第二十章 本には載っていない王宮
王宮へ来てから、何日かが過ぎた。
まだ、ここを自分の居場所だと思うことはできない。
夢の中のリリアは、慣れ親しんだ自宅で朝を迎える。
身支度をして家を出て、いつもの道を歩き、Lilasへ向かう。店の扉を開けば、本と珈琲の香りがして、マダム・エレナの声が聞こえる。
そんな、少し前まで当たり前だった朝を過ごしている。
けれど目が覚めて瞳に映るのは、見慣れた天井ではない。
寝台は一人で眠るには広すぎて、窓も、鏡も、衣装棚も、リリアの家にあるものよりずっと大きい。天井には細かな装飾が施され、朝の光を受けた調度品には金色の縁取りが浮かび上がる。
何もかもが立派で、何もかもが大きい。
ささやかなひとり暮らしをしてきたリリアには、身の置き所のないように感じる空間だ。
今日は、星の日。
午前はエドガーの講義がある。
「今日は、周辺諸国についてお話ししましょう」
エドガーはそう言って、机いっぱいに大きな地図を広げた。
中央にはセレニア王国があり、そこから南へ目を移していくと、山々の向こうに青く塗られた海が広がっている。
「アステリア王国……」
リリアが呟くと、エドガーが頷いた。
「セレニアより南に位置する、海に面した国です。気候は温暖で、海路を使った交易も盛んです」
リリアは地図へ身を乗り出した。アステリアについて書かれた本なら、何冊か読んだことがある。
「街が、白いんですよね」
「ええ。王都をはじめ、海沿いの都市には白い石材を使った建築物が多い。晴れた日には、青い海を背に街そのものが白く輝いて見えるそうです」
本で見た挿絵を思い出した。
青い海と、そこに沿うように建ち並ぶ白い家々。セレニアとは違う、強い陽射しの色まで描かれていた。
「……綺麗なんでしょうね」
「アステリアについて書かれた書籍の中に、写真が収められているものがありますよ」
「写真が?」
リリアが顔を上げると、エドガーは大きな丸眼鏡の奥で目を細めた。
「ええ。街並みや港、それから王都を写したものもいくつかあります。興味があるようでしたら、今度お持ちしましょうか」
「いいんですか?」
「もちろんです」
「ありがとうございます」
思わず声が弾んだ。
エドガーは微笑むと、地図の別の場所を指した。講義はそのまま、次の国へと移っていった。
講義を終えて部屋を出ると、長い廊下を何人もの官吏が行き交っていた。
書類を抱えた人が足早に角を曲がり、その後ろを若い官吏が追っていく。少し先では、侍女たちが廊下に飾られた花を取り替えていた。
リリアが近づくと、侍女たちは作業の手を止め、揃って頭を下げた。
リリアもつられて頭を下げる。
顔を上げると、二人がわずかに戸惑っていた。
どうやら、こちらは頭を下げなくてもいいらしい。
分かってはいるのだけれど、なかなか慣れない。
階段を下りたところで、香ばしい匂いがした。
どこからだろうと辺りを見回すと、少し先の扉が開いている。近づいてそっと覗いてみれば、そこは厨房だった。
広い調理台では何人もの料理人が野菜を刻み、その奥には、リリアの家では到底置けないような大鍋がいくつも並んでいる。
焼き上がったパンを籠に移す人の後ろを、食材を抱えた人が通り過ぎていく。別の台では肉の下ごしらえをしていて、奥からは絶えず食器の触れ合う音が聞こえてきた。
リリアは扉の陰から、しばらくその様子を眺めた。
王宮に来てから毎日食事を運んでもらっていたけれど、その向こう側を見たのは初めてだった。
「……すごい」
小さく呟いたところで、大きな籠を抱えた料理人がこちらへやって来た。
邪魔になってはいけないと、リリアは慌ててその場を離れた。
午後になると、窓の外には綺麗な青空が広がっていた。
部屋で本を読むつもりだったリリアは少し迷ってから、その本を持って庭園へ向かった。
外へ出ると、冷たい風が頬を撫でる。
庭園へ続く道を歩きかけたところで、視界の端を大きな白いものが横切った。
風を受けたシーツだった。
少し離れたところに広い物干し場があり、何本も渡された綱に、白いシーツがずらりと並んでいる。
籠いっぱいの洗濯物を運ぶ者もいれば、二人がかりで大きなシーツを広げている者もいた。風が吹くたびに何枚もの白い布が一斉に膨らみ、その向こうで侍女たちが顔を見合わせて笑っている。
石鹸の香りが、風に乗ってふわりと届いた。
リリアは白いシーツを見上げる。
そのうちの一枚を眺めていると、今朝起きたばかりの自分の部屋が頭に浮かんだ。
毎朝きちんと整えられている、あの広い寝台。
また風が吹き、大きく膨らんだ布の向こうに、洗濯物を抱えて歩く侍女の姿が透けて見えた。
リリアは本を抱え直し、歩き出した。
その先では、荷を積んだ馬車が何台か停まっていた。
