表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
いつも「大丈夫」と笑う同級生が限界だと、僕だけが気づいてしまった  作者: 玉響すばる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/13

第4話 その痕を、見なかったことにはできなかった

 朝倉紬の頬に残った赤みは、朝の光の中でかえって目立った。


 教室の蛍光灯より、窓際から入る自然光の方が肌の色の違いを拾う。

 薄い髪の隙間から見えるその痕は、寝不足の赤さとも、ただの擦れとも言い切れない微妙な色をしていた。


 けれど遼には、偶然ではないように見えた。


 朝倉は席についたまま、机の上の英単語帳を開いている。

 ページはめくられているのに、目線がきちんと文字を追っていない。

 読んでいるふりをしているときの目だった。


 遼は自分の席に座ってからも、何度か視線を逸らそうとした。

 見るべきじゃない。

 凝視すれば、相手はもっと警戒する。

 そうわかっていても、一度気づいたものをなかったことにはできなかった。


「お前」


 前の席の藤崎恒一が振り返る。


「今日、朝倉来てるな」


「うん」


「よかったじゃん」


「……うん」


 藤崎はそこで遼の反応の鈍さに気づいたのか、少しだけ眉を寄せた。


「何かあった?」


「まだわからない」


「その言い方、もう何かある前提だな」


 遼は答えず、朝倉の席を見た。

 その視線を追って、藤崎もそちらを見る。


「……あ」


 小さな声だった。

 たぶん藤崎も気づいたのだ。


「見える?」


「少し」


「どう思う」


「どうって……」


 藤崎は言葉を選ぶように一度黙る。


「転んだとか、物にぶつかったとか、言えなくはない。でも」


「でも?」


「隠そうとしてるように見える」


 同じことを思った人間がもう一人いた。

 それだけで、遼の嫌な予感は少し現実味を帯びた。


 チャイムが鳴る。

 担任が入ってきて、いつものように連絡事項を話し始める。

 週末の模試。

 来月の校外学習。

 提出物の締切。

 教室はいつも通りの朝を進行しているのに、遼だけがそこから少し外れていた。


 担任は朝倉の欠席明けについて特に何も触れなかった。

 それ自体は当然だ。

 本人が来ている以上、わざわざみんなの前で理由を確認する必要はない。


 でも朝倉は、担任の視線が自分の方に向くたび、ほんの少し肩をこわばらせていた。


 怒られていないのに、怒られる準備だけはしている。

 その反応は相変わらずだった。


 一時間目は現代文だった。

 音読の順番が近づくにつれて、朝倉の指先がノートの端を何度もなぞるのが見えた。

 緊張しているのか、それとも別の何かをやり過ごしているのか。

 遼にはまだ判断がつかない。


 順番が来て、朝倉は立ち上がる。


「……」


 一瞬だけ、声が出なかった。


 教室の空気がわずかに止まる。

 誰も何も言わない。

 ただ、その一秒にも満たない空白が、本人には長く感じられただろうと遼は思った。


「朝倉?」


 教師が促す。


「す、すみません」


 彼女はすぐにそう言ってから、もう一度息を吸い込み、音読を始めた。

 読み間違いはなかった。

 むしろ丁寧で、声も震えていない。


 なのに、座るときの動きだけが少しぎこちなかった。


 大丈夫なふりの精度は高い。

 けれど完璧ではない。

 完璧でないからこそ、見ようとする人間には見えてしまう。


 二時間目と三時間目の間の休み時間。

 朝倉は席を立って、廊下に出ていった。


 遼は少し迷ってから追いかけた。

 廊下の突き当たり、窓の近く。

 朝倉は自販機の前で立ち止まり、財布を見つめていた。


「何買うの」


 声をかけると、彼女は肩を揺らした。

 驚きすぎて、手に持っていた小銭を落としそうになる。


「……びっくりした」


「ごめん」


「最近、本当に急にいるよね」


「最近は気配消してないから」


「前からそんなに消してたの?」


「それなりに」


 朝倉は少しだけ口元を緩めたが、すぐに真顔へ戻った。


「何しに来たの」


「飲み物」


「同じ自販機、教室の反対側にもあるけど」


「こっちの方が空いてる」


「嘘」


「まあ少し」


 朝倉は小さく息を吐いた。

 完全に拒絶はしていない。

 でも、警戒はしている。

 その微妙なラインを壊さないように、遼は壁にもたれず、正面にも立たず、少し斜めの位置を選んだ。


