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セレニア王国物語 ~花冠の女王と白き神獣~  作者: n.
第一部 花冠の女王
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19/21

第十八章 知らないセレニア


翌朝。


朝食を終えたリリアの前に、アイリスは一枚の紙を差し出した。


「こちらが、当面の予定でございます」

「ありがとうございます」


受け取った紙に目を落とし、リリアは上から順に文字を追った。


-------


月の日

 午前 宮廷礼儀・基本作法

 午後 セレニアの文化と慣習


星の日

 午前 セレニア王国史

 午後 地理・地方の特色


水の日

 午前 アルヴェール王家史

 午後 王宮・行政組織


花の日

 午前 周辺諸国・外交関係

 午後 宮廷礼儀・社交


風の日

 午前 身分制度・貴族社会

 午後 産業・交易


大地の日

 午前 復習・読書課題

 午後 自由時間


陽の日

 休息日


-------


「……こんなに種類があるんですか?」


一週間の始まりである月の日から、休息日の陽の日まで。


いつもなら曜日を数えることなどないのに、こうして七日分を並べられると、ずいぶん多く見える。


「はい。とは申しましても、まずは基礎からでございます」

「基礎……」


リリアはもう一度、予定表を見る。


王国史。地理。王家史。周辺諸国。身分制度。産業。交易。


働いていた頃に比べれば、時間そのものは長くない。けれど、最後に先生について授業を受けたのは、ずっと幼い頃のことだった。


本なら今でも毎日のように読む。知らないことを調べるのも好きだ。それでも、王宮で用意された授業に自分がついていけるのかは、また別の話に思えた。


「……私、ちゃんとついていけるでしょうか」

「そのために先生方がおります」


アイリスは事もなげに答えた。


「リリア様の理解度を確認しながら進めていただくよう、こちらからもお願いしております。最初からすべてをご存じである必要はございません」

「そうですか……」


少しだけ肩の力が抜ける。


「それから、授業で使用するものについてもご用意しております」


アイリスが視線を向けると、控えていた侍女たちが数冊の本を机の上へ並べた。


その瞬間、リリアの目が輝いた。


新しい紙とインクの匂いが、ふわりと鼻先をくすぐる。図書室の古い本に染みついた、乾いた紙や革の匂いとは違う。まだほとんど人の手に触れていない、新しい本だけが持つ匂いだった。


