第十九章 王都騎士団長
午後の市場は、一日のうちでいちばん騒がしい。
荷馬車の車輪が石畳を鳴らし、軒先からは客を呼ぶ声が飛び交っている。焼きたてのパンの香りに、果物の甘い匂い、花屋の桶から立つ青葉の匂いまでが入り混じっていた。
「だから、払ったと言ってるだろう!」
その喧騒を割って、怒鳴り声が響いた。
ヴァレンが足を止める。少し先に、人だかりができていた。
濃紺の騎士服の裾を翻し、ヴァレンはそちらへ向かう。腰には長剣。金糸の刺繍が入った外套は、王都騎士団長であることを示すものだった。
人垣が彼の姿を認め、自然と左右に分かれていく。
ヴァレンは二十四歳という若さで王都騎士団を率いている。
長身で、すらりとして見えるが、肩や腕には剣を振るうために鍛えた厚みがある。すこしだけ癖のある黒髪は、きっちり撫でつけてもすぐに額へ落ちてきて、本人もとうに直すことを諦めていた。
黙っていれば近寄りがたいし、実際、黙っていることの方が多い。
「何があった」
人垣の中心で睨み合っていたのは、二人の男だった。
一人は、日に焼けた浅黒い顔に無精髭を生やしている。くたびれた茶色の上着に、泥の乾いた長靴。背後の荷馬車には野菜や穀物の入った木箱が高く積まれていた。
見覚えのない顔だった。
もう一人には見覚えがある。市場の入口近くで長く乾物店を営んでいる男だ。恰幅のいい身体に、いつもの生成りの前掛け。巡回中に顔を合わせれば向こうから声をかけてくる程度には、ヴァレンも知っている。
「団長、聞いてくださいよ。こいつが場所代を払ってないっていうんです」
「払ったって言ってるだろ!」
「俺は受け取ってない!」
「そっちの若い男に渡したんだ!」
「だから、うちにそんな奴はいないって言ってるだろ!」
地方から来たらしい男が、苛立った様子で一歩踏み出した。
「順番に話せ」
ヴァレンが言うと、二人とも口を閉じた。後ろにいた騎士が、慣れた様子で周囲の野次馬を少し下がらせる。
ヴァレンはまず、見覚えのない男へ目を向けた。
「どこから来た」
男は北部にある村の名を答えた。王都から荷馬車で数日はかかる場所だった。
「何を運んできた」
「麦と豆、それから野菜だ。毎年この時期に来てる」
荷馬車を見れば、それは嘘ではなさそうだった。ヴァレンは男の泥のついた靴へ一度目を落とし、再び顔を見る。
「最初から話せ」
男は朝早く王都へ入り、毎年利用しているこの市場へ荷を運んできた。入口で市場の者らしい若い男に声をかけられ、荷車を入れるための金を払ったという。
「どんな男だった」
「二十……いや、もう少し上か。茶色い髪で、背は俺より少し低かった。ここの印がついた服を着てたよ」
男が市場の入口に掲げられた紋章を指さす。
ヴァレンは乾物店の店主を見る。
「心当たりは」
「ないですよ。ここで働いてる連中なら顔くらい分かる。そもそも場所代は、あそこで払う決まりです」
店主が指した先には小さな受付があり、一人の男が帳簿を広げて座っている。
「払った証は」
「ああ。ちゃんともらった」
地方商人が懐から小さな紙片を取り出した。
市場の名と日付、金額。下には簡素な印が押されている。
ヴァレンはそれを受け取ると、紙へ目を落としたまま片手を出した。
「本物を」
後ろにいた騎士がすぐに受付へ向かう。
乾物店の店主が、ヴァレンを見た。
「偽物なんですか」
「まだ分かりません」
「でも――」
「確認します」
店主は黙った。
やがて持ってこられた紙を、ヴァレンは左右に並べた。
よく似ている。紙の大きさも、書かれている項目もほとんど同じだ。印も一目見ただけなら間違えるだろう。
二枚を指先で持ち上げ、光へ透かす。
