第十五章 本と花のある場所
王宮で迎える三度目の朝だった。
昨夜は、あまりよく眠れなかった。ヴァレンを見送って部屋へ戻ったあと、また少しだけ泣いた。会えたら安心すると思っていたのに、実際に会ってしまうと、今度は帰れないことの方がはっきりしてしまった。そのせいか、今朝は頭がぼんやりしている。
「リリア様、少し目が腫れていますね」
鏡越しにヴィオラが言った。
「……やっぱり?」
「少しだけです」
「昨日、ちょっと泣いたから」
ちょっと、ではなかった気もする。
ヴィオラはそれ以上聞かなかった。長い髪を丁寧に梳かし、両脇をゆるく編んで後ろでまとめていく。昨日ヴァレンに見られたことを思い出して、リリアは鏡の中の自分を眺めた。
――いつもと違うだけだ。
確かに、いつもの自分とは少し違う。
「ヴィオラって、器用だね」
「侍女ですから」
「私だったら途中で諦める」
「これだけ長ければ、ご自分でするのは大変でしょうね」
「だから、いつもは簡単にまとめてるの」
ヴィオラが小さく笑った。そのとき、扉が叩かれた。
「失礼いたします」
ヴィオラとは違う、落ち着いた女性の声だった。入ってきたのは、五十歳ほどの女性だ。きっちりとまとめられた髪。眼鏡の奥の目は鋭く、衣服にも立ち姿にも隙がない。その人が部屋に入ってきただけで、空気まで少し引き締まったような気がした。
リリアは思わず背筋を伸ばす。隣では、ヴィオラの背筋がそれ以上に伸びていた。
「初めまして、リリア様。王宮侍従長を務めております、アイリスと申します」
「初めまして。リリア・ローレンです」
立ち上がろうとすると、アイリスが手で制した。
「そのままで結構でございます。朝のお支度中に失礼いたしました」
「いえ」
王宮侍従長。どれほど偉い人なのか、リリアには正確には分からない。けれど、先ほどまで楽しそうに髪を編んでいたヴィオラが急に静かになったところを見ると、かなり偉い人なのだろう。
「本日は、今後の王宮での過ごし方についてお伝えに参りました。これまで安全上の理由から行動を制限させていただいておりましたが、本日より、王宮内ではある程度自由にお過ごしいただけることとなりました」
「……自由に?」
「はい。ただし、政務を行う区画や王族の私的な区域など、一部お入りいただけない場所がございます。また、王宮の外へ出ることは、引き続きお控えください」
完全に自由になったわけではない。それでも、昨日までとは違う。
「可能な限り、ヴィオラをお連れください。分からないことがございましたら、彼女にお尋ねいただければ」
「はい」
リリアは少し考え、一番に思いついたことを尋ねた。
「あの、図書室には行ってもいいのでしょうか」
「図書室、でございますか」
「はい。本を読みたくて」
アイリスは少しだけ考えた。
「王宮の図書室には、閲覧に許可を要する資料もございます。確認を取ってまいります」
「ありがとうございます」
アイリスは一礼して部屋を出ていった。扉が閉じて数秒すると、ヴィオラが小さく息を吐く。
「……緊張した」
「ヴィオラも?」
「しますよ。侍従長ですから」
「怖い人?」
「怖くはありません」
「じゃあ、厳しい人?」
「……とても」
やっぱり。
「でも、きちんと見てくださる方です」
ヴィオラはそう言って、最後の髪留めをつけた。その声には、単に怖がっているだけではない響きがあった。
*
図書室の返事を待つ間、リリアはヴィオラと王宮の中を歩いてみることにした。
これまでにも何度か廊下を歩いている。けれど、誰かに呼ばれて移動するのと、自分の意思で歩くのとでは、同じ場所でも見え方が違った。
廊下の壁には、淡い乳白色の地に蔓草と小花を織り込んだ壁布が張られていた。花びらの部分には細い銀糸が使われ、歩くたびに光の加減でかすかにきらめく。天井から下がる照明には透明な硝子が幾重にも連なり、朝の光を受けて磨かれた床に小さな光の粒を落としていた。
廊下の途中に置かれた細長い卓には、金の縁取りがされた白磁の花瓶。淡い桃色と白の花がふんわりと生けられている。扉の取っ手にまで蔓草の彫刻があった。
「王宮って、どこを見ても花があるんだね」
