第9話 少しだけ笑えたその顔を、守りたいと思ってしまった
二時間目の終わり、保健室の前のベンチに座っていた朝倉紬は、遼と目が合うとほんの少しだけ笑った。
ぎこちない笑みだった。
前みたいに、きれいに形が整った笑い方ではない。
でも、その不器用さの方が遼にはずっと本物に見えた。
「……来てたんだ」
遼が近づきながら言うと、朝倉は膝の上の鞄を少し抱え直した。
「さっき来た」
「体調は」
「聞くと思った」
「聞く」
「前よりは、まし」
それはたぶん、本当に前よりはましなのだろう。
でも、完全に平気ではない。
声の細さと、目の下のわずかな影がそう言っていた。
「教室、行った?」
「一時間目だけ」
「どうだった」
朝倉は少し考えてから言う。
「思ったより、みんな普通だった」
「それはよかった」
「でも、普通すぎて逆に怖かった」
遼は少し黙った。
わかる気がした。
昨日まで色々あったのに、何もなかったみたいに進む教室。
それは救いにもなるし、取り残される感じにもなる。
「先生が先に少し言ってくれてたからかも」
朝倉が小さく言う。
「騒がないでって」
「うん」
「ちょっと助かった」
担任のあの短い言葉は、きちんと効いていたのだとわかる。
教室という小さな社会では、教師の一言が空気の規範になることがある。
大きな解決にはならなくても、無秩序な憶測を少し抑える力はある。
「でも」
朝倉は続ける。
「一時間目の途中で、急に息が苦しくなって」
「うん」
「黒板見てるだけなのに、みんなの視線がある気がして、ノート取る手が止まって、これ以上いたら変になるって思って」
「保健室に来た?」
「うん」
「正解だと思う」
「そう言われると、ちょっと助かる」
彼女はそう言ってから、少しだけ視線を落とした。
「前なら、たぶん無理して最後までいたから」
「その方が危ない」
「わかってる。……頭では」
頭ではわかっている。
でも身体と感情が追いつかない。
トラウマや不安反応ではよくあることだ。
認知の修正より、身体の学習の方が遅い。
「水城くん」
「何」
「今、授業の途中?」
「休み時間」
「じゃあ、もうすぐ戻るんだ」
「三時間目あるし」
「そっか」
その「そっか」が、ほんの少しだけ寂しそうに聞こえた気がして、遼は一瞬息を止めた。
けれどたぶん、それをそのまま受け取るのは違う。
自分の願望が混ざる。
「昼、来る?」
遼が聞くと、朝倉は少し迷ってから答えた。
「教室じゃなくて、ここなら」
「了解」
「飲むヨーグルトはなしで」
「まだ引きずってるのか」
「しばらく見ると複雑な気持ちになる」
「じゃあ別のものにする」
「でも、あんまり食べられないかも」
「食べられる分でいい」
その会話ができるだけで、少し前進した気がした。
三時間目のチャイムが鳴り、遼は一度教室に戻った。
席に着くと、藤崎恒一がすぐ振り向く。
「いた?」
「いた」
「どうだった」
「一時間目だけ教室入って、今は保健室前」
「そっか」
藤崎はそこで少しだけ笑う。
「戻ってきてるな」
「うん」
「お前も、顔ちょっと戻った」
「何だよそれ」
「ここ数日、ずっと魂半分抜けてたから」
「失礼だな」
「事実だろ」
授業中、遼は自分でもわかるくらい、少しだけ集中できていた。
朝倉が学校に来ている。
それだけで、胸の中の張りつめた何かが少し緩んでいる。
だが同時に、その事実が自分に与える影響の大きさにも気づいていた。
いるかいないかで、こんなに気分が変わる。
そのこと自体がもう、ただの親切心ではない。
昼休み。
遼は購買で小さめのサンドイッチと、野菜ジュース、それから迷った末にプリンを買った。
保健室前のベンチに行くと、朝倉は同じ場所に座っていた。
午前中の疲れが少し顔に出ているが、朝よりは呼吸が落ち着いている。
「これ」
「多い」
「選択肢」
「そんなに食べられないよ」
「だから選ぶんだろ」
朝倉は少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ……サンドイッチ半分と、ジュース少し」
