第十四章 王宮の中で
「……ヴァレン」
名前を口にした瞬間、涙が溢れた。
ヴァレンの表情が変わった。
「……おい」
それだけ言って、すぐにリリアの前まで来る。
「何された」
「何もされてない」
「本当か」
「本当」
「怪我は」
「してない」
ヴァレンはリリアの顔をじっと見た。
「……じゃあ、なんで泣いてる」
「それは……」
リリアは口を開いた。
けれど、うまく言葉にならなかった。
ただ、ヴァレンの顔を見たら、ずっと張っていたものが急にほどけてしまった。
「……いろいろ、あったの」
ヴァレンの目がすっと細くなった。
「……あいつら」
「何もされてないってば」
「泣いてるだろ」
「それは……そうだけど」
ヴァレンは黙った。
その顔を見て、リリアは慌てて付け足す。
「本当に、嫌なことをされたわけじゃないの。ヴィオラも優しいし、王太子殿下も――」
「王太子?」
「あ」
ヴァレンの眉間に、さらに深い皺が寄った。
「お前、王太子殿下に会ったのか」
「……会った」
「いつ」
「昨日」
「何のために」
「それは……」
また言葉に詰まる。
今日シリウスから聞いた血統のことは、口外するなと言われている。
ヴァレンにも、まだ話してはいけない。
「ごめん。言えないこともあるの」
「誰に止められた」
「……宰相様」
ヴァレンの眉間の皺が深くなる。
「だから、怒らないで」
「怒ってない」
「怒ってるよ」
「まだな」
まだ。
リリアは思わずヴァレンを見た。
「その言い方、怖いんだけど」
「気のせいだ」
絶対に違う。
けれど、そんなやり取りをしているうちに、涙は少しずつ止まっていた。
リリアは指先で目元を拭う。
ヴァレンはそれを確認してから、ようやく少しだけ離れた。
「座れ」
「うん」
二人で向かい合って座る。
王宮の立派な応接室だった。
磨かれた机も、深い色の絨毯も、壁に飾られた絵も、何もかもが普段の二人には似合わない。
ヴァレンはそこでようやく、リリアを改めて見た。
淡い桃色の長い髪は、いつもより丁寧に整えられている。
着ている服も、見覚えのないものだった。
リリアなのに、どこか知らない人のように見える。
「……何?」
見られていることに気づいたリリアが首を傾げた。
「いや」
「なんか変?」
「変じゃない」
「じゃあ何?」
「……いつもと違うだけだ」
リリアは自分の服を見下ろした。
「ああ。これ、王宮で借りたの」
「そうか」
それだけ答えた。
綺麗だと思ったことは、言わなかった。
「それで」
ヴァレンが話を戻す。
「話せるところだけでいい。何があった」
リリアは頷いた。
ルクスを追って、あの場所へ辿り着いたこと。
見たことのない白い花が咲いていたこと。
古い石碑があったこと。
石碑に触れた途端、光が空へ昇ったこと。
王宮へ連れてこられたこと。
そして昨日、王太子ノア・アルヴェールと会ったこと。
血統についてだけは話さなかった。
「石碑について、王太子殿下から聞いたの」
ヴァレンが黙って続きを待つ。
「昔から、王位を継ぐ資格を持たない人は、あの場所へ辿り着けないっていう言い伝えがあるんだって」
ヴァレンの表情が変わった。
「……それで、お前を帰さないのか」
「たぶん」
本当は、それだけではない。
言えないことがあるのが、こんなに苦しいとは思わなかった。
ヴァレンには昔から、たいていのことを話してきた。
嬉しかったことも、困ったことも、読んだ本の話も、店で起きたどうでもいい出来事も。
だからこそ、言葉を選ばなければならないこと自体が妙だった。
「ヴァレンは?」
リリアは話題を変えた。
「昨日、王宮まで来たんでしょう?」
「ああ」
「会わせてもらえなかったって」
「ああ」
「……怒った?」
「別に」
少し間があった。
「本当に?」
「……少しな」
少し、ではなかった気がする。
けれど、それ以上聞くのはやめた。
「マダム・エレナは?」
「元気だ」
「本当?」
「ああ。お前がいない分、忙しそうだったが」
「やっぱり……」
急に申し訳なくなる。
「私、何も言わないで休んじゃった」
「お前のせいじゃないだろ」
「でも」
「王宮から事情は伝わってる」
それでも、明日の花の仕入れはどうするのだろう。
注文は。二階の本は。
考え始めたリリアを見て、ヴァレンが言った。
「店は大丈夫だ」
「……分かるの?」
「あの人が、お前が二日いないくらいで店を潰すと思うか」
「思わない」
「なら心配するな」
確かにその通りだった。
「コレットは?」
「心配してる」
