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いつも「大丈夫」と笑う同級生が限界だと、僕だけが気づいてしまった  作者: 玉響すばる


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第10話 いてほしいと願われた朝、もう見守るだけでは足りなかった

 朝の昇降口で、朝倉紬は伯母らしき女性と一緒に立っていた。


 落ち着いた色のカーディガン。

 髪は後ろでひとつにまとめられていて、化粧気は薄い。

 派手ではないが、目元に疲れより理性がある顔だった。


 朝倉はその人に何か小さく言われて、頷く。

 それから教室の方を見た。


 一瞬だけ、遼と目が合う。


 助けて、ではない。

 でも、置いていかないで、に近い視線だった。


 その視線を受けた瞬間、遼の胸の奥で何かが静かに決まった。

 好きとか、守りたいとか、そういう曖昧な言い換えではなく、

 この子が教室に戻るなら、自分はその朝をちゃんと支えたい。

 そう思った。


「水城」


 担任が遼に気づき、軽く手招きする。


「おはようございます」


「おはよう。ちょうどよかった」


 担任の隣にいた女性が、少し頭を下げた。


「朝倉の伯母です。お世話になっています」


「いえ」


 遼も慌てて頭を下げる。


 伯母は朝倉に目を向けてから、穏やかな声で言った。


「紬、最初だけでも先生と一緒に教室に入る?」


 朝倉は少しだけ迷って、それから首を横に振った。


「……一人で、行ける」


 そう言いながら、視線だけがほんの少し遼の方へ寄る。


 担任もそれに気づいたのだろう。

 何も言わず、ただ遼を見る。


「一緒に行く?」


 遼が聞くと、朝倉はほんの一拍のあとで頷いた。


「……うん」


 伯母の表情がわずかに緩む。

 安堵に近いものだった。


「ありがとうございます」


「いえ、そんな」


 言いながらも、遼は少しだけ緊張していた。

 家族ではない。

 支援者でもない。

 ただの同級生だ。

 それでも今この場では、その“ただの同級生”であることが意味を持っている。


 教室へ向かう廊下は、朝の光でまだ白っぽかった。

 朝倉は遼の半歩後ろを歩く。

 近すぎず、離れすぎず。

 その歩幅の小ささに、今も緊張しているのがわかる。


「大丈夫?」


 遼が小さく聞くと、朝倉は少しだけ苦笑した。


「その質問、答えに困るって知ってるよね」


「知ってる」


「じゃあ何で聞くの」


「聞きたかったから」


「雑」


「朝だからな」


 朝倉は小さく息を吐く。

 笑ったわけではない。

 でも少しだけ肩の力が抜けたのがわかった。


 教室の前で、彼女の足が止まる。


 中からは、友達同士の話し声。

 椅子を引く音。

 朝の教室の音がする。

 何も特別ではない普通の音なのに、今の朝倉にはそれが高い壁みたいに聞こえているのだろう。


「入る」


 朝倉が自分に言い聞かせるみたいに呟く。


「うん」


「……いて」


「いるよ」


 その二文字を口にした瞬間、遼は自分の声が思ったより低く、落ち着いていることに気づいた。

 内心ではもっと揺れていたのに、不思議と声だけはぶれなかった。


 教室の扉を開ける。


 何人かがこちらを見る。

 でも、担任が事前に言っていたからか、変に騒ぐ者はいない。

 あ、おはよう。

 くらいの軽い反応がいくつかあるだけだった。


「おはよう」


 藤崎恒一が一番に言った。

 いつも通りの声量だった。


「……おはよう」


 朝倉も返す。


 篠宮真帆も少しだけ振り向いて、「おはよう」とだけ言った。

 必要以上に優しくもしない。

 でも冷たくもない。


 その空気に、遼は少しだけ救われた。


 朝倉が席に着く。

 鞄を置く。

 教科書を出す。

 一つ一つの動作がいつもより遅い。

 でも、やっている。


 席に戻った遼の背中を、藤崎が軽くつついた。


「ナイス」


「何が」


「その距離感」


「うるさい」


「褒めてんのに」


 だが、褒められているとわかるくらいには、自分の緊張も少し緩んでいた。


 一時間目の途中までは、朝倉はなんとか持った。

 ノートも取っていた。

 当てられなければ問題ない。

