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いつも「大丈夫」と笑う同級生が限界だと、僕だけが気づいてしまった  作者: 玉響すばる


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第5話 帰りたくないと言えた、それだけで世界が少し変わった

 朝倉紬が「わからない」と言ったあと、遼はすぐには何も返せなかった。


 保健室の隣のベンチ。

 昼休みのざわめき。

 パンの袋の擦れる音。

 近くにある生活の音がやけに現実的なのに、その一言だけが別の重さを持っていた。


 帰って大丈夫か、わからない。


 それは、今日は機嫌が悪いかもしれないという程度の曖昧さではない。

 少なくとも遼にはそう聞こえなかった。


「……そっか」


 ようやく出た言葉が、それだった。

 薄い返事だと自分でも思う。

 けれど下手な慰めや励ましより、今はましな気がした。


 朝倉は飲むヨーグルトを両手で持ったまま、小さく言う。


「たぶん、何もない日もあるよ」


「うん」


「でも、何もないって思って帰った日に限って、何かあることもある」


「……うん」


「だから、わからない」


 理屈としては単純だった。

 予測できない脅威がある。

 その状態では、人間の神経は常に先回りして身構える。

 神経心理学でも、脅威が不規則に来る環境は、規則的な苦痛より人を消耗させる。

 いつ来るかわからないから、ずっと警戒を解けない。


 朝倉の「平気」が上手すぎる理由が、少しだけ見えた気がした。


「先生に言った方がいい」


 遼は静かに言った。


 朝倉は予想していたように目を伏せた。

 驚きはない。

 ただ、嫌だという気配だけがあった。


「……言ったら、家に連絡いくかもしれない」


「いくかもしれない」


「そうしたら、たぶん余計ひどくなる」


 そこに誇張は感じなかった。

 被害を訴えたこと自体が裏切りになる家庭はある。

 加害の自覚が薄いほど、外部介入への反発は強い。


「でも、このままもよくない」


「わかってる」


「じゃあ」


「わかってるけど」


 朝倉はそこで言葉を切った。

 喉の奥に何かが引っかかっているみたいな間だった。


「怖いの」


 その声は小さかった。

 でもはっきり聞こえた。


 怖い。

 朝倉紬は初めて、感情そのものの名前を口にした。


 遼は胸の奥がゆっくり締まるのを感じた。

 今まで彼女は、大丈夫、平気、少し、たぶん、で自分を覆っていた。

 怖い、はそれらよりずっと裸の言葉だった。


「……うん」


 それ以上うまく言えなかった。

 共感を安売りするみたいな相槌も嫌だった。

 でも否定もできない。


 朝倉はパンを見たまま続ける。


「私、自分でもよくわからなくなるんだよね」


「何が」


「本当に大したことないのか、私が大げさなのか」


 それは被害を受けている人間によく起きる認知の揺れだった。

 繰り返し否定されたり、責任を押しつけられたりすると、自分の感覚の方を疑い始める。

 臨床心理学でいう自己評価の歪み。

 朝倉はたぶん、その中に長くいる。


「大したことなくない」


 遼は即答した。


 朝倉が顔を上げる。


「見えるところに痕がある時点で、十分おかしい」


「でも、毎日じゃない」


「毎日じゃなかったらいい話でもない」


「……そうだけど」


「それに」


 遼は一度言葉を選ぶ。

 強く言いすぎれば、彼女はまた自分を責めるかもしれない。


「朝倉さんが、帰るの怖いって思ってる時点で、もう普通じゃない」


 彼女は何も言わなかった。

 でも、その沈黙は少しだけ泣くのをこらえる沈黙に近かった。


「ごめん」


 朝倉が言う。


「何で謝るの」


「迷惑かけてる」


「今それ言う?」


「癖だから」


「悪い癖だな」


 そう返すと、朝倉は少しだけ、本当に少しだけ笑った。


 昼休みの終わりが近づき、人の流れが教室へ戻り始める。

 遼はこのまま午後の授業に戻していいのか迷った。


 帰るのが怖いと言った生徒を、ただ教室へ戻して、放課後まで待たせる。

 それが正しいとは思えない。

 けれど本人の意思を無視して大人へ直行するのも、信頼を壊す。


 最適解はない。

 あるのは、ましな失敗を選ぶことだけだ。


「朝倉さん」


「何」