 逃げ道を塞がない距離。

 昨日、養護教諭に言われたことを思い出す。

 無理に特別扱いしない。でも完全に放っておかない。


「欠席、してたな」


「した」


「体調?」


「うん」


「まだ悪い?」


 朝倉はすぐには答えず、自販機の商品ボタンを見つめる。

 そして小さく言った。


「昨日よりは、まし」


「そっか」


「それだけ?」


「何が」


「もっと聞かないの」


「聞いてほしい?」


 朝倉は遼を見た。

 その目には、試すような色と、少しだけ怯える色が混ざっていた。


「……わからない」


「じゃあ、わからないうちは聞かない」


 そう言うと、朝倉はほんの少しだけ力を抜いたように見えた。


「水城くん、たまにすごく面倒だね」


「褒めてる?」


「全然」


「知ってる」


 朝倉は財布から百円玉を取り出して、お茶のボタンを押した。

 落ちてきたペットボトルを拾うとき、袖が少しずれて手首が見えた。


 そこにも、薄い青い痕があった。


 遼の呼吸が一瞬止まる。


 朝倉はすぐに袖を直した。

 見られたと気づいたのだろう。

 数秒、二人の間に沈黙が落ちる。


「朝倉さん」


 声が少し低くなる。

 自分でも止められなかった。


「それ」


「……何」


「手首」


 朝倉の目が、明らかに揺れた。


「何でもないよ」


「頬も?」


「頬?」


「髪で隠してるところ」


 彼女は反射的に右頬に触れた。

 その動作だけで、もう答えになっていた。


「見えてたんだ」


「少し」


「最悪」


 吐き捨てるような言い方ではなかった。

 心底うんざりした声だった。

 自分の隠しきれなさに対する、自己嫌悪に近い。


「転んだとか言う?」


 遼が聞くと、朝倉は笑った。

 乾いた、短い笑いだった。


「そういうの、やっぱり下手だね」


「じゃあ本当のことは」


「言わない」


「……そっか」


 遼はそれ以上すぐには踏み込まなかった。

 ここで問い詰めても、彼女は閉じるだけだとわかっていた。


 だが黙って引くこともできない。

 この段階まで来て、見なかったことにはもうできない。


「先生、知ってる?」


 朝倉の表情が変わる。


「やめて」


 即答だった。

 ほとんど反射だった。


「まだ何も言ってない」


「言わないで」


「理由は」


「お願い」


 その声の切迫感に、遼は一瞬言葉を失う。


 人は、自分を傷つけたことより、それが外に知られることを恐れる場合がある。

 羞恥。

 報復への不安。

 家庭が壊れることへの恐れ。

 あるいは、助けを求めた結果うまくいかなかった過去。


 どれか一つではないかもしれない。

 たぶん複数だ。


「水城くん」


 朝倉はペットボトルを強く握ったまま言う。


「言ったら、もっと面倒になる」


「今も十分面倒だろ」


「それでも」


「それでも?」


「家で、私が悪いことになるから」


 その一言で、遼の背筋が冷たくなった。


 家で、私が悪いことになる。

 つまり、何かが起きていて、その責任を彼女が背負わされる構造がある。


「……殴られたの」


 気づけば、そう聞いていた。


 朝倉は答えない。

 沈黙は否定にはならない。

 だが肯定とも限らない。

 それでも、彼女の目の動きと呼吸の浅さが、十分に何かを物語っていた。


「ごめん」


 遼が言う。


「聞き方が悪かった」


「ううん」


「でも、放っておくのは違う」


「わかってる」


「本当に?」


「わかってるよ」


 朝倉はそこで、初めて少しだけ声を荒げた。

 荒げたといっても、普通の人間なら感情的とも言えない程度の揺れだ。

 でも、彼女にしては明らかに大きかった。


「わかってるけど、どうしたらいいかわからないの」


 その言葉は、遼の胸の奥に重く落ちた。


 どうしたらいいかわからない。

 それは初めて聞く、朝倉紬のほとんど本音だった。


 彼女はすぐに自分の声の強さに気づいたのか、視線を逸らして小さく言った。


「……ごめん」


「謝らなくていい」


「でも」


「今のは謝るところじゃない」


 朝倉は唇を噛んだ。

 泣くわけではない。

 けれど泣く寸前の身体の固さだけがあった。


 休み時間の終わりを知らせるチャイムが鳴る。

 廊下の向こうから生徒たちの足音が近づいてくる。


「戻ろう」


 遼が言うと、朝倉は頷いた。

 だがその場からすぐに動けないでいる。


「朝倉さん」


「何」


「今日は、保健室行く?」


「たぶん」