 ただ、教室全体の物音に少しずつ削られているのが見ていてわかった。


 消しゴムが落ちる音。

 窓の外の運動部の掛け声。

 誰かの笑い声。


 危険ではない刺激にも、今の彼女の神経は過剰に反応する。


 二十分ほど経ったころ、朝倉の呼吸が少し浅くなった。

 頬の色も落ちる。


 遼は迷ったが、まだ声はかけなかった。

 ここで先回りしすぎると、彼女の「自分でやれた感」を奪う気がしたからだ。


 だが、彼女の右手がノートの上で止まり、視線が定まらなくなったところで、もう迷わなかった。


「朝倉さん」


 小さく呼ぶ。


 彼女がこちらを見る。

 目だけが少し揺れていた。


「一回、抜ける?」


 朝倉はほんの一瞬迷ったあと、小さく頷いた。


 自分で立ち上がり、教師に「少し保健室行ってきます」と言えた。

 それだけで十分だった。


 教室を出たあと、彼女は廊下の壁に背を預けて息を整える。


「今日は、昨日より早かった」


 小さく言う。


「でも、入れた」


「……うん」


「自分で出られた」


「うん」


「それ、ちょっとだけ悔しいけど、ちょっとだけ安心した」


 遼は思わず笑った。


「複雑だな」


「ほんとに」


 保健室の前まで来ると、養護教諭がすぐに気づいてくれた。


「朝倉さん、今日はどこまで行けた?」


「一時間目の途中まで」


「すごいじゃない」


 先生は心からそう言った。

 大げさではなく、きちんと評価する声だった。


 朝倉は少しだけ困ったように笑う。


「先生、それ、子ども扱いっぽい」


「回復の途中の人には必要な扱いです」


「強い」


「先生だからね」


 そういうやり取りを横で聞いていて、遼は少しだけ安心する。

 自分だけで抱えなくていい場所が、ちゃんとある。


 二時間目の休み時間、伯母が一度学校に寄った。

 担任と養護教諭と少し話したあと、保健室前で朝倉に声をかける。


「紬、今日はここまでにする?」


 朝倉は少しだけ考えた。


 そして、遼の方を見てから答える。


「……二時間目の最初だけ、行ってみる」


 その視線の意味を、遼はもう読み違えなかった。

 一人ではなく、誰かが近くにいると思えるなら、もう少しやれる。

 そういうことだ。


 伯母は遼に向かって、静かに頭を下げた。


「本当にありがとうございます」


「いえ」


「紬、家では何も言わないんです。学校で誰かとちゃんと話せているのを見られるだけで、私はかなり救われています」


 その言葉は重かった。

 家で何も言えない。

 安全な伯母の家にいても、言葉になるまでには時間がかかる。

 それが傷の深さなのだろう。


「伯母さん」


 朝倉が少しだけ不満そうに言う。


「そういうの、本人の前で言わなくていい」


「ごめんごめん。でも本当よ」


 伯母はそう言って、朝倉の髪を撫でるでも抱きしめるでもなく、ただ肩を軽く叩いた。

 過剰に触れない距離感が、かえって優しく見えた。


 二時間目の最初、遼は教室へ戻る朝倉と一緒に歩いた。

 今度は朝よりも少しだけ彼女の歩幅が広い。


「今日は、さっきよりまし」


「よかった」


「でも、ずっとはいけない」


「それで十分」


「毎回それ言うね」


「本当だから」


「本当ばっかり」


「嘘つくよりいいだろ」


 朝倉は小さく笑った。

 その笑い方を見て、遼は胸の奥が少しだけ熱くなる。

 守りたい。

 そう思う。

 同時に、その感情を押しつけにしてはいけないとも思う。


 二時間目は十五分で保健室へ戻ることになった。

 でも、その十五分は朝より少し静かに過ごせていた。


 昼休み、保健室前のベンチで、朝倉は珍しく自分から話し始めた。


「伯母さんね」


「うん」


「お母さんの姉なんだけど、昔からちょっと苦手だった」


「何で」


「正しいことしか言わない感じがして」


「今は?」


「今もたぶん正しいことしか言わない」


「でも?」


「でも、黙っててくれる」


 その一言に、遼は少し考えた。


 正論は傷になることがある。

 でも、正論を振りかざさず、ただ環境を整えて黙ってくれる人は救いになる。


「昨日も、夜ご飯のとき」


 朝倉は小さくパンをちぎりながら言う。


「食べられなくて止まってたら、『冷めてもいいから、ここに置いておくね』って言って、別の話したの」