「今日の放課後、すぐ帰る?」


「……たぶん」


「たぶんか」


「家に連絡して、早く帰れって言われたら帰るし、言われなかったら少し遅くしてから帰る」


「遅くする理由は」


「機嫌が変わるかもしれないから」


 遼は息を止めた。

 タイミングをずらして被害を避ける。

 それはすでに対処行動だった。

 つまり、日常的に何かしらを避ける必要があるということだ。


「今日、放課後一緒にいてもいい?」


 朝倉はすぐには答えなかった。


「……ずっと?」


「先生に相談するまで」


「やっぱり相談する気なんだ」


「する気はある」


「今すぐじゃなくても?」


「今すぐじゃなくても」


「私が嫌がっても?」


 難しい問いだった。

 けれど、ここで曖昧にごまかすのは違う。


「嫌がる理由による」


「ずるい」


「朝倉さんもずっとずるいよ」


「私?」


「平気って言って、でも本当はそうじゃなくて、でも全部は言わない」


 朝倉は少しだけ目を見開いた。

 責められたと思ったかもしれない。

 遼はすぐに言葉を継ぐ。


「責めてるんじゃない。そうしないと生きてこれなかったんだろうなって思うだけ」


 彼女の肩が、ほんのわずかに下がる。


「……水城くん、たまにひどく優しいね」


「たまにって何」


「ずっとだと、困るから」


「そこは一貫してるな」


「そこだけは」


 午後の授業は、二人とも上の空だった。


 朝倉はノートを取っていたが、字が少し乱れていた。

 遼は数学の板書を写しながら、放課後の段取りを考えていた。

 誰に話すか。

 どう切り出すか。

 朝倉の前で話すべきか、別で話すべきか。


 六時間目が終わる。

 終礼。

 担任の連絡。

 教室がざわつき、帰る生徒と部活へ行く生徒が分かれていく。


 朝倉はすぐには立ち上がらなかった。

 机の上を片づける手が、妙に遅い。


「朝倉さん」


 遼が声をかけると、彼女は一度だけ目を閉じた。

 覚悟を決めるみたいな仕草だった。


「……少しだけ、待って」


「うん」


 遼は自分の席で待った。

 藤崎が近づいてくる。


「今日、一緒に帰れない感じか」


「たぶん」


「了解。篠宮にも何となく伝えとく」


「助かる」


「助かる顔してないぞ」


「そう見える?」


「だいぶ」


 藤崎はそこで一瞬、教室の隅の朝倉を見た。

 そして声を潜める。


「無理すんなよ。お前、一人で抱えるタイプだから」


「抱えてない」


「その否定は信用ならない」


「お前、今日やけにちゃんとしてるな」


「たまにはな」


 藤崎が去ったあと、篠宮真帆が入れ違いに来た。


「私、今日委員会あるから先に行くけど」


「うん」


「何かあったら連絡して。……って言っても、連絡先知らないか」


「知らない」


「じゃあ藤崎経由でもいい」


「なんでそこで藤崎」


「一番動くでしょ、あの人」


 たしかに否定できない。

 篠宮は少し朝倉の方を見てから、小さく言った。


「今日は、無理に笑わせなくていいから」


「そんなことしてない」


「してるつもりなくても、空気軽くしようとすることあるよ」


「……耳が痛いな」


「自覚あるなら大丈夫」


 そう言って篠宮も出ていった。


 教室に残ったのは、遼と朝倉、それから掃除当番の数人だけだった。

 やがてその生徒たちも廊下へ出て、教室は夕方の光に静かに満ちる。


「帰る?」


 遼が聞く。


 朝倉はスマホの画面を見ていた。

 既読のつかないメッセージ画面ではなく、通知欄だった。


「……まだ」


「連絡きてる?」


「うん」


「何て」


「今から帰るって送れって」


 短い文面なのだろう。

 でも、それだけで朝倉の顔色が少し変わるのがわかった。


「送ったら?」


「送るよ」


 彼女はそう言いながら、すぐには打たなかった。

 親指が画面の上で止まっている。


「送れない?」


「送ったら、帰る時間が確定するから」


「……そっか」


「今、教室出るのが怖い」


 朝倉は画面を見たまま言った。


「昇降口に向かってる途中で、もう帰らなきゃって思うと息が苦しくなる」


 パニック反応に近い、と遼は思った。

 予期不安。

 脅威の場面を想像しただけで身体が先に反応する。


「先生のところ、行こう」


 遼は言った。

 今度は迷わなかった。


 朝倉はすぐには頷かない。

