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セレニア王国物語 ~花冠の女王と白き神獣~  作者: n.
第一部 花冠の女王
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20/21

第十九章 王都騎士団長



午後の市場は、一日のうちでいちばん騒がしい。


荷馬車の車輪が石畳を鳴らし、軒先からは客を呼ぶ声が飛び交っている。焼きたてのパンの香りに、果物の甘い匂い、花屋の桶から立つ青葉の匂いまでが入り混じっていた。


「だから、払ったと言ってるだろう!」


その喧騒を割って、怒鳴り声が響いた。


ヴァレンが足を止める。少し先に、人だかりができていた。


濃紺の騎士服の裾を翻し、ヴァレンはそちらへ向かう。腰には長剣。金糸の刺繍が入った外套は、王都騎士団長であることを示すものだった。


人垣が彼の姿を認め、自然と左右に分かれていく。


ヴァレンは二十四歳という若さで王都騎士団を率いている。


長身で、すらりとして見えるが、肩や腕には剣を振るうために鍛えた厚みがある。すこしだけ癖のある黒髪は、きっちり撫でつけてもすぐに額へ落ちてきて、本人もとうに直すことを諦めていた。


黙っていれば近寄りがたいし、実際、黙っていることの方が多い。


「何があった」


人垣の中心で睨み合っていたのは、二人の男だった。


一人は、日に焼けた浅黒い顔に無精髭を生やしている。くたびれた茶色の上着に、泥の乾いた長靴。背後の荷馬車には野菜や穀物の入った木箱が高く積まれていた。


見覚えのない顔だった。


もう一人には見覚えがある。市場の入口近くで長く乾物店を営んでいる男だ。恰幅のいい身体に、いつもの生成りの前掛け。巡回中に顔を合わせれば向こうから声をかけてくる程度には、ヴァレンも知っている。