「プリンは?」
「今日はまだ怖い」
「プリンが?」
「食べきれなかったら申し訳ない感じするから」
「そういうところな」
遼が言うと、朝倉は苦笑した。
「自分でも面倒だと思う」
「知ってる」
「ひどい」
「今さらだろ」
サンドイッチの袋を開ける音が、妙に静かに聞こえた。
保健室の前の廊下は、教室と違って人の流れが少ない。
それだけで朝倉の肩の力が少し抜けて見える。
「朝」
朝倉がパンを小さくちぎりながら言った。
「目が合ったとき、ちょっとびっくりした」
「何で」
「来てほしい気持ちと、見られたくない気持ちが両方あったから」
「両立するんだな」
「するよ」
それは愛着の矛盾そのものだと遼は思った。
近づいてほしい。
でも近づかれると怖い。
支援を必要としている人間によくある揺れだ。
「でも、今日は少しだけ平気だった」
朝倉は続ける。
「何で」
「水城くんが、普通に『来てたんだ』って言ったから」
「それだけ?」
「それだけが大きいこともあるって、前に言ったよ」
たしかに彼女はそう言った。
ゼリーを半分飲めたこと。
チョコバーを一本食べられたこと。
小さなことが、その日を越える力になる。
「じゃあ、今日はそれで十分か」
「うん。十分」
朝倉はサンドイッチを半分だけ食べ、ジュースを三口飲んで止まった。
以前の遼なら、もう少し食べろと言っていたかもしれない。
でも今は、それでいいと思えた。
少しできた。
今日はここまで。
それでいい。
「教室さ」
朝倉が不意に言う。
「何となく、私がいない間に空気変わってた」
「どう変わった」
「ちょっと、優しい」
その表現に、遼は少しだけ考えた。
「それ、いい意味?」
「……半分」
「半分か」
「前より話しかけるとき、みんな慎重なの。気を遣ってくれてるのはわかる。でも、ちょっとだけ距離もある」
それは自然な反応でもあった。
人は傷ついた相手を前にすると、どう触れていいかわからなくなる。
不用意に踏み込むのを恐れて、結果としてよそよそしくなる。
「篠宮さんは上手だった」
朝倉が言う。
「プリントのこと、普通に言ってくれたから」
「うん」
「藤崎くんも、朝すれ違ったとき普通におはようって言ってくれた」
「それもたぶん考えてやってる」
「わかるよ」
朝倉は少し笑った。
「でも、考えてくれてるのがわかるの、嫌じゃない」
それは意外だった。
過剰な配慮は負担になると思っていたからだ。
「嫌じゃないんだ」
「前みたいに、全部なかったことにされるよりはいい」
その言葉に、遼は少しだけ胸が痛んだ。
全部なかったことにされる。
たぶん朝倉は、それを家庭で何度も経験してきたのだろう。
嫌だったこと。
怖かったこと。
傷ついたこと。
それらを「大したことじゃない」で消される。
だから、ぎこちなくても配慮が見える方が、まだ安心できるのかもしれない。
「水城くん」
「何」
「この前、先生に何か伝言もらった?」
遼は一瞬目を瞬いた。
「もらった」
「……何て」
「いてくれて助かったって」
朝倉は手元のサンドイッチを見たまま固まった。
それから耳まで少し赤くなる。
「それ、言わなくてもよかったのに」
「先生が言えって」
「絶対そんな言い方してない」
「まあ、たしかに少し違う」
朝倉は困ったように息を吐いた。
「忘れて」
「無理」
「何で」
「嬉しかったから」
前にも似たやり取りをした。
でも今日は、朝倉はすぐに顔を背けなかった。
「……そういうこと、すぐ言う」
「本当だし」
「困る」
「それも前に聞いた」
「学習しないね」
「そっちもな」
そのやり取りのあと、二人の間に少しだけ静かな時間が落ちた。
気まずさではない。
ただ、言葉のあとに残る余韻みたいなものだった。
遼はそこで、ふと聞いてみたくなった。
「親族の家、どう?」
朝倉は少しだけ考えてから答えた。
「静か」
「うん」
「伯母さんの家なんだけど、必要以上に聞いてこないの」
「それは助かるな」
