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いつも「大丈夫」と笑う同級生が限界だと、僕だけが気づいてしまった  作者: 玉響すばる


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第11話 母親の前で震えた日、君は初めて自分の言葉を選んだ

 放課後の職員室前の廊下で、遼は足を止めた。


「母親として、私にも事情がありますので」


 張りつめた女の声だった。

 強く聞こえるのに、どこか焦りが混じっている。

 正しさを主張しているというより、崩れそうな足場を必死に支えている声だった。


 朝倉の母親だ、と遼は直感した。


 廊下の角からそっと様子をうかがう。

 職員室の前には、担任と学年主任、養護教諭が立っていた。

 その向かいにいる女性は、朝倉と目元が少し似ている。

 けれど表情は硬く、疲れていて、周囲を責めるような緊張をまとっていた。


「もちろん、ご家庭の大変さは理解したいと思っています」


 学年主任が落ち着いた声で言う。


「ただ、朝倉さん本人が、帰宅に強い不安を訴えていることは事実です」


「不安と言われても……あの子は昔から少し神経質で」


 その言い方に、遼の胸の奥が冷えた。


 神経質。

 大げさ。

 繊細すぎる。

 そういう言葉は便利だ。

 傷ついた側の感覚を、性格の問題へとすり替えられる。


「今回の件は、性格の話だけではありません」


 養護教諭が穏やかに、でもはっきりと言った。


「身体に痕も確認されています」


 母親の口元が一瞬だけ強ばる。


「それは、ちょっと掴んでしまっただけで……」


「頬や手首に残る程度に、ですか」


 担任の声は低かった。

 教室で生徒に向ける声よりずっと硬い。


 遼は思わず拳を握った。

 今にも飛び出して何か言いたくなる。

 けれどここで出ていくのは違う。

 これは大人が担うべき場面だ。


 そう頭ではわかるのに、身体の方が言うことを聞かない。


「水城くん」


 後ろから小さな声がした。


 振り向くと、そこに朝倉紬が立っていた。


 息を呑む。

 いつからいたのかわからない。

 制服の袖を両手で握りしめている。

 顔色は白い。

 でも目だけは、逃げずに前を見ようとしていた。


「朝倉さん」


「来てるの、知らなかった」


「……うん」


 彼女は職員室の方へ視線を向けたまま、小さく言う。


「伯母さんが、今日は先生と話があるからって」


 つまり、母親が学校へ来ることも、ある程度わかっていたのだろう。

 それでもここへ来た。


 怖いはずなのに。

 会いたくないはずなのに。

 それでも来たのは、逃げたままにしたくなかったからかもしれない。


「戻る?」


 遼が静かに聞くと、朝倉は首を横に振った。


「……聞く」


「大丈夫か」


「大丈夫じゃない」


 即答だった。

 それでも彼女は続ける。


「でも、聞く」


 その返答に、遼は何も言えなくなった。

 大丈夫じゃないことを認めたまま、逃げないと決める。

 それは強さだと思った。


 そのとき、職員室前の空気が少し動いた。


 母親が声を強めたのだ。


「私だって一人で必死なんです。仕事もあって、生活もあって、紬のことだけ見ていられるわけじゃない。少しくらい厳しく言ったからって、そんな……」


「お母さん」


 朝倉が、廊下のこちら側から声を出した。


 その場の全員が振り向く。


 母親の顔が一瞬で変わった。

 驚きと焦りと、わずかな苛立ちが同時に走る。


「紬。どうしてここに」


 朝倉は一歩だけ前に出た。

 足は震えている。

 声も少しかすれている。

 でも、止まらなかった。


「聞こえたから」


「今は先生と話してるの。あとで」


「あとでだと、また、なかったことになるから」


 その一言で、廊下の空気が変わった。


 母親が言葉に詰まる。

 担任も養護教諭も何も挟まない。

 誰も彼女の言葉を遮らない。


 朝倉は小さく息を吸った。


「お母さんは、いつもそうだった」


「紬」


「嫌だったって言っても、そんなつもりじゃなかったって言う」


「それは、だって」


「怖かったって言っても、大げさだって言う」


 言葉は震えていた。

 でも、一つ一つははっきりしていた。


「私が黙ってれば済むって、言った」