「うん」


「それだけで、ちょっと泣きそうになった」


 遼は何も言わなかった。

 たぶん、下手な感想は要らない場面だった。


「私、ずっと」


 朝倉は続ける。


「食べられないと怒られるか、心配されすぎるかのどっちかだったから」


「……うん」


「どっちも悪いわけじゃないのに、しんどくて」


 人は、善意にさえ追い詰められることがある。

 とくに、弱っているときほどそうだ。

 食べられないことを責められるのもしんどい。

 でも、食べなきゃ、どうしたの、大丈夫、の連打もまた苦しい。


 伯母の距離感は、たぶん絶妙だったのだろう。


「朝倉さん」


「何」


「少し戻ってきてるな」


「何が」


「顔」


 朝倉は怪訝そうに眉を寄せた。


「顔って何」


「前より少し、今ここにいる感じがする」


「意味わからない」


「感覚の話」


「雑」


「よく言われる」


 朝倉は少し黙ったあと、ほんの少しだけ頬を緩めた。


「……でも、たぶん合ってる」


 その返答が、遼には嬉しかった。


 午後、朝倉は帰宅した。

 今日は午前だけの予定だったからだ。

 伯母が迎えに来るまでの少しの間、昇降口の近くで二人きりになる。


「今日、どうだった」


 遼が聞くと、朝倉は靴を履き替えながら考えた。


「最初よりはよかった」


「うん」


「でも、やっぱり疲れた」


「そりゃな」


「あと」


「何」


「朝、いてくれて助かった」


 まっすぐには見ずに、彼女はそう言った。

 靴紐を結ぶ指先は少し早い。

 照れているときの動きだと、なんとなくわかるようになってしまった。


「どういたしまして」


 遼が言うと、朝倉は少しだけ唇を尖らせた。


「そういう軽さで返すんだ」


「重く返した方がいい?」


「それはそれで困る」


「面倒だな」


「知ってる」


 白い軽自動車が校門の前に止まる。

 伯母だ。


「じゃあ」


「うん」


「明日も……来れたら来る」


「来れなくてもいい」


「でも、来たら嬉しいんでしょ」


「嬉しい」


 朝倉は一瞬だけ黙って、それから困ったように笑った。


「そういうの、心臓に悪い」


「知らない」


「絶対わかって言ってる」


「半分くらい」


「半分も十分だよ」


 伯母がクラクションではなく、軽く手を振って合図する。

 朝倉はそれに気づき、鞄を抱え直した。


 そして車へ向かう前に、ほんの少しだけこちらへ身を寄せる。


「水城くん」


「何」


「私、まだちゃんと戻れるかわからないけど」


「うん」


「でも、戻りたいとは思ってる」


「知ってる」


「そっか」


 彼女はそこで一瞬だけ、言うか迷うように目を揺らした。


「……だから、もう少しだけ、いて」


 その言葉は小さかった。

 でも、今まででいちばん真っ直ぐだった。


 遼は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 好きだ、と思った。

 たぶん、もうごまかしようがなかった。


 でもその気持ちをそのまま返すのは違う。

 今の彼女に必要なのは告白ではなく、安全だ。


「いるよ」


 だから、そう答えた。


 朝倉はほんの少しだけ目を細めた。

 泣きそうでもあり、笑いそうでもある、曖昧な表情だった。


「……うん」


 車が校門を出ていくまで見送ったあと、遼はその場にしばらく立ち尽くしていた。


 もう名前はついた。

 好きだ。

 でも、その名前を使うのはまだ先でいい。


 今は、彼女が教室に戻ること。

 自分の足でそこにいていいと思えること。

 その方がずっと先だ。


 そして翌日。

 朝倉は午前中の二時間を教室で過ごせた。


 小さな前進だった。

 けれど、前に進むときほど、過去は追いついてくる。


 放課後、昇降口へ向かおうとした遼は、職員室前の廊下で立ち止まった。


 聞き覚えのある声がしたからだ。


「母親として、私にも事情がありますので」


 女の声だった。

 硬く張った声。

 その前に立っているのは、担任と学年主任。

 そして養護教諭。


 遼の背筋が冷える。


 朝倉の母親だ、と直感した。

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