「違うな」
「え?」
「印の縁です」
乾物店の店主が覗き込み、目を細めた。言われて初めて分かる程度に、形が違っている。
「うちのじゃない……」
地方商人の顔から怒りが消えた。
「じゃあ俺は、騙されたってことか?」
ヴァレンは偽の紙をもう一度見た。
雑に作ったものではない。市場の仕組みを知らなければ、ここまで似せることも難しいだろう。
「払った金額は」
男が答えると、乾物店の店主が眉をひそめた。
「高いな」
「最近はこんなもんだと思ったんだよ」
「なぜ」
ヴァレンが聞くと、男は苛立ったように頭を掻いた。
「ここまで来るのにも、前より金がかかってる。通行料だの、荷の確認だの、細かいのがいろいろ増えたんだ。村を出るときにも今年から必要だって言われたものがあったし」
「どこで払った」
いくつかの町と街道の名が挙がる。
ヴァレンはそれを聞き、短く頷いた。
「だから王都も上がったんだと思ったんだよ」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
ヴァレンは偽の紙を部下へ渡す。
「預かっておけ」
「はい」
地方商人が不安そうに尋ねた。
「金は戻ってくるのか?」
「犯人が見つかればな」
「見つけてくれよ。こっちは遊びに来てるんじゃないんだ」
「分かった」
短い返事だったが、男はそれ以上何も言わなかった。
「悪かったな。怒鳴って」
地方商人が乾物店の店主へぼそりと言う。
「こっちも悪かったよ。騙されたなんて思わねえだろ」
店主も息を吐き、それからヴァレンを見る。
「団長もすみませんね。昼飯時に」
「いえ。いつものことです」
「人聞き悪いなあ。俺がいつも騒ぎを起こしてるみたいじゃないですか」
ヴァレンは答えず、部下を見る。
「同じものを持っている者がいないか確認しろ」
「はい」
「無視ですかい」
店主がぼやき、周囲に残っていた者たちから小さな笑いが起きた。
ヴァレンがその場を離れようとしたところで、別の騎士が一人の女性を連れてきた。
「団長。この方も、今朝同じように金を払ったそうです」
女性の手にも、同じ紙片があった。
それから一人、さらに二人と、話を聞きつけた商人が自分もだと名乗り出る。
午前中だけで六人。
ヴァレンは市場の入口に立ち、行き交う人々を見渡した。陽射しを受けて目を細める。
その横顔を見ていた若い騎士が、何か言おうとしてやめた。
ヴァレンが考えているときは、話しかけない方がいい。それを騎士団の者たちは知っている。
「入口にいた連中にも聞きましたが、それらしい男を覚えている者はいません」
「そうか」
「もう逃げたんじゃないですかね」
朝から六人。市場の服を用意し、紙まで似せている。
ヴァレンは荷馬車の列へ視線を移した。午後になっても、地方から新しい荷が次々と運び込まれてくる。
「二人、裏口へ回れ」
「え?」
「まだいる」
騎士たちが顔を見合わせた。
「どうして分かるんです?」
「今日は荷が多い」
ヴァレンが市場へ入ってくる荷馬車を顎で示す。
「稼げる日に、昼でやめる理由がない」
「ああ」
騎士たちがすぐに散っていく。
ヴァレンは入口近くに残り、目立つ団長用の外套を外して部下へ渡した。
「持ってろ」
「はい」
長剣は残したまま、人通りの多い店先へ移る。
団長用の外套を脱いでも、長身のヴァレンは人混みの中で目立った。身体に沿う濃色の騎士服は鍛えられた肩や腰の線を際立たせ、少し乱れた前髪がいつもより無造作に額へ落ちている。
近くの花屋で買い物をしていた若い女性が、ふとヴァレンを見た。
一度通り過ぎかけて、もう一度振り返る。今度は明らかに見惚れていた。