 母親の目が揺れる。

 否定しようとして、できない顔だった。


「彼氏の人が怒ったときも、お母さん、最初は止めてた。けど最後は、私が刺激しなければいいって言った」


「違う、あれは」


「違わない」


 その瞬間の朝倉の声は、これまで遼が聞いたどの声より強かった。


「私、ずっと、自分が悪いのかもしれないって思ってた」


 廊下の蛍光灯の白い光の下で、朝倉の頬はひどく青白く見えた。

 それでも彼女は目を逸らさない。


「でも、違った」


 その言葉に、養護教諭がほんのわずかに目を閉じた。

 たぶん、ようやく本人の中で線が引けたことを感じたのだろう。


「怖かったのは、本当だった」


 朝倉は続ける。


「嫌だったのも、本当だった」


「紬、私は……」


「お母さんが大変なのはわかる」


 その言い方は責めるだけではなかった。

 そこが余計に痛かった。


「仕事もあるし、疲れてるのもわかる。お母さんだってしんどいんだと思う」


 母親の顔が少し崩れる。

 責められることには身構えられても、理解を向けられると人は逆に脆い。


「でも、それを私が我慢していい理由にはならない」


 朝倉はそう言った。


 静かな声だった。

 怒鳴りではない。

 泣き叫ぶわけでもない。

 だからこそ重かった。


 母親の目に、初めてはっきりとした動揺が浮かぶ。


「……紬」


「私、もう、あの家に帰るのは怖い」


 その言葉は、この前の「帰りたくない」よりもずっと強かった。

 願望ではなく、意思だった。


「伯母さんのところにいたい」


 母親が何かを言おうと口を開く。

 でも、その前に学年主任が静かに言った。


「今の本人の意思は、非常に重要です」


 朝倉の母親は、そこでようやく状況を理解したのかもしれない。

 これは家庭内だけで収まる話ではない。

 もう学校が知っている。

 本人も口にした。

 戻せないところまで来ている。


 そのことが顔に出た。


「……私、そんなにひどい母親ですか」


 絞り出すみたいな声だった。


 遼はその言葉を聞いて、胃のあたりが重くなるのを感じた。

 その問い方自体が、少しずれている。

 朝倉が何を感じたかではなく、自分がどう見られるかに重心がある。


 けれど、それもまた一つの現実なのだろう。

 人は追いつめられると、自分の加害より自己像の崩壊を先に恐れる。


 朝倉はしばらく黙ってから言った。


「わからない」


 母親が顔を上げる。


「ひどい人かどうかは、今はわからない」


 朝倉は続ける。


「でも、今のお母さんのそばにいると、私は怖い」


 それは、断罪ではなかった。

 もっと静かで、もっと逃げ道のない言葉だった。


 母親が一歩ぶんだけ後ずさる。

 まるで、初めて自分のしてきたことの輪郭が見えたみたいに。


「……今日は、帰らない」


 朝倉が言う。


「伯母さんのところに戻る」


 母親は何も言えなかった。

 担任も養護教諭も、あえて口を挟まない。

 本人の言葉が、いちばん強いとわかっているからだ。


 やがて、母親は小さくうなずいた。


 納得ではない。

 受容でもない。

 ただ、この場で押し返せないと理解した人のうなずきだった。


「……わかりました」


 その声は、来たときよりずっと弱かった。


 話し合いはそのあとも続いた。

 具体的な生活面の調整。

 学校との連携。

 今後の面談。

 伯母を交えた確認。


 遼は途中で職員室前のベンチに座らされた。

 生徒がすべてに立ち会う必要はないと、養護教諭が判断したのだろう。


 しばらくして朝倉が出てきた。


 歩き方は少しふらついていた。

 でも目は、さっきよりもずっと静かだった。


「……終わった?」


 遼が立ち上がって聞くと、朝倉は少しだけ考えるようにしてから言った。


「まだ終わってない」


「うん」


「でも、一回目は終わった」


 それは正確な言い方だと思った。

 何も解決していない。

 でも、自分の言葉で線を引いた。

 その第一歩は終わった。


「お疲れ」


 遼が言うと、朝倉は少しだけ眉を寄せた。


「その言い方、おじさんみたい」


「失礼だな」


「でも、ちょっと安心する」


 そう言って、彼女は壁にもたれた。


 たぶん、限界に近いのだろう。

 張りつめていたものが切れかけている顔だった。


「保健室、行く?」


「うん。でもその前に」


