第十七章 帰れない理由
翌朝。
リリアは、広い部屋で一人、朝食をとっていた。
白い皿には焼きたてのパンと卵料理、それに色鮮やかな果物が並んでいる。パンをちぎりながら、ぼんやりと昨日読んだ『白き花の守り手』のことを思い出していた。
白い獣と、白い花。そして、空を埋め尽くした星。
普段食べているものより格段に上等な食事なのに、今日はなんだか味がせず、食べた気がしない。
「リリア様」
ヴィオラに呼ばれ、リリアは顔を上げた。
「食後なのですが、王太子殿下がお呼びです」
「……殿下が?」
不安な気持ちを残したまま食事を終え、ヴィオラに案内されて向かったのは、以前ノアと話をした部屋だった。
ぼんやりと、王太子の執務室なのだろうか、とリリアは思った。
扉が開く。
中にはノアとシリウスがいた。
ノアは窓際の椅子に座り、その傍らにはシリウスが立っている。卓上には、山のように書類が積まれていた。
窓から差し込む朝の光がノアの淡い金色の髪にかかって、小さな王太子はきらきらと輝いて見えた。
「お呼びでしょうか」
リリアが頭を下げると、ノアが頷いた。
「はい。座ってください」
勧められた椅子へ腰を下ろす。ヴィオラは扉のそばへ控えた。
「今日は、リリアさんの今後について話があります」
ノアの言葉に、リリアの胸がわずかに高鳴った。
今後。
もしかしたら。
「……家に帰れるんですか?」
思わず聞いていた。ノアの表情が曇る。
代わりに答えたのはシリウスだった。
「現状では、まだお帰しできません」
期待した分だけ、胸の奥が沈んだ。
「……どうしてですか」
「以前にも申し上げた通り、リリア様の安全を確保するためです」
「でも、私は王位なんて望んでいません」
「存じています」
「だったら――」
「あなたが望んでいるかどうかは、残念ながら関係ありません」
リリアは口を閉じた。シリウスは机の上の書類へ一度視線を落とし、それからリリアを見る。
「あなたがアルヴェール家の血を引いていること。そして、王位を継ぐ資格を持つ者しか辿り着けないと伝えられている石碑へ到達したこと。この二つが事実である以上、あなたを利用しようと考える者が現れる可能性があります」
「利用……?」
「あなたを担ぎ上げ、自らの権力を得ようとする者。王太子殿下を脅かすための道具にしようとする者。反対に、あなたの存在そのものを邪魔だと考える者もいるでしょう」
リリアは黙ってシリウスを見た。
「王宮の外へ出れば、我々の目が届かない場所も増えます。最悪の場合、あなたを攫い、自分たちの目的のために利用しようとする者が現れる可能性もあります」
リリアの指先が強張った。
「……でも」
「そして、危険に晒されるのは、あなた一人とは限りません」
言葉が止まった。
「……どういうことですか」
「あなたを従わせるために、周囲の人間を利用する者がいないとは言い切れません」
リリアは息を呑んだ。
最初に浮かんだのは、マダム・エレナだった。
次に、コレット。
そして――ヴァレン。
「……私が帰ったら、みんなまで危険になるかもしれないんですか」
「可能性はあります」
シリウスは静かに答えた。
「もちろん、必ずそうなると申し上げているわけではありません」
「……はい」
「ですが、可能性であっても、宰相である私が無視することはできません」
リリアは膝の上で手を握った。
「……分かりました」
しばらく黙っていたノアが、口を開いた。
「それから、リリアさん」
「はい」
「王宮にいる間、王家やセレニアについて学んでもらうことにしました」
リリアは目を瞬いた。
「えっ、どうしてですか」
答えたのはシリウスだった。
「あなたを危険から守るためにも、最低限の知識は必要です」
「知識が、ですか?」
「ええ」
シリウスは銀縁の眼鏡を指先で押し上げた。
