第3話 来なかった朝の、理由をまだ誰も知らない
翌朝、朝倉紬の席は空いていた。
ホームルームが始まる直前まで、遼は何となく後ろの扉の方を気にしていた。
ぎりぎりで入ってくるかもしれない。
昨日、少しだけ本音をこぼしたぶん、今日はむしろ普通に来るかもしれない。
そう思っていた。
けれどチャイムが鳴っても、担任が出席簿を開いても、その席は埋まらなかった。
「朝倉は体調不良で欠席です」
ただそれだけの、平坦な声だった。
教室の何人かが「ああ」と小さく反応する。
心配というより、情報の受け取りとしての相槌だった。
保健室によく行く子が休んだ。
その程度の認識で、朝の時間は何事もなく進んでいく。
けれど遼だけは、昨日の昇降口で聞いた言葉が頭から離れなかった。
半分は性格。半分は、たぶん家のせい。
たったあれだけだ。
具体的なことは何一つ聞いていない。
それなのに、その一言だけで、体調不良という言葉が急に軽すぎるものに思えた。
「お前、顔死んでるぞ」
一時間目の準備をしながら、藤崎恒一が小声で言った。
「元からこんなもん」
「今日はいつもより三割増し」
「細かいな」
「朝倉のことだろ」
遼は無言で教科書を開いた。
藤崎はそれを見て、少しだけ眉を上げる。
「図星か」
「……欠席ってだけだろ」
「それを気にしてる時点で、もうかなりだよ」
たしかにそうだった。
ただのクラスメイトの欠席に、こんなに引っかかるのは普通じゃない。
でも、普通じゃないのは相手の方かもしれないと思ってしまった以上、見なかったことにはしづらかった。
「昨日、何かあったのか」
藤崎が問う。
遼は一瞬迷ったが、保健室のことまでは言わなかった。
「少し話した」
「へえ」
「家のこと、少しだけ」
「……重そう?」
「軽くはなさそう」
藤崎はそこでふざけなかった。
机に置いたシャープペンを指先で転がしながら、小さく息を吐く。
「欠席一日だけで考えすぎるのも違うけどな」
「わかってる」
「でも、考えるよな」
「うん」
「そういうとき、一番きついのってさ」
藤崎が言う。
「何もできないのに、変な想像だけ増えることなんだよな」
遼は少しだけ驚いた。
そこまで正確に言い当てられると思っていなかったからだ。
まさにその通りだった。
事故かもしれない。
家庭で何かあったのかもしれない。
単に寝不足で起きられなかっただけかもしれない。
無数の可能性が頭をよぎるのに、どれも確認できない。
人間の脳は、情報が足りないと不安を埋めるために勝手に物語を作る。
しかも往々にして、悪い方向へ。
認知心理学でいうネガティビティ・バイアスだ。
危険を過大に見積もるのは、生存には合理的だが、日常では心を消耗させる。
「……お前、たまに本当に役に立つな」
遼が言うと、藤崎は顔をしかめた。
「たまに、は余計だろ」
「でも助かった」
「素直なのも気持ち悪いな」
「そっくり返す」
少しだけ会話して、ほんのわずかに呼吸が楽になる。
それでも朝倉の席を見るたび、胸のどこかが落ち着かなかった。
二時間目のあと、遼は自販機で水を買いに行くふりをして職員室の前を通った。
保健室の前も通る。
静かだった。
扉は閉まっている。
当然だと思う。
欠席しているのだから、いるはずがない。
それなのに、自分でも意味のない確認をしているとわかっていて、少し嫌になる。
昼休み。
朝倉の席はやはり空いたままだった。
誰もいない机というのは妙に目立つ。
物が少ない人の席はなおさらだ。
教科書と筆箱。
昨日の放課後に持ち帰らなかったらしい英語のワーク。
それだけが整ったまま残されている。
「水城くん」
不意に声をかけられ、遼は顔を上げた。
篠宮真帆が立っていた。
学級委員らしく姿勢がいい。
真面目そうな印象のまま、少しだけ眉を寄せている。
「何」
「朝倉さんのことで、ちょっと」
遼は箸を止めた。
「何かあった?」
「ううん、そうじゃなくて。昨日、放課後話してたよね」