ヴァレンはその視線に構わず、行き交う荷馬車と人の流れを追っている。
「団長」
「何だ」
「いえ。何でもありません」
部下が口元を緩める。
ヴァレンがそちらを見た。
「仕事しろ」
「してます」
「なら前を見ろ」
「はい」
しばらくして、一台の荷馬車が市場の前で止まった。
御者台から年配の男が降りる。その男へ、一人の若い男が近づいていった。
茶色い髪。市場で働く者によく似た上着。
――ヴァレンの視線が止まった。
男は慣れた様子で市場の入口を示し、年配の商人へ何かを説明している。
ヴァレンは動かない。
やがて商人が懐へ手を入れた。
そこで初めて、ヴァレンは二人の方へ歩き出した。
「その金は払わなくていい」
若い男の手が止まり、ゆっくりと振り返る。
ヴァレンと目が合った。
一瞬、男の顔が強張った。
次の瞬間、走り出した。
「逃げた!」
騎士が叫ぶより早く、ヴァレンは地面を蹴っていた。
市場を飛び出した男が大通りを横切り、人々の間を縫って荷車の脇をすり抜け、細い路地へ飛び込む。ヴァレンもすぐに続いた。
長い脚が一歩ごとに距離を削っていく。振り返った男の顔が引きつった。
男は道端の木箱を蹴り倒した。赤い果実が石畳いっぱいに転がり、店主の怒鳴り声が飛ぶ。
「おい! 何しやがる!」
ヴァレンは速度を落とさない。転がる果実の間を一気に駆け抜け、倒れた木箱を飛び越えた。
追跡で乱れた前髪が額へ落ちる。払うこともなく、さらに距離を詰める。
男が再び振り返り、今度は明らかに顔色を変えた。そのまま路地を曲がったが、先は行き止まりだった。
「終わりだ」
「来るな!」
追い詰められた男が懐から短刀を抜く。
ヴァレンの腰にも長剣がある。だが、その柄に手をかけることはなかった。
「捨てろ」
「うるせえ!」
男が短刀を構えて突っ込んでくる。
刃が届く寸前、ヴァレンは身体をわずかにずらした。空を切った腕をそのまま掴み、手首を捻る。
「っ……!」
硬い音を立てて、短刀が石畳へ落ちた。
男が腕を振りほどこうとするより早く、ヴァレンは一歩踏み込む。掴んだ腕を引き寄せて重心を崩し、その勢いを利用して身体を石畳へ叩きつけた。
「ぐっ……!」
すぐに腕を背中へ回し、片膝で押さえ込む。
男が身を捩るが、ヴァレンの身体はほとんど動かない。
「動くな」
怒鳴ってはいない。それで十分だった。
「わ、分かった! 分かったから……!」
そこでようやく、ヴァレンは一度だけ息を吐いた。長い距離を走ったはずなのに、呼吸は少し深くなった程度だった。
長剣は、最後まで鞘に収まったままだ。
やがて複数の足音が近づき、部下たちが路地へ駆け込んでくる。
「団長!」
短刀は地面。犯人も地面。その上からヴァレンが押さえ込んでいる。
一人の騎士が膝に手をついた。
「……団長」
「何だ」
「もう少し、俺たちを待ってくれてもよくないですか」
「遅い」
「団長が速いんです」
ヴァレンはようやく犯人から膝を退け、立ち上がると乱れた襟元を片手で直した。
「捕縛しろ」
「はい」
男を引き渡し、落ちていた短刀を拾う。
「これも押収だ」
「はい」
来た道を戻ろうとして、ヴァレンは足元に転がっていた赤い果実に気づいた。
「……店にも謝らないとな」
「犯人に弁償させましょう」
「ああ」
何事もなかったように歩き出す。
後ろで、捕まった男が呟いた。
「化け物かよ……」
ヴァレンが振り返る。
男は黙った。
*
王都騎士団の詰所へ戻る頃には、午後の陽射しがずいぶん傾いていた。
石造りの建物の窓から橙色の光が差し込み、廊下を長く染めている。巡回から戻った騎士たちが壁際へ外套を掛け、剣帯を直しながら今日の出来事を報告していた。