「わあ、素敵……!」


一冊を手に取る。


表紙は硬く、背はまだ馴染んでいない。そっと開けば、真新しい紙がかすかな音を立てた。


「今回の授業のために、新しく用意したものもございます」

「これ、全部読んでいいんですか?」

「もちろんでございます」

「授業のない時間にも?」

「差し支えございません」


リリアはすぐに次の本を開いた。


セレニア王国全土の地図が大きく折り込まれている。王都リュネールから延びる街道。南の温暖な土地。北へ広がる平野と森。東の海岸に並ぶ港町。西に連なる山々。


さらにページをめくれば、地方ごとの気候や産物まで細かく記されていた。


「こんなに詳しい地図、初めて見ました」


隣にいたヴィオラが、くすりと笑う。


「リリア様、予定表を見ていたときと全然お顔が違います」

「だって、本までもらえるとは思ってなかったから」

「差し上げるとは申しておりません」


アイリスの声が飛んできた。


リリアの手が止まった。


「……返すんですか?」

「王宮の備品でございますので」

「そうですか……」


明らかに声が落ちる。ヴィオラがとうとう吹き出した。


「ヴィオラ」

「申し訳ありません」


そう言いながらも、肩が揺れている。


アイリスは小さく息をついた。


「ただし、書き込みをしていただくための教材については、リリア様がお使いになって構いません」

「本当ですか?」


すぐに顔を上げたリリアを見て、アイリスの口元もわずかに緩んだ。


「はい。それでは参りましょう」

「どこへですか?」

「礼儀作法の教室でございます」


リリアは予定表とアイリスを交互に見た。


「ここでするんじゃないんですか?」

「授業ごとに使用する部屋が異なります」

「全部?」

「すべてではございませんが、基本的には」


アイリスは予定表の科目を指で追った。


「礼儀作法はこちらの階の練習室。歴史や地理、周辺諸国については西棟の講義室を使用します。王宮や行政については、執務棟へお越しいただくこともございます」


リリアは紙を見下ろした。広い王宮を歩き回る自分の姿が頭に浮かぶ。


「……授業より、移動の方が大変そうですね」

「そのうち道も覚えますよ」


ヴィオラが明るく言った。


「そのうち、って……」


まだ自分の部屋から図書室へ行くのにも、ヴィオラがいなければ自信がない。


本を抱え、二人の後について部屋を出た。


王宮の廊下は、何度歩いても長かった。


磨かれた石床に三人分の足音が響く。大きな窓を通るたび、朝の光が床へ細長く落ちていた。角を曲がり、階段を下り、また廊下を進む。


「ヴィオラ」

「はい?」

「今、どっちから来たか分かる?」

「もちろんです」

「……すごいね」

「リリア様もすぐ覚えますよ」


その言葉を信じることにした。


礼儀作法に使われる部屋は、華やかな客間とは少し違っていた。


広い。けれど、家具が少ない。


淡いクリーム色の壁には細い蔓草と花の意匠が施され、壁際には、人ひとりの姿を頭から足元まで映せる大きな姿見が三枚、間隔を空けて並べられている。


窓際には椅子が数脚。反対側の壁には小さな丸机や花瓶、ティーセットまで置かれていた。部屋の中央だけが、不自然なほど広く空いている。


床には、細い銀色の線がいくつも引かれていた。


「これは?」


リリアは足元を見る。


「歩き方や立ち位置を確認するための目印でございます」

「そのための線なんですね」

「はい。礼や正式な入退室の練習にも使用いたします」


リリアは姿見の一枚を覗き込んだ。


淡い色のドレスを着た自分が、靴の先まで映っている。こんなに大きな鏡を、リリアはこれまで見たことがなかった。


「……全部見えますね」

「そのための鏡です」


どうやら、少しの誤魔化しも許してくれないらしい。


「まずは、ご挨拶から始めます」


アイリスと向かい合い、リリアは姿勢を正した。


「廊下で、一度お会いしたことのある方と行き会ったといたしましょう」

「はい」

「今のリリア様のお立場では、ご自身からお声をかけるのではなく、まず相手の方からのご挨拶をお待ちください」

「知っている方でもですか?」

「はい。親しくお話しする間柄でない限りは」


リリアは少し首を傾げた。


「……難しいですね。知っているのに」

「王宮では、存じ上げていることと、親しいことは別でございます」

「分かりました」

「では、私からお声をかけます」


アイリスは一度距離を取り、廊下ですれ違ったかのようにリリアへ視線を向けた。


「ご機嫌よう、リリア様」

「……ご機嫌よう」

「もう一度」

「何が違いました?」

「お顔が、『これで合っていますか』と仰っています」

「顔もですか?」

「もちろんでございます」


後ろに控えていたヴィオラが、さっと顔を背けた。