「セレニアですから」
それが当たり前のことのように返されて、リリアは少し笑った。
広い廊下を曲がると、大きな風景画が掛けられていた。黄金色の麦畑。その向こうには深い森が続き、空には小さな鳥の群れが描かれている。
「これはどこ?」
「北部だと思います。私は行ったことがありませんけど」
「私も」
しばらく二人で絵を眺めた。
その横を、書類を抱えた文官たちが通り過ぎていく。侍女が新しい花を抱えて歩き、遠くでは王宮の騎士たちが短い言葉を交わしている。別の廊下では、二人がかりで大きな花瓶を運んでいる使用人とすれ違った。
静かな場所だと思っていた。けれど、こうして歩いてみると、王宮の中では思っていた以上にたくさんの人が働いている。
それでも、落ち着かなかった。
すれ違う人の中には、リリアをちらりと見る者がいる。軽く頭を下げられることもあった。そのたびに、どう返すのが正しいのか迷う。同じように頭を下げてみたら、相手が少し驚いた顔をした。
「……ヴィオラ」
「はい?」
「みんな、私のこと知ってるの?」
「お名前をご存じの方は、それほど多くないと思います」
「じゃあ、どうして頭を下げるの?」
「私がお連れしているからかと」
「……そうなんだ」
少し安心した。でも、やっぱり落ち着かない。
「王宮って難しいね」
「そのうち慣れますよ」
そのうち。
その言葉に、リリアは曖昧に笑った。
綺麗だとは思う。見たことのないものもたくさんあって、興味もある。けれど、すれ違う人に見られるたびに背筋を伸ばし、知らない作法に気を遣っていると、肩に入った力がなかなか抜けなかった。
「……外に出たい」
「王宮の外は、まだ――」
「あ、違うの。そうじゃなくて、庭とか。外の空気を吸えるところ」
「ああ。それでしたら、庭園へ参りましょうか」
「行きたい」
案内された扉を抜けた途端、風が頬を撫でた。同時に、甘い花の香りがふわりと広がる。
「……わあ」
思わず声が漏れた。
一種類の香りではない。蜜のように柔らかく甘いもの。爽やかな青さを含んだもの。その下には、湿った土と草の匂いがある。頭上では木々の葉が風に揺れ、さらさらと音を立てていた。陽射しが頬に触れる。
「……落ち着く」
庭園は、想像していたよりずっと広かった。
低い生垣で緩やかに区切られた花壇には、色とりどりの花が咲いている。白、淡い桃色、青、紫。蔓薔薇の絡むアーチの向こうには白い石造りの噴水があり、水の落ちる涼やかな音が絶えず聞こえていた。その先には小さな東屋も見える。
どこを見ても花があるのに、不思議とうるさく感じない。背の高い花の足元には小さな花が咲き、その向こうには濃い緑の葉が重なる。曲線を描く石の小道を進むたび、隠れていた花壇や木立が少しずつ姿を現した。
「綺麗……」
王宮の中も綺麗だった。けれど、リリアはこちらの方が好きだった。
花壇を眺めながら歩いていると、その一角に人影を見つけた。少しふくよかな、年配の男性だった。地面にしゃがみ込み、花の根元を確かめている。袖は肘までまくられ、手にも服にも土がついていた。
リリアが近くの淡い青色の花を覗き込むと、男性が顔を上げた。
「その花、好きかい?」
「はい。好きです」
「知っとるのか?」
「南部の花ですよね。リュネールでは、春から夏によく見かけます」
「よく知っとるな」
「働いている店で花を扱っているんです」
「花屋か?」
「花と本と、喫茶のお店です」
男性が目を丸くした。
「ずいぶん欲張りな店じゃな」
「私も最初はそう思いました。でも、本があって、花があって、おいしいものもあるので。私は好きです」
「それなら、欲張りなくらいがちょうどいい」
男性も笑った。その言い方が、少しだけマダム・エレナに似ていた。
男性は青い花の根元を指した。
「こいつは水をやりすぎると、すぐ機嫌を損ねる」
「分かります。職場でも一度、元気がなくなって」
「どうした?」
「水を減らして、少し風の通るところに移しました」
「ほう。それで?」
「元気になりました」
「ちゃんと花を見とるな」
男性は満足そうに頷いた。
リリアは少し照れながら、改めて庭園を見渡した。