「……見てたの」
「見えた。というか、教室に私もいたから」
そういえば掃除当番のあと、篠宮が一度忘れ物を取りに戻ってきていた気がする。
遼は記憶をたぐる。
「別に、詮索したいわけじゃないんだけど」
篠宮は言いにくそうに続けた。
「朝倉さん、最近ちょっと無理してる感じあるから。何か聞いてないかなって」
その口調には悪意も興味本位もなかった。
むしろ責任感に近いものがあった。
見過ごしてはいけない気がしている人間の声だ。
「具体的には、何も」
「そっか」
「でも、体調だけじゃない気はする」
篠宮は小さく頷いた。
「やっぱりそう見える?」
「篠宮も?」
「うん。……私、委員会とか提出物のことで話すことがたまにあるんだけど、すごく気にするんだよね。ちょっとしたことでも。遅れてもいいよって言ってるのに、すごく申し訳なさそうにするし」
予想通りだった。
叱責される前提で身構える。
迷惑をかけることに過敏。
その傾向は教室でも見えていた。
「家のこととか、知ってる?」
「全然。そこまでは」
篠宮は一拍置いてから、少し声を落とす。
「私、最初はちょっと苦手だったの」
「朝倉さんが?」
「うん。何でも大丈夫って言うから。こっちが気を遣いすぎてるみたいになるというか」
その感覚は理解できた。
助けを拒む人間は、ときに周囲に罪悪感を生む。
こちらが勝手に踏み込んでいるだけなのか。
迷惑なのか。
線引きが見えなくなるからだ。
「でも」
篠宮は朝倉の空席を見た。
「昨日、保健室の前で先生と話してるの、ちょっとだけ聞こえちゃって」
遼は思わず顔を上げる。
「聞いたの?」
「聞こうとしたわけじゃないよ」
「うん」
「お母さんに電話がつながらない、って」
その一言で、遼の胃のあたりが冷たくなった。
「それだけ?」
「うん。あと、本人が『帰れます』って言ってた」
帰れます。
帰れるかではなく。
帰れます。
遼は昨日の保健室での声を思い出した。
大丈夫です。たぶん。
あのかすれた声音。
篠宮は少し迷ってから言う。
「私、考えすぎかもしれないけど……本当にただの体調不良かなって」
「俺も、そう思う」
言ってから、二人とも少し黙った。
学校という場所では、家庭のことは基本的に見えない。
制服を着て、席について、返事をしていれば、ひとまずその子は学校に来ている生徒になる。
何を食べて、どこで寝て、誰にどんな言葉をかけられてきたかなんて、表面からはほとんどわからない。
「担任に言う?」
篠宮が尋ねた。
「何を」
「気になるってこと」
「気になるだけで言うのもな」
「だよね」
「でも、何も言わないのも違う気がする」
ここが難しいところだった。
証拠はない。
具体的な被害の話もない。
本人からの明確なSOSもない。
けれど違和感はある。
かなり強く。
行動経済学で言えば、人は不確実なとき、介入コストと見過ごしコストを比較して動く。
この場合、担任に相談して的外れだったとしても失うものは大きくない。
だが見過ごして、何か深刻なことが起きた場合のコストは大きい。
理屈の上では、動くべきだった。
「……放課後、先生に少し言ってみる」
遼が言うと、篠宮はほっとしたような顔をした。
「私も一緒に話す」
「いいの」
「一人より二人の方が、変に勘違いじゃないって伝わるでしょ」
「たしかに」
「それに、私も気になってるから」
篠宮のこういうところは強い、と遼は思った。
正しさに向かう力がある。
ただ、その力はときに相手を追い詰めることもあるだろう。
でも今は、その真っ直ぐさが頼もしかった。
五時間目の古典はほとんど頭に入らなかった。
六時間目の数学も同じだ。
担任にどう言うかを考えているうちに、チャイムが鳴った。
放課後、遼と篠宮は職員室へ向かった。
担任は学年主任に呼ばれているらしく、席を外していた。
「少し待つ?」
篠宮が言う。
遼が頷いたときだった。