けれど、姿見にはしっかり映っている。


「ヴィオラ、笑ってる?」

「笑っておりません」

「鏡で見えてるよ」


ヴィオラが口元を押さえた。


「授業中でございます、リリア様」


アイリスの一言で、二人とも黙った。


「続けます」


次は歩き方だった。


床に引かれた銀色の線の端へ立たされる。


「いつものように、あちらまで歩いてください」


言われた通りに歩く。


「速すぎます」

「……これで?」

「はい。宮廷では、急ぐ姿を人前に晒すものではございません。歩みは優雅に。速すぎれば、気品がないように映ります」

「でも、急いでいるときは?」

「それでもです」

「……大変ですね」

「リリア様は普段のお歩きになる速度が、そもそも速すぎるのです」

「仕事のときは、もっと速く歩いてました」

「ここはお店ではございません」

「はい……」


アイリスは細い飾り紐を取り出すと、リリアの腰に軽く結び、足元へ垂らした。


「裾を大きく揺らさず、この紐が前後に暴れない程度の歩幅で歩いてください」

「そんなところまで見られるんですか?」

「見られます」

「誰に?」

「皆様に」


リリアは黙った。


もう一度、姿見の前を歩く。今度は意識して、ゆっくりと足を運んだ。


「遅すぎます」


足を止める。


「……さっき速いって言いましたよね?」

「ゆっくり歩くことと、優雅に歩くことは別でございます」

「難しいです」

「先ほどもお聞きしました」


さらに、椅子への座り方。立ち上がるときの動作。人の前を横切るとき。扉の前で王族と鉢合わせた場合。会話へ入るときと、退出するとき。


普段なら考えもしないような動作に、一つひとつ作法がある。


「では、こちらへお座りください」


リリアは椅子へ腰を下ろした。姿見の中で、自分の姿勢がよく見える。


「背もたれには寄りかからないように」


背中を離す。


「膝を揃えて」


揃える。


「手はこちらへ」


膝の上に置く。


しばらくその姿勢を保っていると、無意識に足を動かしかけた。


「足を組まないでください」

「組んでません」

「今、組もうとなさいました」

「……分かるんですか?」

「鏡に映っております」

「あ……」


大きな鏡が少し嫌いになりそうだった。


アイリスは次にヴィオラを呼んだ。


「ヴィオラ。そちらのお花を」

「はい」


花瓶から一輪のお花を抜き取り、ヴィオラがリリアの前に立つ。


「ではヴィオラを、他家の令嬢といたしましょう。リリア様へお花を差し上げてください」

「私が令嬢ですか?」

「早くなさい」

「はい」


ヴィオラは少しだけ澄ました顔を作り、リリアへお花を差し出した。


「ご機嫌よう、リリア様。こちらをどうぞ」


先ほど習ったばかりの挨拶までつけている。


リリアは少し笑いそうになりながら、お花を受け取った。


「ありがとう」

「やり直しです」

「……お花を受け取るだけなのに?」

「お花を受け取るだけだからこそです」


アイリスはリリアの手元を指した。


「正式な場では、まず相手へ言葉を返し、両手で受け取ります。お花を見ずに、そのまま他の者へ渡してもいけません」

「どうしてですか?」

「贈られたお花には意味がございます。それを確かめることなく手放すのは、相手の言葉を聞かずに背を向けるようなものです」


リリアは手の中のお花を見る。


その説明なら、よく分かった。


「もう一度お願いします」

「では」


ヴィオラが再び差し出す。


「ご機嫌よう、リリア様。こちらをどうぞ」


リリアは今度は相手を見て微笑んだ。


「ご機嫌よう、ヴィオラ。ありがとうございます。とても綺麗なお花ですね」


両手で受け取り、お花へ目を落とす。


「いかがでしょう?」

「よろしいでしょう」


ようやくアイリスから合格が出た。リリアはほっと息をついた。


午前の授業が終わる頃には、覚えなければならないことの多さに驚いていた。


けれど、不思議と嫌ではなかった。なぜそうするのかを尋ねれば、アイリスはきちんと理由を教えてくれる。理由が分かれば、ただ形を覚えるよりもずっと面白かった。


昼食を挟み、午後。


「次は西棟でございます」


ヴィオラに言われ、リリアは教材を抱え直した。


「西棟……」


午前中とは、また違う場所だった。


階段を上がり、渡り廊下を抜ける。窓の向こうには中庭が見え、その先にはさらに別の棟が続いている。


「王宮って、こんなに広かったんだね」

「まだ半分も歩いていませんよ」

「……聞かなかったことにする」


ようやく辿り着いた西棟の講義室は、礼儀作法の教室とはまるで違っていた。


壁には大きなセレニア王国の地図が掛けられ、棚には分厚い歴史書や地誌が隙間なく並んでいる。窓辺には巻かれた地図が何本も立てかけられ、大きな机の上には筆記具と数冊の本が用意されていた。