「団長、聞いてくださいよ。こいつが場所代を払ってないっていうんです」

「払ったって言ってるだろ!」

「俺は受け取ってない!」

「そっちの若い男に渡したんだ!」

「だから、うちにそんな奴はいないって言ってるだろ!」


地方から来たらしい男が、苛立った様子で一歩踏み出した。


「順番に話せ」


ヴァレンが言うと、二人とも口を閉じた。後ろにいた騎士が、慣れた様子で周囲の野次馬を少し下がらせる。


ヴァレンはまず、見覚えのない男へ目を向けた。


「どこから来た」


男は北部にある村の名を答えた。王都から荷馬車で数日はかかる場所だった。


「何を運んできた」

「麦と豆、それから野菜だ。毎年この時期に来てる」


荷馬車を見れば、それは嘘ではなさそうだった。ヴァレンは男の泥のついた靴へ一度目を落とし、再び顔を見る。


「最初から話せ」


男は朝早く王都へ入り、毎年利用しているこの市場へ荷を運んできた。入口で市場の者らしい若い男に声をかけられ、荷車を入れるための金を払ったという。


「どんな男だった」

「二十……いや、もう少し上か。茶色い髪で、背は俺より少し低かった。ここの印がついた服を着てたよ」


男が市場の入口に掲げられた紋章を指さす。


ヴァレンは乾物店の店主を見る。


「心当たりは」

「ないですよ。ここで働いてる連中なら顔くらい分かる。そもそも場所代は、あそこで払う決まりです」


店主が指した先には小さな受付があり、一人の男が帳簿を広げて座っている。


「払った証は」

「ああ。ちゃんともらった」


地方商人が懐から小さな紙片を取り出した。


市場の名と日付、金額。下には簡素な印が押されている。


ヴァレンはそれを受け取ると、紙へ目を落としたまま片手を出した。


「本物を」


後ろにいた騎士がすぐに受付へ向かう。


乾物店の店主が、ヴァレンを見た。


「偽物なんですか」

「まだ分かりません」

「でも――」

「確認します」


店主は黙った。


やがて持ってこられた紙を、ヴァレンは左右に並べた。


よく似ている。紙の大きさも、書かれている項目もほとんど同じだ。印も一目見ただけなら間違えるだろう。


二枚を指先で持ち上げ、光へ透かす。


「違うな」

「え?」

「印の縁です」


乾物店の店主が覗き込み、目を細めた。言われて初めて分かる程度に、形が違っている。


「うちのじゃない……」


地方商人の顔から怒りが消えた。


「じゃあ俺は、騙されたってことか?」


ヴァレンは偽の紙をもう一度見た。


雑に作ったものではない。市場の仕組みを知らなければ、ここまで似せることも難しいだろう。


「払った金額は」


男が答えると、乾物店の店主が眉をひそめた。


「高いな」

「最近はこんなもんだと思ったんだよ」

「なぜ」


ヴァレンが聞くと、男は苛立ったように頭を掻いた。


「ここまで来るのにも、前より金がかかってる。通行料だの、荷の確認だの、細かいのがいろいろ増えたんだ。村を出るときにも今年から必要だって言われたものがあったし」

「どこで払った」


いくつかの町と街道の名が挙がる。


ヴァレンはそれを聞き、短く頷いた。


「だから王都も上がったんだと思ったんだよ」

「そうか」


それ以上は聞かなかった。


ヴァレンは偽の紙を部下へ渡す。


「預かっておけ」

「はい」


地方商人が不安そうに尋ねた。


「金は戻ってくるのか?」

「犯人が見つかればな」

「見つけてくれよ。こっちは遊びに来てるんじゃないんだ」

「分かった」


短い返事だったが、男はそれ以上何も言わなかった。


「悪かったな。怒鳴って」


地方商人が乾物店の店主へぼそりと言う。


「こっちも悪かったよ。騙されたなんて思わねえだろ」


店主も息を吐き、それからヴァレンを見る。


「団長もすみませんね。昼飯時に」

「いえ。いつものことです」

「人聞き悪いなあ。俺がいつも騒ぎを起こしてるみたいじゃないですか」


ヴァレンは答えず、部下を見る。


「同じものを持っている者がいないか確認しろ」

「はい」

「無視ですかい」


店主がぼやき、周囲に残っていた者たちから小さな笑いが起きた。


ヴァレンがその場を離れようとしたところで、別の騎士が一人の女性を連れてきた。


「団長。この方も、今朝同じように金を払ったそうです」


女性の手にも、同じ紙片があった。


それから一人、さらに二人と、話を聞きつけた商人が自分もだと名乗り出る。


午前中だけで六人。


ヴァレンは市場の入口に立ち、行き交う人々を見渡した。陽射しを受けて目を細める。


その横顔を見ていた若い騎士が、何か言おうとしてやめた。


ヴァレンが考えているときは、話しかけない方がいい。それを騎士団の者たちは知っている。


「入口にいた連中にも聞きましたが、それらしい男を覚えている者はいません」

「そうか」

「もう逃げたんじゃないですかね」


朝から六人。市場の服を用意し、紙まで似せている。


ヴァレンは荷馬車の列へ視線を移した。午後になっても、地方から新しい荷が次々と運び込まれてくる。


「二人、裏口へ回れ」

「え?」

「まだいる」


騎士たちが顔を見合わせた。


「どうして分かるんです?」

「今日は荷が多い」


ヴァレンが市場へ入ってくる荷馬車を顎で示す。


「稼げる日に、昼でやめる理由がない」

「ああ」


騎士たちがすぐに散っていく。


ヴァレンは入口近くに残り、目立つ団長用の外套を外して部下へ渡した。


「持ってろ」

「はい」


長剣は残したまま、人通りの多い店先へ移る。


団長用の外套を脱いでも、長身のヴァレンは人混みの中で目立った。身体に沿う濃色の騎士服は鍛えられた肩や腰の線を際立たせ、少し乱れた前髪がいつもより無造作に額へ落ちている。