職員室の奥から、養護教諭が出てきた。
白衣ではなくカーディガン姿で、穏やかそうな三十代くらいの女性だ。
昨日、朝倉と話していた人だった。
「あら、水城くんと篠宮さん。先生に用事?」
「はい。少し相談があって」
篠宮が答える。
養護教諭は二人の顔を見て、少しだけ表情を和らげた。
「朝倉さんのことかな」
遼と篠宮は顔を見合わせた。
察されるくらいには、気にしている顔をしていたらしい。
「……はい」
遼が答えると、養護教諭は職員室の外をちらりと見てから、小声で言った。
「廊下だと聞こえちゃうから、少しだけ相談室に来る?」
そこまで言われると、やはりただの欠席ではないのだと感じた。
相談室は保健室の隣にある小さな部屋だった。
丸テーブルと椅子が四つ。
壁際にファイル棚。
柔らかい匂いのする、落ち着いた空間。
「先に言っておくね」
養護教諭は椅子に座りながら、穏やかな口調で言った。
「私から話せることには限界があるの。個人情報だから」
「はい」
篠宮が姿勢を正す。
遼も頷いた。
「でも、二人が心配してくれてるのは伝わるし、それはたぶん朝倉さんにとっても悪いことじゃない」
その言い方に、遼は少し救われた。
余計なおせっかいではないのかもしれないと思えたからだ。
「朝倉さん、最近よく来るんですか」
篠宮がまっすぐに聞いた。
養護教諭は少しだけ考えてから答えた。
「うん。春休み明けから増えたかな。食欲不振と睡眠不足。あとは不安感」
そこまで聞いて、遼は無意識に拳を握っていた。
睡眠不足。
食欲不振。
不安感。
どれも昨日までの違和感ときれいにつながってしまう。
「ご家庭のことも、少し関係してるみたい」
養護教諭は慎重に言葉を選ぶ。
「ただ、本人がまだ整理して話せる状態じゃないの。だから学校側も、無理に全部聞き出す段階ではないって考えてる」
「じゃあ」
遼が口を開く。
「今日の欠席は」
「今朝、お家と連絡がつきにくかったのは事実。でも最終的には連絡は取れてる。命に関わるような緊急事態ではないから、そこは安心して」
その言葉に、胸の奥の張り詰めていたものが少し緩んだ。
少なくとも最悪の想像ではなかった。
けれど同時に、安心しきれない情報でもある。
連絡がつきにくい家庭。
整理して話せないほどの家庭事情。
それは十分に深刻だ。
「先生」
篠宮が言う。
「私たちにできることって、ありますか」
養護教諭は少し笑った。
「それを考えてくれるの、すごくありがたい」
「でも、何をしたら逆効果かわからなくて」
「そうだね。たとえば、問い詰めるのはよくない。『大丈夫?』『何があったの?』を繰り返されると、朝倉さんみたいなタイプは余計につらくなることがある」
遼は昨日の自分を思い出し、少し居心地が悪くなる。
「一方で、いつも通りに接してもらえるのは助けになる。無理に特別扱いしない。でも、完全に放っておかない。難しいけど、その間くらい」
「間……」
「たとえば、朝来たら普通に挨拶する。休んでも責めない。提出物が遅れても『大丈夫だよ』って言ってあげる。食べられそうなときがあれば、一緒にいてあげる」
派手な救済ではない。
けれど、そういう小さな行動の方が実際には効くのだと遼は思った。
神経心理学でも、強い不安状態にある人間は、大きな説得より安全の反復で落ち着きを取り戻す。
予測可能で、脅威の少ない接触。
それが安心を少しずつ学習させる。
「あと」
養護教諭は少しだけ真剣な顔になった。
「もし朝倉さん本人が『帰りたくない』とか『消えたい』みたいなことを言ったら、必ず大人につないでね。自分たちだけで抱え込まないこと」
その一言は重かった。
篠宮も遼も、無言で頷いた。
「二人とも優しいね」
養護教諭が言う。
「でも、優しい子ほど、自分で何とかしなきゃって思いがちだから」
それはたぶん、釘だった。
高校生の善意には限界がある。
そこを見失うな、という。