 でも、強く拒みもしない。


「一緒に来る?」


「行く」


「先生に全部話さなくてもいい」


「でも」


「まず、帰るのが怖いってだけでいい」


 朝倉は唇を噛んだ。

 それから、震えないようにしている声で言う。


「……それだけで、いいのかな」


「いい」


「大げさって思われない?」


「思われない」


「水城くんは、そう言うけど」


「先生もたぶんそう言う」


 彼女は数秒黙ったあと、スマホを握りしめたまま立ち上がった。


「もし、やっぱり無理ってなったら」


「途中でやめてもいい」


「怒らない?」


「怒らない」


「呆れない?」


「呆れない」


「……ほんとに?」


「ほんとに」


 その確認の多さ自体が、これまでの環境を物語っていた。

 途中でやめたら怒られる。

 迷ったら呆れられる。

 そう学んできたのだろう。


 二人で職員室へ向かう廊下は、昨日までより長く感じた。

 朝倉の歩幅は小さい。

 速くも遅くもない。

 ただ、一歩ずつ確認しながら歩いているみたいだった。


 保健室の前まで来たところで、彼女の足が止まる。


「……やっぱり」


「戻る?」


 遼が静かに聞くと、朝倉は首を振る。

 けれど前にも進めない。


「怖い」


 その言葉に、遼は昨日よりもはっきりとした重みを感じた。


「うん」


「言ったら、戻れなくなる気がする」


「今まで通りには戻れないかも」


「やっぱり」


「でも、今まで通りでいるのもしんどいだろ」


 朝倉は目を閉じた。

 息を吸って、吐く。

 それから、ほんの少しだけ頷く。


 そのときだった。


「朝倉さん?」


 保健室の扉が開き、養護教諭が顔を出した。


 二人を見て、一瞬だけ状況を察したような表情になる。


「どうしたの」


 やわらかい声だった。

 急かさない。

 責めない。

 ただ、そこにいることを許す声。


 朝倉の喉が小さく動く。

 言え。

 言ってくれ。

 そう願うのは、たぶん遼の勝手だ。


 でも次の瞬間、朝倉は確かに言った。


「……今日、帰りたくなくて」


 それだけだった。

 家庭のことも、痕のことも、何があったかも言わない。

 ただ、帰りたくない。


 けれどその一言だけで、養護教諭の目が静かに変わった。


「わかった」


 先生はそれ以上、廊下では何も聞かなかった。


「中、入ろうか」


 その返答に、朝倉の肩がわずかに震えた。

 泣いたわけではない。

 でも、張りつめていたものが少しだけ緩んだのがわかった。


 相談室に入ると、養護教諭はまず椅子を勧め、水も出してくれた。

 すぐに質問を浴びせることはしない。

 まず座る。

 飲む。

 息を整える。

 安全な場だと身体に教える順番を守っている。


「水城くん、いても大丈夫?」


 先生が尋ねると、朝倉は小さく頷いた。


「……いてほしい」


 その答えに、遼は少しだけ息を呑んだ。

 直接そう言われたのは初めてだった。


「わかった」


 養護教諭は穏やかに頷く。


「じゃあ、今日はまず、今ここで何が一番つらいかだけ教えてくれる?」


 朝倉はしばらく黙っていた。

 手元の紙コップを見つめ、何度か息を整える。

 それから、途切れ途切れに言った。


「家に……帰ると」


「うん」


「母の機嫌が悪い日が、あって」


「うん」


「最近、彼氏の人も来るようになって」


 遼の指先が冷えた。


「その人がいると、もっと、空気が悪くて」


 朝倉はそこで一度言葉を失った。

 養護教諭は急かさない。

 ただ、待つ。


「昨日……頬、つかまれて」


 ようやく出たのは、その表現だった。

 殴られた、とは言わなかった。

 でも十分だった。


「手首も」


「うん」


「逃げようとしたら、強くつかまれて」


 相談室の空気が静かに張りつめる。


 遼は胸の奥に鈍い怒りが広がるのを感じた。

 でも今ここで必要なのは自分の感情ではない。

 朝倉が話し続けられる空気を壊さないことだ。


「お母さんは?」


 養護教諭が、慎重に聞く。


「見てました」


 その一言が、何より重かった。


「止めなかったの?」


「……最初は、やめてって言ってたけど」


「うん」


「最後は、私が黙ってれば済むからって」


 紙コップを握る朝倉の指が白くなる。


「私、ずっと、自分が我慢すれば大きくならないって思ってて」