木箱の蓋を開け、王宮の者と中身を確認している商人がいる。箱の中には野菜や果物が詰められ、隣の馬車からは巻かれた布地が次々と下ろされていた。
さらに向こうでは、樽を積んだ馬車が城門をくぐってくる。
朝に覗いた厨房を思い出した。
あれだけの料理を毎日作るのだから、運び込まれる食材も相当な量になるのだろう。
Lilasにも品物を届けに来る商人はいたが、こんなに何台もの馬車が続けてやって来ることはない。
珍しくて眺めていると、遠くから鋭い掛け声が聞こえた。
建物の向こうに広い訓練場があり、王属騎士団の騎士たちが訓練をしている。
何人もの騎士が剣を振り、そのたびに空気を切る音が重なる。少し離れた場所では二人一組になって剣を交え、乾いた金属音が響いていた。
騎士団だけでも、こんなにいる。
リリアは足を止めたまま、王宮を振り返った。
ここへ来てから、いったい何人とすれ違っただろう。
今朝覗いた厨房にも大勢いた。洗濯場にも、商人たちのいる荷受け場にもいる。
見上げた王宮には、数え切れないほどの窓が並んでいた。
「……何人いるんだろう」
思わず口に出してから、数えられるわけがないと気づく。
リリアはもう一度大きな王宮を見上げ、それから庭園へ向かった。
花壇の間を進んでいくと、風の匂いが少し変わった。
花はまだ色とりどりに咲いているが、木々の葉にはところどころ黄色が混じっている。
どこで本を読もうかと辺りを見回していると、少し先の木陰に人影が見えた。
金色の髪が、葉の隙間から落ちる光を受けている。
「……殿下?」
返事がない。
近づいてみると、ノアは木の幹にもたれたまま眠っていた。膝の上には、一冊の本が開かれている。
いつもは背筋を伸ばし、十歳とは思えないほどしっかりしているのに、こうして眠っているとずいぶん幼く見えた。
長い睫毛を伏せた寝顔があまりに愛らしくて、リリアの頬が緩む。
ふと顔を上げると、少し離れた場所に騎士が一人立っていた。
ノアの護衛だろう。こちらの様子を見てはいるものの、近づいてくる気配はない。
リリアはもう一度、ノアへ目を戻した。
風が頁をぱらぱらとめくり、膝の上の本がゆっくりと傾く。
「あっ」
地面へ落ちる前に、慌てて手を伸ばした。
受け止めた本の表紙を見る。
『アステリア王国史』。
「アステリア……」
午前中に聞いたばかりの名前だった。
ノアの睫毛が動く。
やがてゆっくりと目を開け、まだ眠そうな淡い青紫の瞳がリリアを捉えた。
「……リリア?」
いつもより柔らかく、幼い声だった。
「すみません。起こしてしまいました」
ノアは何度か瞬きをしたあと、自分が木にもたれていることに気づいたらしい。すっと背筋を伸ばした。
「寝ていません」
「はい」
「少し目を閉じていただけです」
「はい」
ノアはリリアを見た。
「……どのくらい、ここにいましたか」
「今来たところです」
ほんの少しだけ、ノアの肩から力が抜けた。
リリアは持っていた本を差し出す。
「落ちそうになっていました」
「ありがとう」
ノアは本を受け取った。
「私も今日、アステリアについて習ったんです」
「エドガーから?」
「はい。午前の講義で」
ノアは手元の本を見下ろした。
「今日は周辺諸国についての講義だったのですね」
「殿下も、アステリアについて勉強していたんですか?」
「ええ。アステリアに限らず、周辺諸国については一通り学びます」
リリアは厚い本を見る。
「大変ですね」
「私は幼い頃から習っていますから」
「幼い頃から……」
リリアはノアの顔を見た。
「殿下、今も十歳ですよね?」
ノアが黙る。
「……昔の話です」
リリアは吹き出した。
「笑わないでください」
「すみません」
「まだ笑っています」
「ごめんなさい」
口元を押さえたものの、なかなか収まらない。
ノアは少し不満そうな顔をしていたが、やがて諦めたように本を開き直した。
しばらく、風が頁を揺らす音だけが続いた。
リリアは膝の上の本に目を落としたあと、そっとノアを見る。
「あの、殿下」
「なんですか?」
「ひとつだけ、お願いしてもいいですか」
ノアが本から顔を上げた。
「もちろん。私にできることなら」
そう言われても、リリアはすぐには続けられなかった。
「家に、両親の写真があるんです」
ノアは黙って続きを待っている。
「二人とも、もう亡くなっていて……ずっと家に飾っていたものなんです」
口にすると、家の中の景色が浮かんだ。
朝の光が入る窓。そのそばに置いていた椅子。何度も読み返した本が並ぶ棚。
そして、いつも同じ場所にあった両親の写真。
「それだけは、ここに持ってきたくて」
リリアは少し迷ってから続けた。
「今のお部屋に、飾ってもいいでしょうか」
ノアが少し驚いたように瞬きをする。
「そんなこと、私に許可を取る必要はありません」