「うん。ご飯できたよって言ってくれて、食べられなかったら『あとででいいよ』って言ってくれて、朝起きられなくても怒らない」
朝倉はそこで一度言葉を切る。
「……それだけで、ちょっと変な感じ」
普通のケアが、逆に違和感になる。
長く緊張の中にいた人間には、穏やかな環境の方が落ち着かないこともある。
「でも、昨日よりは眠れた」
「よかった」
「夜中に何回か起きたけど」
「それでも前進だろ」
「たぶん」
彼女の「たぶん」は以前より少しだけ柔らかくなっていた。
昼休みの終わり頃、篠宮が保健室前を通りかかった。
二人を見ると、一瞬だけ立ち止まる。
「朝倉さん」
「篠宮さん」
「午後はどうする?」
「今日はここまでにするかも」
「そっか。先生からプリント預かってるから、あとで持ってくるね」
「ありがとう」
「それと」
篠宮は少しだけ笑った。
「教室、そんなに変な感じにはしないようにしとくから」
朝倉は一瞬驚いたように目を丸くして、それから小さく笑った。
「……うん」
篠宮が去ったあと、朝倉は小さく言う。
「強いね」
「篠宮は強い」
「でも、ああいう人がいると助かる」
「うん」
「水城くんと、ちょっと違う意味で」
「何だよそれ」
「水城くんは、近い」
その一言に、遼の胸が少しだけ熱くなる。
「近いと困る?」
「……困る」
「またそれか」
「でも、いないと困る」
今度こそ、遼は言葉を失った。
朝倉は自分で言ってから、しまったという顔をした。
視線を逸らし、ジュースのストローを意味もなくいじる。
「今の」
「うん」
「忘れて」
「無理」
「何で毎回そうなの」
「忘れたくないから」
朝倉は顔を伏せたまま、小さく言う。
「ずるい」
「そっちも十分ずるい」
その日の午後、朝倉は結局そのまま早めに帰った。
伯母が迎えに来るらしい。
昇降口へ向かう途中、遼が一緒に歩いていると、朝倉がふいに立ち止まった。
「何」
「……教室に戻るの、まだ怖い」
「うん」
「でも、前みたいに完全に嫌じゃない」
「それなら大丈夫だ」
「そんな簡単に言う」
「簡単じゃないけど」
朝倉はそこで少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
でも今朝の笑顔より、もう少し自然だった。
「それ、移った?」
「何が」
「その返し方」
「いいだろ別に」
「ちょっとだけ」
校門の近くで、彼女は迎えの車を見つけて足を止めた。
白い軽自動車。
運転席には見知らぬ女性。
たぶん伯母だ。
「じゃあ」
朝倉が言う。
「うん」
「明日、来られたら来る」
「来られなくてもいい」
「それ、ちょっとだけ嬉しい」
「来いって言われる方が嫌だろ」
「うん」
「でも、来たら嬉しい」
朝倉は一瞬だけ目を見開いて、それからまた少しだけ困ったように笑った。
「本当に、すぐそういうこと言う」
「本当だし」
彼女は何か言いかけて、結局言わずに小さく手を振った。
「またね」
「また」
車が校門を出ていくのを見送りながら、遼はしばらくその場に立っていた。
守りたい。
そう思ってしまう。
でもその感情を、勝手な救済欲にしないようにしなければならない。
好きだと認めてしまえば楽なのかもしれない。
けれど認めた瞬間、相手を見る目が変わる気もする。
まだ、名前をつけるべきじゃない。
そう思うのに、胸の内側は少しずつ形を持ち始めていた。
そして翌日、朝倉は本当に学校に来た。
ただしその朝、彼女は一人ではなかった。
昇降口で靴を履き替えていた遼は、担任と並んで歩く朝倉を見つける。
少し緊張した顔。
でもその隣には、見覚えのない女性がいた。
落ち着いた雰囲気の、三十代後半くらい。
たぶん、伯母だ。
朝倉はその女性に何か言われ、小さく頷いてから教室の方を見る。
そのとき一瞬だけ遼と目が合った。
助けてほしい、ではない。
でも、いてほしい、に近い視線だった。
その瞬間、遼は理解した。
自分はもう、ただ見守るだけではいられないところまで来ている。