奥ではペン先が紙を擦る音がする。開けた窓の向こうからは、夕刻を知らせる鐘の音が聞こえてきた。
捕らえた男は、そのまま取調室へ連れていかれた。
机の上には、奪った金や何十枚もの紙片、市場の印を真似るための道具、短刀が押収品として並べられている。
ヴァレンは男の向かいへ腰を下ろした。
走ったときに乱れた髪はそのままで、いつもより少しだけ襟元も崩れている。それでも椅子に深くもたれることはなく、両手を組んで机の上へ置いた。
「名前は」
「……ガルド」
「いつからやっている」
「三日前からだ」
「今日だけじゃないのか」
「……ああ」
記録係のペンが紙の上を走る。
「何人から取った」
「覚えてねえよ」
「ガルド」
名前を呼ばれただけで、ガルドは気まずそうに視線を逸らした。
「……十人くらいだ」
「くらい?」
「十二、三人だよ。たぶん」
「金は」
「使った分もある」
ヴァレンは机に並べられた硬貨へ一度だけ目を向けた。
「紙はどうした」
「自分で作った」
「元にしたものは」
ガルドの目がわずかに泳ぐ。
「……似たようなのを見たことがあったんだよ」
「どこで」
「覚えてねえよ。昔、荷を運ぶ仕事をしてた頃じゃねえの」
ヴァレンは何も言わず、ただガルドを見た。
数秒も経たないうちに、先に耐えられなくなったガルドが口を開く。
「ほ、本当だって。どこだったかなんて覚えてねえよ」
「そうか」
ヴァレンは記録係へ視線を向けた。
「続けろ」
「はい」
結局、それ以上の話は出なかった。
被害に遭った商人たちも順に詰所へ呼ばれ、金額を照合し、押収した金を確認した。市場から持ち帰った偽の紙片も、一枚ずつ番号を振って保管される。
すべての確認を終えた頃には、窓の外の橙色は薄紫へ変わっていた。
ガルドが牢へ連れていかれ、鉄格子が閉まる音を確認してから、ヴァレンは執務室へ戻った。
机には、すでに市場の一件に関する報告書が積まれている。被害額、紙片の枚数、偽造された印、押収した短刀。一つずつ目を通し、必要な箇所を書き足していった。
最後の書類へ署名を入れ、ヴァレンはようやくペンを置く。
窓の外はもう暗い。
椅子から立ち上がり、凝った肩を一度だけ回した。今日の仕事がすべて終わったわけではないが、市場の一件についてはこれで一区切りだった。
執務室を出て廊下を歩いていると、少し先から騎士たちの話し声が聞こえてきた。
「あのリリアだろ? カフェLilasの」
「そうそう。王宮から帰ってこないって」
「王太子殿下の妃になるって聞いたぞ」
「俺は王家の血を引いてるって聞いた」
「どっちだよ」
「白い獣に選ばれたって話もあるぞ」
「それは俺も聞いた」
角を曲がる頃には、すっかりヴァレンの眉間には皺が寄っていた。
壁際で話していた三人の騎士と目が合う。
一斉に口が閉じた。
「……お疲れさまです、団長」
「ああ」
ヴァレンはそのまま通り過ぎる。
三人の騎士たちは焦ったようにお互いをこづき合った。
「お前たち」
背後から、別の声がした。
「よりによって本人が来るまで気づかないとは。騎士としてどうなんだろうね」
「リシュアン副団長!」
「いたなら教えてくださいよ」
「気づくかと思って」
「絶対嘘でしょう」
「さあね。ほら、さっさと訓練に戻る!」
「はい!」
三人が慌ただしく廊下の向こうへ消えていく。
リシュアンはそれを見送ると、どこか楽しげに鼻歌を口ずさみながら廊下を進み、団長執務室の扉を開けた。
中では、ヴァレンがちょうどコーヒーを注いでいるところだった。
「ずいぶん広まってるよ」
「何が」
「リリアの話」
コーヒーを注ぐ手は止まらなかった。
「らしいな」