近くの花屋で買い物をしていた若い女性が、ふとヴァレンを見た。


一度通り過ぎかけて、もう一度振り返る。今度は明らかに見惚れていた。


ヴァレンはその視線に構わず、行き交う荷馬車と人の流れを追っている。


「団長」

「何だ」

「いえ。何でもありません」


部下が口元を緩める。


ヴァレンがそちらを見た。


「仕事しろ」

「してます」

「なら前を見ろ」

「はい」


しばらくして、一台の荷馬車が市場の前で止まった。


御者台から年配の男が降りる。その男へ、一人の若い男が近づいていった。


茶色い髪。市場で働く者によく似た上着。


――ヴァレンの視線が止まった。


男は慣れた様子で市場の入口を示し、年配の商人へ何かを説明している。


ヴァレンは動かない。


やがて商人が懐へ手を入れた。


そこで初めて、ヴァレンは二人の方へ歩き出した。


「その金は払わなくていい」


若い男の手が止まり、ゆっくりと振り返る。


ヴァレンと目が合った。


一瞬、男の顔が強張った。


次の瞬間、走り出した。


「逃げた!」


騎士が叫ぶより早く、ヴァレンは地面を蹴っていた。


市場を飛び出した男が大通りを横切り、人々の間を縫って荷車の脇をすり抜け、細い路地へ飛び込む。ヴァレンもすぐに続いた。


長い脚が一歩ごとに距離を削っていく。振り返った男の顔が引きつった。


男は道端の木箱を蹴り倒した。赤い果実が石畳いっぱいに転がり、店主の怒鳴り声が飛ぶ。


「おい! 何しやがる!」


ヴァレンは速度を落とさない。転がる果実の間を一気に駆け抜け、倒れた木箱を飛び越えた。


追跡で乱れた前髪が額へ落ちる。払うこともなく、さらに距離を詰める。


男が再び振り返り、今度は明らかに顔色を変えた。そのまま路地を曲がったが、先は行き止まりだった。


「終わりだ」

「来るな!」


追い詰められた男が懐から短刀を抜く。


ヴァレンの腰にも長剣がある。だが、その柄に手をかけることはなかった。


「捨てろ」

「うるせえ!」


男が短刀を構えて突っ込んでくる。


刃が届く寸前、ヴァレンは身体をわずかにずらした。空を切った腕をそのまま掴み、手首を捻る。


「っ……!」


硬い音を立てて、短刀が石畳へ落ちた。


男が腕を振りほどこうとするより早く、ヴァレンは一歩踏み込む。掴んだ腕を引き寄せて重心を崩し、その勢いを利用して身体を石畳へ叩きつけた。


「ぐっ……!」


すぐに腕を背中へ回し、片膝で押さえ込む。


男が身を捩るが、ヴァレンの身体はほとんど動かない。


「動くな」


怒鳴ってはいない。それで十分だった。


「わ、分かった! 分かったから……!」


そこでようやく、ヴァレンは一度だけ息を吐いた。長い距離を走ったはずなのに、呼吸は少し深くなった程度だった。


長剣は、最後まで鞘に収まったままだ。


やがて複数の足音が近づき、部下たちが路地へ駆け込んでくる。


「団長!」


短刀は地面。犯人も地面。その上からヴァレンが押さえ込んでいる。


一人の騎士が膝に手をついた。


「……団長」

「何だ」

「もう少し、俺たちを待ってくれてもよくないですか」

「遅い」

「団長が速いんです」


ヴァレンはようやく犯人から膝を退け、立ち上がると乱れた襟元を片手で直した。


「捕縛しろ」

「はい」


男を引き渡し、落ちていた短刀を拾う。


「これも押収だ」

「はい」


来た道を戻ろうとして、ヴァレンは足元に転がっていた赤い果実に気づいた。


「……店にも謝らないとな」

「犯人に弁償させましょう」

「ああ」


何事もなかったように歩き出す。


後ろで、捕まった男が呟いた。


「化け物かよ……」


ヴァレンが振り返る。


男は黙った。


*


王都騎士団の詰所へ戻る頃には、午後の陽射しがずいぶん傾いていた。