「やっぱり」
「王宮に乗り込むとか言い出すほどじゃない。安心しろ」
「そこまではしないよ」
「どうだかな」
失礼だ。
でも、コレットなら門の前までは来るかもしれない。
そんなことを考えると、少しだけ気持ちが軽くなった。
「家は?」
ヴァレンがこちらを見る。
「変わってない」
「……そっか」
たった二日だ。
変わっているはずがない。
それなのに、その言葉にほっとした。
「窓辺の花、大丈夫かな」
「花?」
「寝室の窓のところに鉢があるの。お水、昨日からあげてない」
「どれくらいだ」
「毎日じゃなくていいから、まだ大丈夫。でも、帰れないのが長くなったら……」
ヴァレンが小さく息を吐いた。
「鍵は?」
「マダム・エレナが予備を持ってる」
「借りる」
「いいの?」
「枯らしたら、お前がうるさい」
「うるさくないよ」
「去年、一鉢枯れかけただけで三日落ち込んでただろ」
「……あれは気に入ってたの」
覚えていたらしい。
リリアは少しだけ笑った。
「じゃあ、お願い」
「ああ」
それからしばらく、二人は他愛のない話をした。
店のこと。
街のこと。
ヴァレンの仕事のこと。
たった二日前までなら、わざわざ話題にすることすらなかったようなことばかりだった。
けれど今は、それがひどく懐かしく感じられた。
やがて扉が控えめに叩かれた。
王宮の侍女が顔を出す。
「お時間です」
リリアは思わず時計を見た。
「もう?」
思ったよりずっと早い。
ヴァレンが立ち上がる。
「じゃあ、帰る」
「……うん」
いつもなら、それで終わる言葉だった。
ヴァレンが隣の家へ帰って、リリアも自分の家へ帰る。
明日になれば、またどこかで顔を合わせる。
ずっと、そうだった。
「……ヴァレン」
「なんだ」
呼び止めたものの、何を言えばいいのか分からなくなる。
帰りたい。
そう言ったところで、ヴァレンにはどうすることもできない。
「家、見ておいてくれる?」
「ああ」
「花も」
「分かってる」
「あと……」
言いかけて、やめた。
「ううん。なんでもない」
ヴァレンはしばらくリリアを見ていた。
「また来る」
「……うん」
扉が閉じる。
今度は夢とは違った。
門の向こうへ消えてしまったわけではない。
また会える。
それでも、帰っていくヴァレンを見送る側に自分がいることが、ひどく不思議だった。
*
その日の少し前。
王太子ノア・アルヴェールは、執務室で宰相シリウスと向かい合っていた。
机の上には、一枚の家系図が置かれている。
ノアはそれを黙って見つめていた。
「……間違いないのですか」
「複数の記録を照合しております。少なくとも、母方の血筋がアルヴェール王家へつながっていることは間違いないかと」
ノアの視線が、一つの名前で止まる。
リリア・ローレン。
昨日、自分の前に座っていた少女。
緊張していて、王宮にも慣れていなくて。
自分が王太子だと知ったときには、ずいぶん驚いていた。
「では……リリアさんにも、王位を継ぐ資格があるのですか」
「その可能性があります」
ノアはしばらく黙っていた。
「血を引いているから、ですか?」
「それだけではありません」
シリウスは静かに答える。
「王家の血を引く者なら、他にも存在する可能性があります。問題は、彼女が古き碑へ辿り着いたことです」
昨日、自分がリリアへ話した伝承を思い出す。
王位を継ぐ資格を持たぬ者は、決してその場所へ辿り着くことはできない。
あのときは、まだ知らなかった。
目の前にいる少女の血が、自分と同じ場所へつながっていることを。
「リリアさんは、このことを?」
「本日、お伝えしました」
「……なんと?」
シリウスは少し間を置いた。
「帰りたい、と」
ノアは目を伏せた。
「そうですか」
それ以上、何も言わなかった。
やがて顔を上げる。
「彼女は、まだ王宮から出られないのですね」
「はい。安全が確認できるまでは」
ノアは少し考えた。
「では、彼女が王宮で不自由をしないように手配してください」
シリウスがわずかに目を見開いた。
「外へ出すことはできないのでしょう?」
「……はい」
「なら、せめて王宮の中では自由に過ごせるようにしてください。会いたい人がいるなら、安全を確認したうえで会えるように」
少し間を置いて、ノアは続けた。
「彼女は、罪人ではありません」
「承知いたしました」
シリウスが一礼する。
ノアはそれ以上、この話をしなかった。
ただ、シリウスが退出したあとも。
――帰りたい。
その言葉だけが、しばらく頭から離れなかった。