「一人で?」


「いつもそうだよ」


「付き添うのは」


「重い」


「基準厳しいな」


「でも……」


 彼女は少しだけ迷ってから言った。


「昼休みなら、いてもいい」


 遼は目を瞬いた。

 それは、かなり大きな譲歩だった。


「わかった」


「ずっとは困る」


「昼休みだけ」


「見張るみたいなのも嫌」


「普通にいるだけにする」


「普通の基準が怪しい」


「ひどいな」


「事実だから」


 ほんの少しだけ、空気が戻る。

 無理にではなく。

 でも確かに。


 教室へ戻る途中、朝倉はまた右頬のあたりに髪をかけ直した。

 手首も制服の袖に隠す。

 その一つ一つの仕草が、胸に刺さる。


 隠さなければいけない生活。

 見つかってはいけない痕。

 それを抱えたまま、彼女は普通の高校生として席に座る。


 三時間目の授業中、遼はほとんど内容を聞いていなかった。

 昼休み、どうするか。

 誰にどこまで伝えるか。

 本人が言わないでと強く拒んでいる以上、勝手に動くことは信頼を壊す。

 しかし、このまま何もしないことも危うい。


 難しい。

 あまりにも。


 昼休みになると、遼は弁当を持って立ち上がった。

 朝倉は何も言わず、静かに席を立つ。


「水城、どこ行くんだ」


 藤崎が聞く。


「保健室の近く」


「朝倉?」


「うん」


 藤崎は少しだけ遼の顔を見て、冗談を言わなかった。


「何かあったら呼べよ」


「ありがとう」


「そこは素直なんだな」


 朝倉と並んで歩く廊下は、昨日までよりずっと緊張した。

 距離は近すぎず遠すぎず。

 話さない。

 でも一人にはしない。


 保健室の前まで来ると、朝倉が小さく言う。


「先生には、何も言わないで」


「今日は、ね」


「今日は?」


「ずっとは約束できない」


 朝倉は足を止めた。


「ずるい」


「そうかも」


「優しいふりしない方がいいって言ったのに」


「これはたぶん、ふりじゃない」


 遼は自分でも驚くくらい、静かに言えた。


「見つけた以上、なかったことにしたくないだけ」


 朝倉はしばらく黙っていた。

 それから、ほんの少しだけ俯く。


「……そういうのが、一番困る」


「何で」


「嬉しいから」


 その答えに、遼は息を止めた。


 嬉しい。

 困る。

 その二つが同時に出る時点で、彼女がどれだけ飢えているのかがわかってしまう。


「でも、嬉しいって思うと」


 朝倉は続ける。


「期待するから」


「期待していいだろ」


「よくない」


「何で」


「なくなったとき、きついから」


 それは学習だった。

 誰かに差し出されたものが、ある日なくなる。

 優しさが条件付きだと知っている人間の反応だった。


 遼はすぐに反論しなかった。

 軽く否定できる話ではないと思ったからだ。


「昼、何か食べる?」


 代わりにそう聞く。


 朝倉は少し考えてから頷いた。


「今日は、半分くらいなら」


「何がいい」


「何でも」


「その返事が一番困る」


「じゃあ、パン」


「了解」


 購買でロールパンと飲むヨーグルトを買って戻ると、朝倉は保健室の隣のベンチに座っていた。

 午前中の疲れが出たのか、少しだけ顔色が悪い。


「これ」


「ありがとう」


 彼女はすぐには手をつけず、まず飲むヨーグルトの蓋を開けた。

 一口飲んで、少しだけ目を閉じる。


「大丈夫?」


「うん。これは平気」


「ならよかった」


「最近、水城くんの『大丈夫?』は前より嫌じゃない」


「前は嫌だったんだ」


「ちょっと」


「傷つくな」


「でも今は、答えなくても怒らなさそうだから」


「怒らないよ」


「そういうところ」


 少しだけ間が空く。

 朝倉はパンをちぎって、小さく口に入れた。

 ちゃんと飲み込むまで時間がかかる。

 食欲が戻っていないのがわかる。


 それでも食べている。

 今日を越えるために必要だから、たぶん。


「朝倉さん」


「何」


「一つだけ聞いていい」


「内容による」


「家、今日帰って大丈夫?」


 彼女の指先が止まった。


 数秒の沈黙。

 廊下の向こうで、誰かが笑っている。

 すぐ近くの保健室からは、低い話し声が聞こえる。


「……わからない」


 やがて、朝倉はそう言った。


 大丈夫、とも、平気、とも言わなかった。


 それが答えとしては、いちばん重かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