近くで見ると、ますます見事だった。花壇には背丈も咲く時期も違う花が自然に重なり、それなのに、どこを見ても不思議と調和している。淡い色の花の向こうには鮮やかな緑。そのさらに奥には、蔓薔薇の絡むアーチが見えた。
風が吹くと甘い香りが流れ、噴水から落ちる水が陽を受けてきらきらと光る。ただ豪華なだけではない。歩くたびに違う花が目に入り、もう少し先へ行ってみたくなる。
「……本当に綺麗。これを、おひとりで?」
男性は一瞬きょとんとして、それから、にかっと笑った。
「まさか。わし一人では日が暮れても終わらんよ。何人もの庭師が毎日手を入れとる」
「そうですよね」
リリアも笑った。
目の前の花だけではない。遠くに見える木々も、石の小道も、花の色の重なりも。誰かが毎日手をかけて、この景色を作っているのだ。
「素敵なお仕事ですね」
今度は男性が少しだけ目を丸くした。そしてまた、嬉しそうに笑った。
「そうじゃろ」
その返事があまりにも誇らしげで、リリアまで嬉しくなった。
「リリア様?」
少し離れたところから、ヴィオラの声がした。
「こっち」
ヴィオラが歩いてくる。そして、リリアの隣にいる男性を見るなり足を止めた。
「……ポルックス?」
「おお、ヴィオラ」
「知り合い?」
「知り合いと申しますか……」
ヴィオラが少し困った顔をする。男性――ポルックスが立ち上がり、膝についた土を軽く払った。
「そういえば、名乗っとらんかったな。改めて、庭師のポルックスじゃ」
「リリア・ローレンです」
「うむ。リリアか」
名前をそのまま呼ばれた。
王宮へ来てから、ほとんどの人が「リリア様」と呼ぶ。それが悪いわけではない。けれど、ただ名前を呼ばれただけなのに、少し肩の力が抜けた。
「ヴィオラ」
「はい?」
「ヴィオラも、リリアって呼んで」
「……はい?」
ヴィオラが目を丸くした。
「その『リリア様』っていうの、まだ慣れなくて。リリアでいいよ」
「いえ、それはさすがに……」
「どうして?」
「どうしてと言われましても……」
ヴィオラが困ったようにポルックスを見る。助けを求められたポルックスは、知らん顔で葉の様子を確かめていた。
「ポルックスは普通に呼んでるよ」
「ポルックスはポルックスです」
「どういう意味?」
「そういう意味です」
よく分からない。
ポルックスが声を上げて笑った。
「まあ、諦めるんじゃな。王宮には王宮の決まりがある」
「そういうものなのかな……」
まだ納得はしていない。
「また花を見に来るといい。今はまだ咲いとらんものもある。ここは季節が変われば、景色も変わるぞ」
「はい。ぜひ」
「リリア様」
ヴィオラが思い出したように言った。
リリアがじっと見る。
「……そこは譲れません」
「まだ何も言ってないよ」
「お顔に書いてあります」
ポルックスがまた笑った。
「それより、図書室の件ですが、許可が下りましたよ」
「本当?」
「はい。閲覧できる範囲にはなりますが、ご自由に利用してよいそうです」
「行きたい」
即答した。
ポルックスが目を細める。
「花だけじゃなく、本も好きなのか」
「大好きです」
「忙しい娘じゃな」
「じゃあ、また来ます」
「おう」
ポルックスは再び花壇へしゃがみ込んだ。
リリアはヴィオラと一緒に歩き出す。少し進んでから振り返ると、ポルックスはもうこちらを見ていなかった。何事もなかったように土へ手を入れ、花の根元を整えている。
「面白い人だね」
「……そうですね」
なぜかヴィオラは、少し含みのある返事をした。
*
図書室へ続く扉は、リリアが想像していたものよりずっと大きかった。
深い焦茶色の木で作られた両開きの扉には、蔓草と開いた本を組み合わせた細かな彫刻が施されている。係の者が扉を開くと、乾いた紙と革、それから長い年月を経た木の匂いが流れてきた。
その向こうを見た瞬間、リリアは足を止めた。
「……すごい」
図書室は、二階まで大きく吹き抜けになっていた。
高い天井には蔓草や花を象った漆喰細工が広がり、その中央から、幾つもの硝子を組み合わせた大きな照明が下がっている。壁という壁が書架だった。濃い色の木で作られた書架が天井近くまで伸び、革装丁や布張りの背表紙が隙間なく並んでいる。