古い紙と木の匂いがする。


リリアは部屋へ入っただけで、少し嬉しくなった。


ヴィオラが教材を机へ置く。


「ではリリア様、授業が終わる頃にお迎えに参りますね」

「ヴィオラは一緒じゃないの?」

「私は授業を受けませんから」


それはそうだ。


「迷子にならないよう、ちゃんとここで待っていてくださいね」

「はーい……」


子どもに言い聞かせるような言い方が少し不満だったけれど、ここから一人で部屋へ戻れと言われても困る。


ヴィオラはくすりと笑って一礼すると、扉の向こうへ消えていった。


ほどなくして、再び扉が開いた。


入ってきたのは、長身の男だった。


五十代半ばほどだろうか。灰色を帯びた髪には白いものが混じり、細い縁の眼鏡の奥には落ち着いた知性を感じさせる瞳がある。すらりとした体つきで、年齢を重ねた目元には薄く皺が刻まれていた。


端正な顔立ちと整った服装の上から、象牙色の長い研究衣を羽織っている。胸元からは小さな手帳と筆記具が覗き、袖口には小さなインクの染みがついていた。


男はリリアの前まで来ると、穏やかに一礼した。


「初めまして、リリア様。エドガー・ベルクと申します」

「初めまして。リリア・ローレンです」

「本日から、歴史や地理、文化、それからセレニアを取り巻く国々についてお話しさせていただきます」


エドガーは向かいの椅子へ腰を下ろした。


机の上には何冊もの本が置かれている。リリアは思わずそちらを見た。


その視線に気づいたのか、エドガーが眼鏡の奥でわずかに目を細めた。


「本がお好きだと伺っています」

「はい」

「それは何よりです。私の授業ではよく使いますから」


リリアは少し嬉しくなった。


「では、本日の授業を始めましょう」


エドガーは一冊の本を机の中央へ置いた。


「今日は、セレニアの文化についてお話しします」

「文化……」

「ええ。ただし、私が一方的に説明するつもりはありません」


エドガーは眼鏡の奥からリリアを見る。


「まず、リリア様がすでにご存じのことを確認します。ご存じのことを私が一時間かけて説明しても、お互い時間の無駄でしょう」

「はい」

「試験ではありません。分からないことは、分からないと仰ってください。その方が、私も教えやすい」

「分かりました」

「では――この国で、お花を贈ることについて。ご存じのことを話していただけますか?」


それなら、リリアにも馴染みがある。


「気持ちを伝えるために贈ります。お祝いとか、お礼とか。謝るときにもお花を贈りますし、誰かのお家を訪ねるときや、お悔やみのときにも」

「恋人には?」

「もちろん贈ります」

「では、青い花は?」

「誠実、です」

「赤い薔薇」

「強い愛情」


エドガーは小さく頷いた。


「弔いのお花は?」

「白を中心に、淡い色を合わせることが多いです。飾りも華やかにはしません」


いくつか質問が続いた。


色の意味。贈る場面。訪問するときのお花。


リリアが答えるたび、エドガーは短く頷いたり、手元の紙へ何かを書き込んだりしている。


やがて顔を上げた。


「なるほど。市井で用いられる花の作法については、十分ご存じのようですね」

「仕事で、お花も扱っていたので」

「そうでしたか。それならば、そこを一からお教えする必要はなさそうです」


エドガーは紙にもう一つ何かを書き加えた。


「リリア様は、知識がないわけではありませんね」

「そうでしょうか」

「ええ。ただし、かなり偏っていらっしゃる」

「……それ、褒められてます?」

「事実を申し上げています」


真顔だった。リリアは返事に困った。


「本を多く読まれているのでしょう。興味を持たれた分野については、想定していた以上によくご存じです。一方で、宮廷や貴族社会についてはほとんど触れてこなかった」