「何」


「少しだけ、ここにいて」


 遼は何も言わず、隣に立った。

 肩が触れるほど近くはない。

 でも、離れすぎもしない。


 数分の沈黙があった。

 職員室の中から電話の音が聞こえる。

 誰かの靴音もする。

 学校はいつも通り動いている。


「水城くん」


「何」


「今日、途中で逃げたくなった」


「うん」


「でも、お母さんの前で、自分で言えた」


「うん」


「それ、たぶん、一人だったら無理だった」


 遼は少しだけ息を止めた。


「俺、何もしてないよ」


「いた」


 朝倉はそれだけ言った。


「それが大きかった」


 人は、問題を解決してくれる存在だけに救われるわけではない。

 ただ、その場にいてくれる人。

 逃げずに隣に立ってくれる人。

 それだけで、自分の言葉を選べることがある。


 遼はそのことを、ようやく身体で理解した気がした。


「朝倉さん」


「何」


「よく言えたな」


 朝倉は少しだけ目を伏せる。


「すごく怖かった」


「うん」


「今も、帰ったら吐くかもしれない」


「それでも言えた」


「……うん」


 その返事は、ほんの少し誇らしさを含んでいた。


 保健室へ移る前、朝倉はふと遼を見た。


「前に、普通じゃなくていいって言ったでしょ」


「言った」


「今日、ちょっとだけ意味わかったかも」


 その言葉に、遼は胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。


 きっと、これが回復なのだ。

 急に元気になることではない。

 泣かなくなることでもない。

 自分の怖さを抱えたまま、自分の言葉を選べるようになること。


 その夜、帰宅したあとも、遼はしばらく何も手につかなかった。


 母が夕飯を作る音。

 湯気。

 味噌汁の匂い。

 そういう当たり前の家の気配が、今日はやけに胸に刺さる。


「今日はまた、すごい顔してる」


 母が鍋をかき混ぜながら言う。


「そんなに」


「今日は疲れたんでしょ」


 遼は少し迷ってから、小さく言った。


「クラスの子が、自分の家に帰りたくないって、親の前で言えた」


 母の手が止まる。

 それ以上詳しくは聞かず、ただ静かに振り向いた。


「それは、すごいね」


「うん」


「あなたは、その場にいたの」


「いた」


「じゃあ、その子にとって今日は大きかっただろうし、あなたにとっても大きかったんだろうね」


 遼は黙って頷いた。


「助けたとか、救ったとか、そういうのじゃないんだ」


 言いながら、自分の中の感覚を確かめる。


「でも、いたことに意味があったみたいで」


「うん」


「それが、嬉しい」


 母は少しだけ微笑んだ。


「嬉しくていいんじゃない」


「でも、それに依存するのは違うと思う」


「ちゃんと自分で線を見ようとしてるなら、すぐには大丈夫」


 そう言ってから、母は付け足した。


「ただし、自分が相手を支えることでしか繋がれないと思い始めたら危ない」


 その言葉はまっすぐだった。

 遼は胸の内で反芻する。


 支えることでしか繋がれない。

 それは確かに危うい。

 恋愛でも支援でも、役割が関係を固定してしまうことがある。


「……覚えとく」


「そうして」


 その晩、遼は久しぶりに少しだけ深く眠れた。


 何も終わっていない。

 たぶんまだこれからも揺れる。

 朝倉は教室でまた苦しくなるかもしれない。

 家庭の調整も長引くだろう。

 母親との関係も簡単には修復されない。


 それでも、今日あったことは確かだった。


 朝倉紬は、自分の怖さを、母親の前で自分の言葉にした。


 そして翌朝。

 教室に入った遼は、窓際の席に先に座っている朝倉を見つけた。


 彼女はまだ少し青白い。

 でも、昨日までと決定的に違うものがあった。


 目だった。

 怯えているだけの目ではない。

 怖いままでも、自分で立っている人間の目だった。


 遼と目が合う。

 朝倉は少しだけ迷ってから、自分から口を開いた。


「おはよう」


 その一言だけで、胸が熱くなる。


「おはよう」


 返すと、彼女はほんの少しだけ笑った。


 前より不器用で、前より弱くて、でも前よりずっと綺麗な笑顔だった。

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