「うん」


「でも昨日、ちょっと嫌だって言ったら、余計……」


 そこで声が詰まった。

 もうそれ以上は言えなかった。


 養護教諭は短く、はっきりと言った。


「朝倉さん。それは、あなたが悪いことじゃない」


 朝倉は目を伏せたまま動かない。

 すぐには入らないのだろう。

 長く別の言葉を聞かされてきた人間には、一度の正しい言葉は染み込みにくい。


「今日はもう、一人で帰さない」


 先生は続けた。


「ここから先は学校として動くね」


 朝倉の肩がびくっと揺れる。

 恐怖もある。

 でも、どこかで待っていた言葉でもあるように見えた。


「……母に、連絡しますか」


「必要な連絡はする。でも、朝倉さんの安全を最優先にする」


「安全……」


「今日は家に帰すかどうかも含めて、学校側で判断する。管理職とも共有するし、必要なら児童相談所や関係機関ともつなぐ」


 高校生でも、家庭内の安全が脅かされるなら学校が動く。

 当然のことだ。

 でも当然であることと、本人が安心できることは別だった。


「大きくしないでほしかった?」


 養護教諭が聞く。


 朝倉は長く黙ってから、首を小さく横に振った。


「……わからない」


「うん」


「でも、今日帰るのは、嫌です」


 その言葉は、さっきの「帰りたくない」より少し強かった。


 助けて、ではない。

 でもその手前までは来ている。


「わかった」


 先生はそう言って、すぐに立ち上がった。


「ここで待ってて。担任の先生と管理職を呼んでくる」


 先生が出ていき、相談室に遼と朝倉だけが残る。


 しばらく、何も言えなかった。


 言葉を選ぶ以前に、今この場で軽々しく何か言うのが違う気がした。

 やがて朝倉が小さく言う。


「……最悪」


「何が」


「こんなふうになると思わなかった」


「うん」


「でも、ちょっとだけ」


「何」


「楽になった」


 その言葉に、遼はようやく深く息を吐いた。


「よかった」


「全然よくないけど」


「それでも」


「……うん」


 朝倉は紙コップを見つめたまま、少しだけ笑った。

 泣きそうな顔のままの、ひどく不安定な笑いだった。


「水城くん」


「何」


「さっき、いてほしいって言ったの、忘れて」


「無理」


「なんで」


「嬉しかったから」


 朝倉は一瞬ぽかんとして、それから顔を伏せた。


「そういうこと、さらっと言うのずるい」


「朝倉さんも、今日かなり色々言ったよ」


「覚えてないことにしたい」


「それも無理だな」


「ひどい」


 そのやりとりのあと、少しだけ沈黙が柔らかくなる。


 しばらくして、担任と養護教諭、それから学年主任らしい男性教員が入ってきた。

 空気がまた張りつめる。


 でも今度は、朝倉は逃げなかった。

 手は震えていた。

 顔色も悪い。

 それでも椅子に座ったまま、帰りたくないこと、家で怖いことがあることを、短く、途切れながらも繰り返した。


 担任はいつもの教室での軽い調子ではなく、低く穏やかな声で聞いていた。

 学年主任も、余計な説教を挟まない。

 大人がちゃんと大人の役割をしているのを見て、遼は少しだけ安心した。


 やがて、学校側で今日は保護を優先し、関係機関と連携しつつ対応する方針が決まった。

 母親への連絡も、直接本人を帰宅させる形ではなく、学校側主導で行うという。


 全部がすぐに解決するわけではない。

 むしろ、ここからの方が長いのだろう。

 面談も確認も調整もいる。

 家庭は一日で変わらない。


 それでも、今日だけは違った。


 朝倉紬が、自分の口で、帰りたくないと言えた。

 それだけで、たぶん世界は少し変わった。


 日が沈みかけた帰り道、遼は一人で校門を出た。

 朝倉はまだ学校に残っている。

 教師たちと話し、今夜どうするかを決めるために。


 春の夕方の空は薄い紫色で、風は少し冷たかった。

 何も解決していない。

 けれど、見なかったことにはされなかった。


 それだけで、今日は十分だった。


 そして遼はまだ知らない。


 数日後、朝倉が一時的に親族の家へ移ること。

 そのことで教室の空気が少しずつ変わっていくこと。

 そして、自分自身の過去もまた、朝倉と関わる中で無視できなくなっていくことを。

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