。

シリウスはそれを咎めなかった。


「あなたを利用しようとする者が現れる可能性がある」


リリアは黙る。


「王位継承資格を持つ人間というのは、それだけで政治的な価値を持つ。本人にその意思があるかどうかは関係ない」


「……私、何もしません」

「あなたが何もしなくても、周囲が動く」


その言葉は、すぐには理解できなかった。


「王太子殿下を支持する者から見れば、あなたを危険視する者が出るかもしれない。逆に、殿下以外の継承者を求める者がいれば、あなたを利用しようとする可能性もある」


ノアの顔が浮かんだ。


昨日会った、小さな王太子。


「私は、殿下から王位を取りたいなんて思ってません」

「分かっている」

「だったら――」

「相手もそう考えるとは限らない」


言葉が止まった。


王宮に来てから、知らないことばかりだった。


石碑のこと。

王家のこと。

王位のこと。


そして今度は、自分が知らない誰かに狙われるかもしれないと言われている。


「……いつまでですか?」


リリアはもう一度聞いた。


「いつまで、ここにいればいいんですか?」

「現時点では答えられない」


「仕事は?」

「事情はこちらから説明する」


「家には?」


一瞬だけ、シリウスが黙った。


「戻すことはできない」


その言葉だけは、はっきり分かった。


「……私の家です」

「分かっている」

「昨日まで、そこで普通に暮らしていました」

「承知している」

「だったら――」


言葉が続かなかった。


分かっている。

シリウスが意地悪で言っているわけではないことくらい。


昨夜から王宮の人たちは、自分を乱暴に扱ったことは一度もない。


ヴィオラも親切だった。

ノアも怖い人ではなかった。


それでも。


「私、ただルクスを見つけただけなんです」


ぽつりと声が落ちた。


「石碑だって、あんなことになるなんて知らなかった」


触れたくなかった。


夢の中の自分の声が蘇る。


触れたら帰れなくなる。


「……帰りたいです」


シリウスは何も言わなかった。


「家にも帰りたいし、仕事もしたいです。マダム・エレナにも、コレットにも会いたいし……」


そこで言葉が止まる。


もう一人。


ずっと頭のどこかにいる人がいた。


「ヴァレンにも」


小さく付け足した。

シリウスはしばらくリリアを見て小さく息を吐いた。


「…王都騎士団長は、昨日ここへ来た」


リリアが顔を上げた。


「……え?」

「あなたとの面会を求めた」

「ヴァレンが?」

「許可しなかった」


「どうしてですか?」


今度は、はっきり声が強くなった。


「昨日時点では、あなたの身元も、石碑との関係も確認できていなかった」

「ヴァレンは関係ありません」

「それを確認する必要もあった」

「でも――」


言い返そうとして、やめた。


シリウスの立場なら、そうするのかもしれない。


頭では分かる。

でも、納得できるかどうかは別だった。


「……怒ってました?」


シリウスの眉がわずかに動いた。


「かなりな」


やっぱり。

こんなときなのに、少しだけ笑いそうになった。


「会えますか?」


シリウスは答えない。


「お願いします」


リリアはまっすぐに彼を見る。


「家に帰れないなら、せめて会わせてください」


しばらく沈黙が続いた。


やがてシリウスが小さく息を吐く。


「検討する」


「それ、会えないときに使う言葉じゃないですか?」

「……誰に教わった」

「本で読みました」


シリウスが眼鏡の奥で目を閉じた。


「あなたは本当に本ばかり読んでいるな」

「今は関係ありません」


珍しく、リリアはすぐに返した。


「会わせてください」


再び沈黙。


「分かった」


リリアは目を見開いた。


「本当ですか?」

「ただし王宮内だ。時間もこちらで決める」

「はい」


「それから、今日聞いた血統の話は口外するな。王都騎士団長にもだ」

「ヴァレンにも?」

「今はまだだ」


少し迷った。


けれど、会える。


今はそれだけでよかった。


「……分かりました」


*


夕方。


リリアは朝から何度目か分からないほど、窓の外を見ていた。


今日は本を開いても、一頁も頭に入らなかった。


自分が王家の血を引いている。


王位を継ぐ資格があるかもしれない。


家には帰れない。


どれも自分のことなのに、どこか遠い話のようだった。


「リリア様」


ヴィオラが部屋へ入ってくる。


「お客様です」


リリアは勢いよく振り返った。


「もしかして――」


最後まで言う前に、ヴィオラが笑った。


「はい」


立ち上がる。


そのまま扉へ向かいかけて、止められた。


「リリア様、廊下を走ってはいけません」

「走ってません」

「今から走るところでした」

「……歩きます」


早足にならないよう気をつけながら、ヴィオラについていく。


案内されたのは、大きな応接室だった。

扉の前には王宮の騎士が立っている。


ヴィオラが扉を開ける。


その向こうに、見慣れた黒い髪があった。


濃紺の騎士服。

腰の剣。

鋭い青灰色の瞳。


昨日までは、それが特別な光景だと思ったことなどなかった。


隣の家に住んでいて。

店へ来ることもあって。

夜になれば家まで送ってくれることもある。


いつもそこにいた人。


けれど今は、顔を見ただけで胸の奥が一気に緩んだ。


言いたいことはたくさんあった。


昨日のこと。

ルクスのこと。

星のこと。

王宮のこと。

家に帰れないこと。


それなのに。


「……ヴァレン」


名前を口にした瞬間、涙が溢れた。

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