石造りの建物の窓から橙色の光が差し込み、廊下を長く染めている。巡回から戻った騎士たちが壁際へ外套を掛け、剣帯を直しながら今日の出来事を報告していた。


奥ではペン先が紙を擦る音がする。開けた窓の向こうからは、夕刻を知らせる鐘の音が聞こえてきた。


捕らえた男は、そのまま取調室へ連れていかれた。


机の上には、奪った金や何十枚もの紙片、市場の印を真似るための道具、短刀が押収品として並べられている。


ヴァレンは男の向かいへ腰を下ろした。


走ったときに乱れた髪はそのままで、いつもより少しだけ襟元も崩れている。それでも椅子に深くもたれることはなく、両手を組んで机の上へ置いた。


「名前は」

「……ガルド」

「いつからやっている」

「三日前からだ」

「今日だけじゃないのか」

「……ああ」


記録係のペンが紙の上を走る。


「何人から取った」

「覚えてねえよ」

「ガルド」


名前を呼ばれただけで、ガルドは気まずそうに視線を逸らした。


「……十人くらいだ」

「くらい?」

「十二、三人だよ。たぶん」

「金は」

「使った分もある」


ヴァレンは机に並べられた硬貨へ一度だけ目を向けた。


「紙はどうした」

「自分で作った」

「元にしたものは」


ガルドの目がわずかに泳ぐ。


「……似たようなのを見たことがあったんだよ」

「どこで」

「覚えてねえよ。昔、荷を運ぶ仕事をしてた頃じゃねえの」


ヴァレンは何も言わず、ただガルドを見た。


数秒も経たないうちに、先に耐えられなくなったガルドが口を開く。


「ほ、本当だって。どこだったかなんて覚えてねえよ」

「そうか」


ヴァレンは記録係へ視線を向けた。


「続けろ」

「はい」


結局、それ以上の話は出なかった。


被害に遭った商人たちも順に詰所へ呼ばれ、金額を照合し、押収した金を確認した。市場から持ち帰った偽の紙片も、一枚ずつ番号を振って保管される。


すべての確認を終えた頃には、窓の外の橙色は薄紫へ変わっていた。


ガルドが牢へ連れていかれ、鉄格子が閉まる音を確認してから、ヴァレンは執務室へ戻った。


机には、すでに市場の一件に関する報告書が積まれている。被害額、紙片の枚数、偽造された印、押収した短刀。一つずつ目を通し、必要な箇所を書き足していった。


最後の書類へ署名を入れ、ヴァレンはようやくペンを置く。


窓の外はもう暗い。


椅子から立ち上がり、凝った肩を一度だけ回した。今日の仕事がすべて終わったわけではないが、市場の一件についてはこれで一区切りだった。


執務室を出て廊下を歩いていると、少し先から騎士たちの話し声が聞こえてきた。


「あのリリアだろ? カフェLilasの」

「そうそう。王宮から帰ってこないって」

「王太子殿下の妃になるって聞いたぞ」

「俺は王家の血を引いてるって聞いた」

「どっちだよ」

「白い獣に選ばれたって話もあるぞ」

「それは俺も聞いた」


角を曲がる頃には、すっかりヴァレンの眉間には皺が寄っていた。


壁際で話していた三人の騎士と目が合う。


一斉に口が閉じた。


「……お疲れさまです、団長」

「ああ」


ヴァレンはそのまま通り過ぎる。


三人の騎士たちは焦ったようにお互いをこづき合った。


「お前たち」


背後から、別の声がした。


「よりによって本人が来るまで気づかないとは。騎士としてどうなんだろうね」

「リシュアン副団長!」

「いたなら教えてくださいよ」

「気づくかと思って」

「絶対嘘でしょう」

「さあね。ほら、さっさと訓練に戻る!」

「はい!」


三人が慌ただしく廊下の向こうへ消えていく。


リシュアンはそれを見送ると、どこか楽しげに鼻歌を口ずさみながら廊下を進み、団長執務室の扉を開けた。


中では、ヴァレンがちょうどコーヒーを注いでいるところだった。


「ずいぶん広まってるよ」

「何が」

「リリアの話」


コーヒーを注ぐ手は止まらなかった。


「らしいな」