「はい。そちらはあまり……」

「悪いことではありません。どこを補えばよいのか分かりやすい」


そう言うと、エドガーは机の上に置かれていた細長い箱を開いた。


中には何種類かの造花と、色の違う細い飾り布が収められている。


「では、ここから先を」

「ここから先?」

「宮廷での花の作法です」


リリアは瞬きをした。


「午前中にも少し習いました」

「アイリス殿から?」

「はい。お花の受け取り方を」

「なるほど。では私は、贈る側の話をしましょう」


エドガーが一本の花を取り出した。


「宮廷では、花の種類だけを知っていても十分ではありません。本数、組み合わせ、結ぶ布、贈る相手、場所。正式な場では、渡す順序まで意味を持つことがあります」

「……そんなに?」

「特に外交の場では、お花も言葉の一つですから」


午前中、アイリスに言われたことと同じだった。


贈られたお花の意味を確かめずに手放すのは、相手の言葉を聞かずに背を向けるようなもの。


あれは、こういうことだったのかもしれない。


ひと通り説明を終えると、エドガーは造花を箱へ戻した。


それから、傍らに積んでいた本の中から一冊を取り出す。


先ほどまで使っていた教材よりも古い本だった。


「では、もう一つ」


何枚かページをめくり、あるところで手を止める。


開いた本を、リリアの方へ向けた。


「この花に、見覚えはありますか?」


植物図譜らしい。


ページには、一輪の白い花が細かな線で描かれていた。


リリアは挿絵を覗き込む。


幾重にも重なる白い花弁。その形を目で追っているうちに、胸の奥に何かが引っかかった。


「……あ」


エドガーの目が、わずかに細くなった。


「見覚えが?」


リリアは本を少し自分の方へ引き寄せた。


古い石碑。


夕暮れの光。


草の間を抜けていった風。


その中で、静かに咲いていた白いお花。


「……このお花、見たことがあります」

「こちらを?」

「はい。たぶん……これです」


エドガーはすぐには答えなかった。


「どちらで?」

「石碑のところです。ルクスに連れていってもらった場所で」

「色は?」

「白でした」

「咲いていましたか?」

「はい」

「切られたものではなく、地面から生えている状態で?」

「そうです」


エドガーはしばらく黙っていた。


やがて、静かに息を吐く。


「……やはり」

「やはり?」


リリアが顔を上げる。


「リリア様が石碑の傍らで白い花をご覧になったことは、事前に伺っていました。もしやとは思っていたのですが」


エドガーは挿絵を指した。


「これは、リュミエラという花です」

「リュミエラ……」


初めて聞く名前だった。


「セレニアの古い伝承に登場する花でもあります。《白き花の守り手》が、初代国王へ授けたとされる白い花です」


リリアの視線が、挿絵へ戻った。


図書室で読んだ古い物語が蘇る。


争いの続いた大地。


空から降りてきた白い獣。


そして、選ばれた一人の魔術師へ差し出された白い花。


「……これが、あのお花?」


あの物語の中にあった花と、自分が石碑の傍らで見た花。


二つが、ようやく一つにつながった。


「記録が正しければ、ですが」


エドガーはそう答えたものの、その目は挿絵ではなくリリアを見ていた。


「リュミエラは、非常に珍しい花です。正確な開花条件は現在も分かっておらず、現存する古い記録を比較しても、開花時期に一定の法則が見られません。気温との相関を唱えた学者もいましたが、南部と北部双方に記録があり、土壌についても同様で、そもそも同一種を指しているのかという議論までありまして、王立書庫に残る記録だけでも――」