相談室を出ると、廊下には夕方の光が差していた。
昨日と同じ時間帯なのに、今日は妙に静かに感じる。
「少し安心した」
篠宮が言った。
「命に関わる感じじゃないって聞いて」
「うん」
「でも全然安心できない」
「それもわかる」
二人で昇降口まで歩く。
靴箱の前で篠宮が立ち止まった。
「水城くん、昨日朝倉さんと話したんだよね」
「少しだけ」
「また話せそう?」
遼はすぐには答えなかった。
話したい。
でも、それが本人にとって負担になるかもしれない。
距離の取り方を間違えれば、また閉じる。
「……向こうが嫌じゃなさそうなら」
そう答えると、篠宮は頷いた。
「私は、できるだけ普段通りにする。委員会とか提出物とか、変に厳しく見えないように気をつける」
「篠宮はちゃんとしてるな」
「ちゃんとしてないと落ち着かないだけ」
その言い方に、遼は少しだけ笑った。
昨日の朝倉の言葉を思い出したからだ。
「何」
「いや、似たこと言うなと思って」
「誰と」
「朝倉さん」
篠宮は一瞬だけ目を丸くして、それから苦笑した。
「それ、ちょっと複雑」
「悪い意味じゃない」
「……まあ、いいけど」
校門のところで篠宮と別れ、一人で帰路につく。
夕方の風は少し冷たい。
住宅街の道を歩きながら、遼は何度もスマホを取り出しては戻した。
連絡先は知らない。
知っていたとしても、何を送ればよかったのかもわからない。
大丈夫?
それはたぶん、一番安い言葉だ。
何か食べた?
それも踏み込みすぎる気がする。
明日来る?
返事を強いる。
結局、何もできない。
その無力さがじわじわと胸に広がる。
家に着くと、母が台所で夕飯の支度をしていた。
醤油の匂いと煮物の湯気。
テレビのニュース。
生活の音がきちんと揃っている家だった。
「おかえり、遼。今日は早いのね」
「うん」
「手洗って。もうすぐご飯できるから」
当たり前の言葉。
当たり前の夕方。
それが急に、ものすごく恵まれたものに思えた。
帰ったら明かりがついている。
誰かが夕飯を作っている。
無事に帰る前提で言葉が交わされる。
そういう環境がない家もあるのだと、頭では知っていた。
でも知識として知っているのと、顔のある誰かに結びつくのでは全く重さが違う。
食卓に並んだ唐揚げを見て、遼は昨日の昼を思い出した。
朝倉が一度だけ見せた、本当に少しだけ自然な笑い方も。
「どうしたの、ぼーっとして」
母が言う。
「別に」
「その別に、だいたい別にじゃないときのやつでしょ」
遼は思わず顔を上げた。
藤崎と同じことを言う。
母は少しだけ笑って、皿を置いた。
「学校で何かあった?」
「……クラスの子が、ちょっと」
「困ってるの?」
遼は答えに迷い、曖昧に頷いた。
母はそれ以上深く聞かなかった。
ただ「そう」とだけ言って、味噌汁をよそった。
「助けたいと思うのはいいけど、自分まで潰れないようにしなさい」
不意にそう言われ、遼は箸を止める。
「何でわかったの」
「母親だから」
「雑だな」
「だいたい合ってるでしょ」
図星だった。
遼は少しだけ肩の力を抜く。
その夜、布団に入ってもすぐには眠れなかった。
朝倉が今どこで何をしているのか考えてしまう。
ちゃんと眠れているのか。
食べているのか。
家のせい、という言葉の中に何が入っているのか。
スマホの画面をぼんやり見て、結局何もできないまま消灯した。
そして翌朝。
教室の扉を開けた遼は、思わず立ち止まった。
朝倉紬が席に座っていたからだ。
来ている。
それだけで少し安堵したのに、次の瞬間、その違和感に気づく。
顔色が白い。
唇に色がない。
そして何より、頬の右側に、髪で隠しきれない薄い赤みがあった。
打った痕に見えた。
朝倉は遼の視線に気づいて、反射みたいに髪を少し直す。
隠そうとする動きだった。
その瞬間、遼の胸の内側で何かが冷たく沈んだ。
体調不良だけじゃない。
そう確信するには、十分すぎる朝だった。