「今日だけで三種類は聞いた。王太子殿下の婚約者、実は王族、それから白い獣に――」

「もういい」

「そう?」


リシュアンは悪びれる様子もなく、ヴァレンの机の前までやってくる。


ヴァレンが顔を上げた。


すらりとした長身に細身の身体。騎士服は襟元まで隙なく整えられているのに、堅苦しさを感じさせない。


優しく爽やかな顔立ちには、今日もいつもの涼しげな表情が浮かんでいる。


リシュアンが人から好かれることを、ヴァレンも知っていた。団の中では後輩から慕われ、街へ出れば店の娘たちによく声をかけられる。本人も誰に対しても物腰が柔らかく、頼まれごとをされれば嫌な顔ひとつしない。


それでいて、騒ぎの最中でも、剣を抜く寸前でも、この涼しい顔だけはほとんど変わらない。


「飲むか」

「淹れてくれるなら」

「自分でやれ」

「聞いておいて?」


リシュアンは肩をすくめ、自分でもう一つカップを取った。


「それで」


コーヒーを注ぎながら、リシュアンが言う。


「まだ帰ってこないんだろう?」

「ああ」

「王宮から何か説明は?」

「ない」

「そう」


リシュアンはカップを持ち上げた。さっきまでの軽い調子が、ほんの少しだけ薄れる。


「それは、心配だね」


ヴァレンは手元のコーヒーカップへ目を落とした。


しばらくして、低く呟く。


「……王太子殿下は十歳だ」

「うん」

「リリアが婚約者になるわけがない」


リシュアンがカップの縁から目だけを上げた。


「そこ、気になってたんだ」

「違う」

「そう?」

「十歳だぞ」

「分かった、分かった」


リシュアンは笑いを含んだ声で言ったが、それ以上はからかわなかった。


ヴァレンは眉間に皺を寄せたまま、コーヒーを飲む。


「今夜は僕がいるよ。夜番への引き継ぎも済んでる」

「そうか」

「市場の件も、何かあればこっちで対応する。今日は帰りなよ」

「……悪い」

「いいよ。お疲れさま、団長」

「ああ。頼む」


リシュアンは空になったカップを置き、執務室を出ていった。


*


詰所を出る頃には、王都に夜が降りていた。


昼間あれほど賑やかだった市場の声も遠くなり、代わりに家々から夕食の匂いが漂ってくる。窓から漏れる灯りの向こうでは、食器の触れ合う音や子どもの笑い声が聞こえていた。


帰り道、まだ灯りのついていた花屋の前で、ヴァレンは足を止めた。


店先には、売れ残った花がいくつか並んでいる。


その中から赤い花を一輪選び、店主へ代金を渡してまた歩き出す。


やがて、自宅と、その隣に建つ家が見えてきた。


リリアの家は、今日も暗かった。


ヴァレンは自宅の前を通り過ぎ、隣の家の前で足を止める。


手には、先ほど買った赤い花が一輪あった。


閉ざされた玄関へ近づく。


ここへ置いておけば、帰ってきたときに気づくだろう。


そう思って扉の脇へ花を置こうとしたとき、王宮へ向かう前のリリアの顔を思い出した。


大丈夫。


あのときも、そう言っていた。


リリアは昔から、悲しいときほど上手く泣けない。辛いときほど、平気そうな顔をする。


今も王宮で、同じ顔をしているのだろうか。


「……早く」


小さく漏れた声は、そこで途切れた。


ヴァレンは手の中の赤い花を見て、玄関先へ置きかけた手を止める。


「……いつ帰るかも分からないのに、置いてどうする」


その頃には枯れている。


自分で思いついたことに自分で呆れ、ヴァレンは花を持ったまま隣の自宅へ戻った。


部屋に灯りをつけ、水を入れた細い瓶へ赤い花を挿す。置き場所を少し考えてから、自室の窓辺に置いた。


その窓からは、隣の家が見えた。


夜の風にカーテンがわずかに揺れる。


ヴァレンは赤い花の向こうにある暗い窓を一度だけ見て、カーテンを閉じた。

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