「今後、あなたに近づく者が、すべて善意からとは限りません。相手が誰なのか。どのような立場にあり、何を求めているのか。それすら分からなければ、ご自身で危険を判断することもできないでしょう」
「王家の歴史、この国の仕組み、王宮にいる者たちの役割。それから最低限の礼儀作法についても学んでいただきます」
リリアは黙ってシリウスの話を聞いていた。ノアも小さく頷いた。
「私も、必要だと思います」
十歳の王太子が、背筋を伸ばす。
「ですから、王宮にいる間は学んでください」
「……分かりました」
リリアは頷いた。ノアは少しだけ安心したような顔をした。
それから扉の近くに控えていた侍従へ顔を向ける。
「アイリスを呼んでください」
「かしこまりました」
侍従が一礼して部屋を出ていった。
ほどなくして、扉が再び開く。
入ってきたのは、王宮侍従長のアイリスだった。
きっちりと結い上げた髪にはところどころ白いものが混じっているが、四十代ほどに見える顔にはまだ張りがある。背筋を伸ばした堂々とした佇まいには、長く侍女たちをまとめてきた者らしい落ち着きがあった。
「お呼びでしょうか、殿下」
アイリスが一礼する。
「リリアさんが王宮にいる間、必要なことを学べるようにしてください」
「承知いたしました」
アイリスは一度リリアへ視線を向けた。
「王家の歴史や、この国のこと。それから……」
ノアが少し考える。
「礼儀作法も、でしたね」
「はい、殿下」
シリウスが答えた。アイリスは静かに頷く。
「では、必要なものはこちらで整えましょう。リリア様のご予定についても、私の方で調整いたします」
「よろしくお願いします」
「かしこまりました」
そしてアイリスは、ごく当然のことのようにリリアへ向き直った。
「ではリリア様。明日から始めましょう」
「……明日からですか?」
「はい」
アイリスは静かに頷いた。
「ご自宅へお帰りになれないことは、お辛いと思いますが、王宮でこの国について学べる機会は、そう多くあるものではございません」
少しだけ表情を和らげる。
「せっかくの機会です。ここで過ごされる時間が、リリア様にとって実りあるものになればと存じます」
「……分かりました」
*
部屋へ戻ると、リリアを待っていたのは、息をつく暇もないような一日だった。
まず、これまで使っていた客室から別の部屋へ移ることになった。
なぜ部屋まで変わるのだろうと思う間もなく、運び込まれた荷物を確認し、今度はアイリスに呼ばれる。
そこに待っていたのは、何着ものドレスだった。
「こちらは少し丈が長いですね」
「では、こちらを」
「色は悪くありませんが……もう少し落ち着いたものも必要でしょう」
脱いでは着て、着ては脱ぐ。
淡い水色、藤色、青みを帯びた薔薇色。銀糸で花を刺繍したものや、襟元に小さな真珠をあしらったものまで、次々とドレスが運び込まれてくる。
「こちらは昼間にお召しになるものです。こちらは王太子殿下や宰相閣下とお会いになる際に。それから、こちらは晩餐用にいたしましょう」
「……そんなに必要なんですか?」
「必要です」
アイリスは即答した。
靴を合わせ、髪飾りを選び、今度は外套まで肩に掛けられる。
「こちらの銀糸はよくお似合いですね。花の意匠も……ええ、こちらを残しましょう」
鏡の中には、見慣れないほど丁寧に装った自分がいる。けれど、次のドレスが運ばれてきて、感慨に浸る暇もない。
「あの、まだあるんですか?」
「ございます」
「……そうですか」
隣では、ヴィオラが笑いを堪えていた。
ようやく最後の一着を脱いだと思えば、今度は新しく使う部屋に必要なものを確認し、明日からの予定を聞かされる。
その合間にも侍女や仕立てを担当する者が入れ替わり立ち替わりやってきた。気がつけば昼を過ぎ、気がつけば窓の外の光が傾き始めている。
