第十六章 語り継がれた物語
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『白き花の守り手』
むかしむかし。
神々は、大地にひとつの美しい国をおつくりになりました。
森には澄んだ泉を。
山には豊かな実りを。
湖には尽きることのない水を。
そして最後に、神々はその地へ魔法を授けました。
魔法を授かった人々は、風を呼び、雨を降らせ、大地を耕し、草木を育てました。
なかでも、花を育てる魔法に長けた者が多くいました。彼らが杖を振れば、荒れた野にも若葉が芽吹き、色とりどりの花が咲きました。
春には丘が淡い桃色に染まり、夏には湖のほとりを青い花が覆い、秋には金色の花が風に揺れました。
人々は花を愛し、花とともに暮らしました。
けれど、その地にはまだ、人々をひとつにまとめる王がいませんでした。
豊かな土地には多くの人が集まり、やがて力を持つ魔法使いたちは、それぞれに人々を従えるようになりました。
誰がこの土地を治めるのか。
誰の魔法がもっとも優れているのか。
誰こそが、人々を導くにふさわしいのか。
はじめは言葉だけだった争いは、やがて魔法を使った戦いへと変わりました。
美しかった野は踏み荒らされ、咲き誇っていた花は散り、人々もまた傷ついていきました。
それでも、誰も争いを終わらせることができませんでした。
そんなある日のことです。
雲ひとつない空から、一頭の白い獣が降りてきました。
雪よりも白い毛並みを持ち、陽の光を受けるたび、その身体は淡く輝いて見えました。
争っていた魔法使いたちは、誰もが魔法を止め、その姿を見上げました。
白い獣は、ゆっくりと彼らの間を歩きました。
そして、一人の魔法使いの前で立ち止まりました。
その口には、一輪の白い花がくわえられていました。
見たこともない花でした。
白い獣は、その花を魔法使いへ差し出しました。
魔法使いは戸惑いながらも手を伸ばし、白い花を受け取りました。
その瞬間――。
空が、まばゆい光に包まれました。
昼だというのに、空には無数の星が現れました。
白く、青く、淡い金色に輝く星々が、まるで天から降り注ぐように大地を照らしました。
人々は驚き、空を見上げました。
そして、さらに不思議なことが起こりました。
傷を負っていた魔法使いたちの血が止まり、深く傷ついた身体が癒えていったのです。
立ち上がることのできなかった者が、自らの足で立ちました。
それは、どれほど優れた魔法使いにもできないことでした。
人々は知りました。
これは人の魔法ではない。
天から授けられた、神々の祝福なのだと。
白い獣から花を受け取った魔法使いは、争いを終わらせました。
そして人々は、その者を自分たちの王として迎えました。
王のもとで、人々は再び大地を耕しました。
壊れた家を建て直し、道をつくり、湖のほとりには新しい町が生まれました。
踏み荒らされた野には、もう一度、たくさんの花が咲きました。
人々はその国を、セレニアと名づけました。
そして、最初の王へ一輪の白い花を授けた白い獣を――
《白き花の守り手》
そう呼び、長く語り継いだといいます。
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リリアは、しばらく頁をめくることができなかった。
本を持つ手が、わずかに震えている。
白い獣。
白い花。
空を覆う光。
そして、昼空に現れた無数の星。
あの日、自分が見たものが、頭の中に蘇る。
リリアは震える指先で頁の端を押さえ、もう一度、最後の数行へ視線を落とした。
「……似てる」
*
紙を引っかく音が、静かな執務室に響いていた。
シリウスは机に向かったまま、羽ペンを動かし続けている。
窓から差し込む午後の光が机の端まで伸び、積み上げられた書類の影を長く落としていた。
一枚に署名を入れ、脇へ置く。次の書類を引き寄せ、また羽ペンを走らせる。
扉を叩く音がした。
「入れ」
返事をしても、シリウスは顔を上げなかった。
「失礼します」
入ってきたダリアは、片手に数枚の書類を、もう片方の手に紅茶のカップを持っていた。
机の上を見て、眉を上げる。
「増えてません?」
「増えている」
「減らしてるんですよね?」
「そのつもりだ」
ダリアは書類の山をしばらく眺め、それから空いている場所を見つけて紅茶を置いた。
「とりあえず、これを」
ようやくシリウスが顔を上げた。
「頼んだ覚えはないが」
「知ってます。朝から何杯飲みました?」
「珈琲ならば五杯だが紅茶は飲んでいない」
「あまり変わらないわね…」