「でも、家には戻れないので……」
「あ……」
ノアの表情が変わった。
リリアはすぐに首を振る。
「責めているわけじゃないんです。ただ、誰かに取ってきてもらうことはできますか?」
ノアはしばらく黙っていた。
「分かりました」
先ほどまでとは違う、静かな声だった。
「必ず、あなたの部屋に届けさせます」
「ありがとうございます」
リリアが笑うと、ノアは小さく頷いた。
「写真だけでいいのですか?」
「え?」
「ほかにも、家から持ってきたいものがあるのではありませんか」
リリアは少し考えた。
本なら、王宮には自分の家とは比べものにならないほどある。服も、困るほど用意されてしまった。
けれど、それらと家に置いてきたものは、少し違う。
「……今は、写真だけで大丈夫です」
「そうですか」
ノアはそれ以上聞かなかった。
風が吹き、膝の上の本の頁がめくれる。
ノアはそれを手で押さえながら、ぽつりと言った。
「私は、兄弟がいません」
リリアはノアを見る。
「そうなんですね」
「実は、ずっとお兄様かお姉様がほしいと思っていたのです」
少し意外だった。
王太子として話しているときのノアなら、きっと口にしないようなことだった。
「どちらがよかったんですか?」
「どちらでも」
「どちらでも?」
「私より年上なら」
あまりに真面目に答えるので、リリアは小さく笑った。
「それなら、私でも条件には合いますね」
ノアが顔を上げた。
淡い青紫の瞳が、じっとリリアを見る。
「……そうですね」
その返事が思ったより嬉しそうで、リリアは少しだけ目を瞬いた。
ノアは視線を手元の本へ戻した。
「あの、リリア」
「はい?」
「よかったら、今日の夕食をご一緒しませんか?」
「私と、ですか?」
「ええ」
少し間を置いてから、ノアは付け加えた。
「一人で食べるより、その方が楽しそうです」
リリアは笑った。
「はい。ぜひ」
ノアも、少しだけ笑った。
夕食の席には、温かなスープと焼いた肉、数種類の野菜料理が並んでいた。
リリアが料理へ手を伸ばしかけて、ふと向かいの皿に目を留める。
ノアの皿の端に、緑色の野菜だけが綺麗に集められていた。
一つ、二つではない。食べ進めるたびに、そこだけが少しずつ増えている。
「殿下」
「なんですか」
「ピーマン、避けてません?」
ノアの手が止まった。
「避けていません」
「端に集まってますけど」
「これは配置を整えているだけです」
リリアは皿を見る。
どう見ても、食べないために避けている。
「嫌いなんですか?」
「……嫌いではありません」
少し間があった。
「ただ、これは、食べ物としての存在の仕方がおかしいのです!」
「存在の仕方?」
「なぜ、どの料理に入っていても、あれほど自分を主張するのですか」
ノアは至って真剣だった。
「ピーマンだからでは?」
ノアがリリアを見る。
「食べ物たるもの、主張が強すぎてはいけません!」
澄んだ少年の声が、食卓に響いた。
リリアは首を傾げる。
そこまで言われるほど、ピーマンは悪いことをしたのだろうか。
その間に、ヴィオラが二人の前へスープを置いた。
ノアは匙ですくい、一口飲む。
「これは美味しいです」
満足そうだった。
その瞬間、ヴィオラの視線がわずかに泳いだ。
リリアはそれに気づいた。
「ヴィオラ?」
ヴィオラはノアとスープを交互に見た。
「……そちらのスープには、細かくしたピーマンが入っております」
ノアの手が止まった。
匙を見て、それからスープを見る。
もう一口飲んだ。
「……分かりませんでした」
「ちゃんと隠れてましたよ」
「そういう問題ではありません」
「さっきはそういう問題でしたよ」
ノアは黙った。
しばらくスープを見つめたあと、もう一度口に運ぶ。
「……これは、ピーマンのあり方として正しいです」
リリアの口元が緩む。
「ほかの食材と協調しています」
「協調……」
「重要なことです」
ヴィオラが俯いた。
肩がほんの少しだけ揺れている。
それを見たリリアも、とうとう堪えられなくなった。
「……ごめんなさい、殿下」
「二人とも、笑わないでください」
澄んだ声でそう言われると、余計に笑いを止めるのが難しかった。
食事を終えて部屋へ戻る途中、リリアは廊下の窓辺で足を止めた。
夜の王都には、無数の灯りが瞬いている。
あのどこかにLilasがある。
自分の家も、その隣にあるヴァレンの家も。
帰りたい。
その気持ちは、何も変わっていない。
しばらく王都の灯りを眺めてから、リリアは窓を離れた。
部屋へ戻れば、今夜も広すぎる寝台が待っている。
けれど、もうすぐあの部屋に両親の写真がやってくる。
どこに飾ろう。
朝、目を覚ましたときに見える場所がいい。
そんなことを考えながら、リリアは自分の部屋へ向かった。