リリアは瞬きをした。


さっきまでと、話す速さが違う。


「先生」

「はい」

「少し早いです」

「……失礼しました」


エドガーは咳払いをした。


「つまり、生きた状態で観察された記録が極端に少ない花なのです」


何事もなかったような顔に戻っている。


「そんなに珍しいんですか?」

「珍しい、では足りないでしょうね。私は三十年ほど資料を追っていますが、未だ実物を見たことはありません」


リリアは挿絵とエドガーを交互に見た。


「先生も見たことないんですか?」

「ありません」


きっぱりと言われた。


「……私、普通に近くまで行きましたけど」

「ええ。ですから」


エドガーは手帳を取り出した。


「いくつか、お尋ねしても?」

「はい」

「開花していた時刻は覚えていらっしゃいますか?」

「夕方です。まだ空は明るくて――」

「一輪でしたか複数でしたか花弁は何枚ほどでした葉の形は茎の高さは周囲に蕾はありましたか日当たりは土は乾いていましたか湿っていましたか」

「えっ」

「白色とのことですが純白ですか青みや銀色は花弁の先端に色の変化は雄蕊は確認しましたか周囲に同じ葉を持つ株は――香りは?」

「ちょ、ちょっと待ってください」


エドガーの筆はもう動き始めている。


「石碑のあった場所ですね。空の明るさは? 日没まではどの程度ありましたか?」

「そこまでは……。でも、まだ明るかったです」

「星が流れたのは、花をご覧になる前ですか? あとですか?」

「お花を見たあとです。急に、たくさんの星が流れて……」


エドガーの筆が止まった。


「たくさん、とは?」

「数えられないくらいです。空はまだ明るかったのに」


一瞬だけ、エドガーが黙る。


「……その話も、詳しく伺いましょう」

「先生」

「はい」

「また早くなりそうです」

「気をつけます」


そう答えたわりに、手帳を握る指には力が入っている。


「では、順番に。まずは花について確認しましょう」


少しだけ話す速度を落としたエドガーに、リリアは記憶を辿りながら答えていった。


白いお花。古い石碑。草を揺らしていた風。


そして、まだ明るさの残る空を、次々と流れていった星。


「香りは覚えていらっしゃいますか?」


リリアは少し考えた。


「強い香りではなかったと思います」


エドガーの筆が動き出す。


「続けてください」

「甘いというより……澄んだ匂いで」

「澄んだ?」

「雨が上がったあとの空気みたいな。でも、少しだけ甘くて……近くで嗅いだときより、風が吹いたときの方が分かったような気がします」


凄まじい勢いで文字が増えていく。


「ほかには?」

「もう覚えてません」

「花弁は?」

「数えてません」

「葉の形は?」

「見てません」

「大きさは?」

「普通のお花より少し大きかったような……」

「少しとは?」

「先生」

「はい」

「近いです」


いつの間にか、またエドガーが机越しに身を乗り出していた。


「失礼しました」


すっと元の位置へ戻る。


「先生は、リュミエラがお好きなんですか?」

「好き、という表現が適切かは分かりません」


エドガーは少し考えた。


「三十年ほど追っています」

「それは好きなんじゃないですか?」


エドガーは答えなかった。代わりに眼鏡を押し上げる。


「私はこの国の歴史を研究してきました。その中で、リュミエラについて書かれた記録も数多く読んでいます。一度でいいから、生きて咲いている姿をこの目で見たいと思っていました」


そして、リリアを見る。


「率直に申し上げて、非常に羨ましい」


あまりにも真剣な顔だった。リリアは思わず笑ってしまった。


「笑うところではありませんよ」

「すみません」

「私は本気です」

「分かってます」


それが余計におかしかった。


エドガーは納得がいかない顔をしながらも、ようやく手帳を閉じた。


「では、授業へ戻りましょう」

「はい、先生」

「ただし、リュミエラについて何か思い出した場合は、どんな些細なことでも必ず私に教えてください」

「授業よりそっちの方が大事そうですね」

「そのようなことはありません」


少し間があった。


「同程度に重要です」


今度は声を立てて笑ってしまった。

こんなにたくさん笑うのは久しぶりのことだった。


朝、予定表を渡されたときには、知らないことの多さに少し不安になった。それに、教科が変わるたびに広い王宮を歩かなければならないらしい。


授業についていけるかだけでなく、明日はきちんと教室へ辿り着けるだろうかという心配まで増えてしまった。


それでも、午前中には今まで知らなかった王宮の作法を知った。午後には、ずっと暮らしてきたセレニアにも、自分の知らないお花の文化があることを知った。


開かれた本の向こうには、リリアの知らないセレニアがまだたくさんある。


それを一つずつ知っていけるのなら、王宮で過ごす時間も、少しだけ違って見えるかもしれない。


それに――。


リリアは、まだ何かを書き足しているエドガーを見た。

この先生とは、きっと仲良くなれそうな気がする。

明日の授業も、少しだけ楽しみになった。


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