ダリアは向かいの椅子へ腰を下ろした。
シリウスは銀縁の眼鏡を指先で押し上げ、紅茶へ手を伸ばす。まだ温かい。
一口飲んでから、ダリアが持ってきた書類へ目を向けた。
「それは?」
「先日の星についてです。地方からの報告が追加で届きました」
ダリアが数枚の紙を差し出した。
シリウスは受け取り、目を通していく。
「北部でも、西部でも?」
「はい。星そのものは、かなり広い範囲から見えていたようです」
あの夜、セレニア王国の各地で、多くの人々が空を見上げていた。
突然現れた無数の星について、吉兆だと言う者もいれば、不吉な前触れだと恐れる者もいる。市場ではすでに、星を模した飾り物まで売られ始めているという。
「商人はたくましいな」
「感心している場合ではありません」
「していない」
ダリアはもう一枚の報告書を机へ置いた。
「それから、少し気になる話もあります」
シリウスが視線を移す。
「北部の村で、八十を越えた女性が《白き花の守り手》の名を口にしたそうです」
羽ペンを走らせていたシリウスの手が止まった。
「幼い頃、祖母から聞かされたそうです。星が降る空と、白い獣。それから、最初の王の話を」
「ほかには?」
「西部でも似た報告が一件。こちらは九十近い男性です。細かいところは違いますが、《白き花の守り手》という名は同じです」
ダリアは椅子の背へ軽く身体を預けた。
「若い世代には、ほとんど知られていないようです。ですが、あの星をきっかけに、古い伝承を語り始める人は増えるかもしれません」
シリウスは報告書を机へ置いた。
「リゲルにも確認させろ。地方ごとにどの程度残っているのか、分かる範囲で構わん」
「すでに頼んであります」
シリウスが眼鏡越しにダリアを見る。
「早いな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
そのとき、再び扉が叩かれた。
入ってきたのはオルディスだった。
「失礼いたします」
「ちょうどいい。座れ」
オルディスは一礼し、ダリアの隣へ腰を下ろした。
シリウスが先ほどの報告書を差し出す。目を通したオルディスの表情はほとんど変わらなかった。
「やはり、残っておりましたか」
「ああ。数は少ないがな」
「長く語り継がれてきたものならば、完全に消える方が難しいでしょう」
「問題は、ここからです」
ダリアが言った。
「王宮では、すでにリリア・ローレンについて様々な噂が流れています。今はまだ憶測にすぎませんが……よからぬことを企む者が出てくるのでは、と」
ダリアの言葉に、シリウスは銀縁の眼鏡を指先で押し上げた。
「私も懸念している」
「王太子殿下は、まだ十歳でいらっしゃいます」
オルディスが静かに口を開いた。
「リリア・ローレン本人にその意思がなくとも、利用しようとする者が現れないとは限りません」
「……そうだな」
シリウスは机上の報告書へ目を落とし、困ったようにひとつ息を吐いた。
「これ以上、余計な噂を増やしたくはない」
「彼女について知る者を、これ以上増やさないことです」
オルディスの声は穏やかだった。
「少なくとも、血筋と石碑については」
「そこはすでに制限している」
「本人には、どこまで?」
ダリアが尋ねた。
「血筋と石碑については伝えてある」
「あの言い伝えについても?」
「いや。今のところは、それだけだ」
ダリアが小さく頷く。
「殿下のお耳に、妙な形で入るのも避けたいですね」
「ああ」
ノアはまだ十歳だ。
王太子として、いずれ王となるための務めを背負っている。
そんな彼の周囲で、別の継承資格者についての噂が広がれば、何が起こるか分からない。
「宮廷の連中が余計なことを考え始める前に、こちらで手を打つ必要がある」
シリウスは言った。
ダリアが腕を組む。
「ですが、いつまでも彼女を客室に置いておくわけにもいきませんよ」
「分かっている」
「本人にも、もう少し事情を理解してもらう必要があるのでは?」
シリウスは黙ってダリアを見る。
「政治に関わらせるという意味ではありません。王家の歴史や、この国の仕組み。王宮がどういう場所なのか。自分が今、何に巻き込まれているのかを理解できる程度には」
「私も賛成です」
オルディスが頷いた。
「何も知らないことが、必ずしも彼女を守るとは限りません」
シリウスは椅子の背にもたれ、眼鏡を外した。
指先で眉間を押さえる。
「……仕事が増えるな」
「いつものことでしょう」
ダリアは、さして同情する様子もなく紅茶を一口飲んだ。
シリウスは困ったように息を吐いた。
「それもそうだな」