「今日だけで三種類は聞いた。王太子殿下の婚約者、実は王族、それから白い獣に――」
「もういい」
「そう?」
リシュアンは悪びれる様子もなく、ヴァレンの机の前までやってくる。
ヴァレンが顔を上げた。
すらりとした長身に細身の身体。騎士服は襟元まで隙なく整えられているのに、堅苦しさを感じさせない。
優しく爽やかな顔立ちには、今日もいつもの涼しげな表情が浮かんでいる。
リシュアンが人から好かれることを、ヴァレンも知っていた。団の中では後輩から慕われ、街へ出れば店の娘たちによく声をかけられる。本人も誰に対しても物腰が柔らかく、頼まれごとをされれば嫌な顔ひとつしない。
それでいて、騒ぎの最中でも、剣を抜く寸前でも、この涼しい顔だけはほとんど変わらない。
「飲むか」
「淹れてくれるなら」
「自分でやれ」
「聞いておいて?」
リシュアンは肩をすくめ、自分でもう一つカップを取った。
「それで」
コーヒーを注ぎながら、リシュアンが言う。
「まだ帰ってこないんだろう?」
「ああ」
「王宮から何か説明は?」
「ない」
「そう」
リシュアンはカップを持ち上げた。さっきまでの軽い調子が、ほんの少しだけ薄れる。
「それは、心配だね」
ヴァレンは手元のコーヒーカップへ目を落とした。
しばらくして、低く呟く。
「……王太子殿下は十歳だ」
「うん」
「リリアが婚約者になるわけがない」
リシュアンがカップの縁から目だけを上げた。
「そこ、気になってたんだ」
「違う」
「そう?」
「十歳だぞ」
「分かった、分かった」
リシュアンは笑いを含んだ声で言ったが、それ以上はからかわなかった。
ヴァレンは眉間に皺を寄せたまま、コーヒーを飲む。
「今夜は僕がいるよ。夜番への引き継ぎも済んでる」
「そうか」
「市場の件も、何かあればこっちで対応する。今日は帰りなよ」
「……悪い」
「いいよ。お疲れさま、団長」
「ああ。頼む」
リシュアンは空になったカップを置き、執務室を出ていった。
*
詰所を出る頃には、王都に夜が降りていた。
昼間あれほど賑やかだった市場の声も遠くなり、代わりに家々から夕食の匂いが漂ってくる。窓から漏れる灯りの向こうでは、食器の触れ合う音や子どもの笑い声が聞こえていた。
帰り道、まだ灯りのついていた花屋の前で、ヴァレンは足を止めた。
店先には、売れ残った花がいくつか並んでいる。
その中から赤い花を一輪選び、店主へ代金を渡してまた歩き出す。
やがて、自宅と、その隣に建つ家が見えてきた。
リリアの家は、今日も暗かった。
ヴァレンは自宅の前を通り過ぎ、隣の家の前で足を止める。
手には、先ほど買った赤い花が一輪あった。
閉ざされた玄関へ近づく。
ここへ置いておけば、帰ってきたときに気づくだろう。
そう思って扉の脇へ花を置こうとしたとき、王宮へ向かう前のリリアの顔を思い出した。
大丈夫。
あのときも、そう言っていた。
リリアは昔から、悲しいときほど上手く泣けない。辛いときほど、平気そうな顔をする。
今も王宮で、同じ顔をしているのだろうか。
「……早く」
小さく漏れた声は、そこで途切れた。
ヴァレンは手の中の赤い花を見て、玄関先へ置きかけた手を止める。
「……いつ帰るかも分からないのに、置いてどうする」
その頃には枯れている。
自分で思いついたことに自分で呆れ、ヴァレンは花を持ったまま隣の自宅へ戻った。
部屋に灯りをつけ、水を入れた細い瓶へ赤い花を挿す。置き場所を少し考えてから、自室の窓辺に置いた。
その窓からは、隣の家が見えた。
夜の風にカーテンがわずかに揺れる。
ヴァレンは赤い花の向こうにある暗い窓を一度だけ見て、カーテンを閉じた。