それでも、ふと手が空くたびに思い浮かぶのは、王宮のことではなかった。
マダム・エレナ。
コレット。
ヴァレン。
自分がここにいることで、本当にあの人たちは安全なのだろうか。
忙しさに追われている間は考えずに済んでも、ほんの少し静かになると、また胸の奥に浮かんでくる。
そうして、ようやく長い一日が終わった頃。
リリアは湯気の立ち込める浴室で、深く息を吐いた。
「……疲れた」
「お疲れさまでした」
背後からヴィオラの声がする。
温かな湯に浸かったあと、リリアはヴィオラに髪を洗ってもらっていた。
淡い桜色の長い髪に湯を含ませ、ヴィオラの指が丁寧に梳いていく。花の香りのする洗髪料が泡立ち、温かな湯と一緒に肩を流れていった。
「……リリア」
呼ばれて、リリアは目を開けた。
「ん?」
「今日は、ずっと元気がありませんでしたね」
リリアは少し黙った。ヴィオラの指が、髪を梳いていく。
「……帰れないんだって」
その手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「私が家に帰ったら、マダム・エレナたちまで危ない目に遭うかもしれないって」
「……はい」
「だから、帰れない」
口にしてみると、昼間よりもずっと重く感じた。
「分かってるんだけど」
リリアは膝を抱えるように、少し身体を丸めた。
「……帰りたいな」
ヴィオラはすぐには何も言わなかった。湯気の向こうで、水の落ちる音だけがする。
やがて、ヴィオラの指がもう一度ゆっくりと髪を梳いた。
「……帰りたいですよね」
リリアは少しだけ顔を上げた。
「ヴィオラも、そう思う?」
「はい」
ヴィオラの指が、濡れた髪をゆっくりと梳いていく。
「私の家、昔は貴族だったんです」
「……昔?」
「ええ。家が没落して、私は一人で王宮へ働きに出ました」
ヴィオラはそう言って、少しだけ笑った。
「ここへ来たばかりの頃は、私も毎日のように家へ帰りたいと思っていました」
リリアは黙ってヴィオラの声を聞いた。
「だから、分かります。帰れないと分かっていても、帰りたいものは帰りたいんです」
「……うん」
「ですから、帰りたい日は、帰りたいって言っていいと思います」
ヴィオラの声が少しだけ柔らかくなる。
「少なくとも、私しかいないときくらいは」
リリアの口元が、ほんの少し緩んだ。
「ありがとう」
「いえ」
ヴィオラはまた髪を洗い始める。
しばらくして、少し明るい声で言った。
「それに、明日からはお勉強も始まりますし」
リリアの動きが止まった。
「……忘れてた」
「忘れてたんですか?」
「今、思い出した……」
ヴィオラが小さく笑った。
「大丈夫ですよ」
「何が?」
「ノア王太子殿下も、今でこそ立派でいらっしゃいますけど、昔はお勉強が嫌で泣いていらしたんですよ」
リリアが振り返った。
「えっ?」
「危ないですから、前を向いてください」
「あ、ごめん」
慌てて戻る。けれど、気になる。
「本当に?」
「本当です」
「ノア殿下が?」
「はい」
今日、背筋を伸ばして自分に「学んでください」と告げた少年の姿が浮かぶ。
「……全然、想像できない」
「でしょう?」
ヴィオラの声にも笑いが混じった。
「文字のお勉強が嫌だと、机の下から出てこなかったこともあったそうです」
「えー?」
思わず声が出た。
十歳のノアより、さらに小さなノアが机の下に隠れているところを想像する。あまりにも、今日の姿と結びつかない。
リリアはくすくすと笑った。
「それ、殿下に言ってもいい?」
「駄目です」
返事は即座だった。
「絶対に駄目です」
「ふふ、分かった」
「本当にお願いしますね」
「言わないよ」
笑いながら答える。
胸の奥にある重たいものが消えたわけではない。
それでも、温かな湯気の中でヴィオラと笑っている間だけは、少しだけ息がしやすくなった。