一階だけではない。部屋の周囲には二階部分を巡る回廊が設けられ、そこにも書架がどこまでも続いていた。上階へ向かう左右の階段には、花と蔓草を彫り込んだ手すりが緩やかな曲線を描いている。
「あそこも全部、本?」
「はい。こちらは王宮でも特に大きな図書室ですから」
奥を見ても、まだ書架が続いている。王国史、地誌、法律、農業、植物、医学、文学、外国語。棚ごとに小さな札が掛けられ、そのさらに向こうには別の部屋へ続く扉まであった。
「まだ向こうにもあるの?」
「書庫がございます」
近くにいた図書室の文官が答えた。
「こちらの閲覧室に収めきれない蔵書は、奥の書庫に分けて保管しております。現在使用しているものだけで、十二の書庫がございます」
「すべて本ですか?」
「ほとんどは。古文書や地図、歴代の公文書を収めた書庫もございます」
一つでも中を見て回るのに、どれだけ時間がかかるのだろう。
高い位置にある本を取るための梯子が、書架に沿って何台も置かれている。中央には長い閲覧机が並び、それぞれに真鍮細工の読書灯が置かれていた。窓辺には一人で本を読むための小さな机と、深く腰掛けられる椅子もある。
高い窓には淡い色の硝子が嵌め込まれ、差し込んだ光が床に長く伸びていた。その中を細かな埃が金色の粒のように漂っている。
誰かがページをめくる。
遠くで梯子がわずかに軋む。
文官が本を棚へ戻す、小さな音がする。
それ以外は、驚くほど静かだった。
リリアは一歩、また一歩と中へ進んだ。
右を見ても、本。左を見ても、本。見上げても、本。
「……ここ、一日いてもいい?」
「夕食までにはお戻りください」
「じゃあ、それまでは?」
「……ご自由に」
「本当に?」
ヴィオラが笑った。
背表紙を眺めているだけで、読みたいものが次々と見つかる。
セレニア南部の植物誌。北部に生息する鳥を描いた図鑑。東部の港と交易について記された本。西の山脈を越えた旅人の紀行録。隣国アステリアの地誌まである。
十八年間リュネールで暮らしてきた。
けれど、セレニアのほとんどを、リリアはまだ本の中でしか知らない。
その「本の中」が、今、目の前いっぱいに広がっていた。
「リリア様」
「……リリア」
ヴィオラが止まる。
「今、二人だけだから」
「ですが……」
「駄目?」
ヴィオラは周囲を確認した。近くに誰もいないことを確かめてから、ほんの少し声を落とす。
「……リリア」
呼ばれた。
リリアは嬉しくなって笑った。
「うん」
ヴィオラも、つられたように笑う。
「それで、リリア。何から読むんですか?」
「そうだった」
危うく、目についた本から片っ端に読み始めるところだった。
今日は調べたいことがある。
図書室を管理している文官のところへ向かい、リリアは尋ねた。
「古い石碑について調べたいんです。それから……白い花と、《白き花の守り手》についても」
文官は少し考え込んだ。
「王国の古い伝承でしたら、いくつかございます。ただし、王家に関する古文書や記録の一部は、別途閲覧許可が必要です」
「見られるものだけで大丈夫です」
案内されたのは、王国史の棚よりさらに奥だった。古い伝承や民間説話、王国各地に残された記録が集められているという。
文官が何冊か候補を選んでくれた。その中の一冊を手に取ると、ずしりと重い。深い青色の革張りの表紙はところどころ擦れ、角には年月を感じさせる傷があった。指で撫でると、革のざらりとした感触が伝わる。
リリアは窓辺の机に本を運び、椅子を引いた。
まだ気になる書架はいくつもある。二階にも行きたい。奥の書庫も、いつか見てみたい。植物誌も、地誌も、あの紀行録も読みたい。
けれど、まずはこれだ。
本を開くと、古い紙がかすかな音を立てた。
なぜルクスが自分の前に現れたのか。なぜあの場所へ連れていったのか。あの白い花は何なのか。そして、なぜ自分があの石碑へ辿り着けたのか。
答えの出ていないことは、まだたくさんある。
分からないなら、調べればいい。
それは昔から、リリアが知っているやり方だった。
高い窓から差し込む光の中で、リリアは最初の一頁をめくった。




