第6話 いなくならないでほしいと、まだ言えなかった
朝倉紬が翌日も学校に来なかったのは、ある意味では当然だった。
放課後の相談室で、担任と学年主任と養護教諭に囲まれながら、あれだけのことを話したのだ。
一晩で何事もなかったように登校できる方がおかしい。
それでも、空席を見ると胸の奥が少しだけ沈んだ。
「朝倉は本日も欠席です」
担任は昨日より慎重な声でそう告げた。
理由は言わない。
当然だ。
クラスの前で言うべきことではない。
けれど教室には、言葉にされない違和感だけが残る。
もともと静かな生徒だった。
休んでも、大騒ぎになるタイプではない。
それでも二日続けて席が空くと、さすがに何人かは気にし始める。
「また体調かな」
「保健室よく行ってたもんね」
そんな囁きが耳に入るたび、遼は机の上の教科書を見たまま、奥歯を噛みそうになった。
違う。
でも、違うと言える立場でもない。
秘密を守ることと、何も知らないふりをすることは似ているようで違う。
今の遼はその境界に立たされていた。
「お前、目つき悪いぞ」
藤崎恒一が小声で言う。
「元から」
「今日のはそういうんじゃない」
遼は答えず、窓際の空席を見た。
昨日までそこにいた人間が、今日はいない。
それだけで教室の輪郭が少し変わる。
人間は普段、そこにあるものの価値を、なくなってから認識する。
行動経済学でいう損失回避だ。
失って初めて、あったことの重さを知る。
「昨日、どうなった」
藤崎が聞く。
遼は一瞬だけ迷ったが、答えられる範囲で答えた。
「学校が動くことになった」
「……そうか」
「今日はたぶん、学校来る感じじゃない」
「そりゃそうだろうな」
藤崎は珍しく軽口を挟まなかった。
「大丈夫か、朝倉」
「わからない」
「お前は?」
「俺?」
「顔見りゃわかる」
遼は少しだけ肩を落とした。
「わからない」
「そっちもか」
「たぶん、ちゃんと考える前に動いてたから」
昨日は目の前のことに反応していただけだ。
帰りたくないと言わせる。
大人につなぐ。
そこまでは、必要な手順として動けた。
でも一晩明けて、ようやく実感が追いついてきた。
頬の痕。
手首の痣。
見て見ぬふりをしなかったこと。
朝倉が「いてほしい」と言ったこと。
それらが遅れて胸に積もってくる。
「昼、屋上行くか」
藤崎が言う。
「今日はいい」
「じゃあ俺がついてく」
「何でだよ」
「一人にしとくと、変な方向に考えそうだから」
「失礼だな」
「事実だろ」
否定できなかった。
昼休み、遼は結局藤崎と一緒に中庭のベンチにいた。
春の風はまだ少し冷たい。
購買のパンを食べる生徒たちの笑い声が遠くで混じる。
「朝倉ってさ」
藤崎がメロンパンの袋を丸めながら言った。
「教室からいなくなると、存在感あったんだなってわかるな」
「うん」
「静かなやつほど、そういうことあるよな」
遼は黙って頷いた。
朝倉紬は、自分から場を引っ張る人間ではない。
けれど、そこにいることで空気を静かに整えていたのかもしれない。
誰かの邪魔をせず、でもちゃんとそこにいる。
そういう人間がいなくなると、教室のどこかが少しだけ落ち着かなくなる。
「お前、好きなんじゃないの」
藤崎が不意に言った。
遼はむせかけた。
「何を急に」
「急じゃない。昨日あたりからずっと思ってた」
「違う」
「ほんとか?」
「こんなときにそういう話するなよ」
「こんなときだからだろ」
藤崎は肘を膝に乗せて、まっすぐ前を見る。
「人ってさ、守りたいとか放っておけないとか思う相手に、あとから名前つけることあるじゃん」
「……」
「恋とか、責任感とか、罪悪感とか」
遼は少し黙った。
その分類自体は雑だが、完全に外れてもいない。
朝倉を助けたい。
それは本当だ。
でもそれだけではない。
彼女が半分だけパンを食べることに安心して、自然に笑うと胸が軽くなって、いなくなると空席が痛い。
その感情にまだ名前はつけられなかった。
「わからない」
結局そう答えると、藤崎は笑った。
「今はそれでいいんじゃね」
「雑だな」
「お前に言われたくない」
午後の授業が終わる頃、遼は担任に呼ばれた。
職員室の前。
周囲に聞こえないように、担任は少し声を落として言う。
「水城。昨日はありがとうな」
「いえ」
「朝倉の件、学校で対応してる。詳しくは言えないけど、今のところ安全は確保できてる」
その言葉に、遼は目を上げた。
「安全、確保できてるんですか」
「ああ。今日は親族宅にいる。少なくとも、昨日の家には帰してない」
胸の奥の強張りが、少しだけ緩んだ。
親族宅。
それがどんな場所かはわからない。
でも少なくとも昨夜の延長線ではない。
「しばらくは学校とも連携して、登校の仕方も含めて調整する予定だ」
「そうですか」
「お前たちみたいに気にかけてくれるクラスメイトがいるのは、本人にも大きいと思う」
担任は一拍置いてから続ける。
「ただ、水城。お前はお前で無理するな」
「はい」
「昨日もそうだったけど、自分が何とかしなきゃって顔してる」
図星すぎて、遼は目を逸らした。
担任はため息まじりに笑う。
「そういうところ、悪いことじゃない。でも高校生の手に余ることもある。そこは大人に任せろ」
「……わかってます」
「本当にわかってるやつは、その顔しないんだよな」
まるで母と同じことを言う。
遼は少しだけ苦笑した。
放課後、昇降口で篠宮真帆に会った。
彼女もどこか落ち着かない顔をしていた。
「先生から聞いた?」
「少しだけ」
「私も。今は親族の家にいるって」
「うん」
篠宮はそこで少しだけほっとしたように息を吐く。
「よかった」
「うん」
「でも、よかったで終わらない感じもする」
「それも、うん」
二人で靴を履き替えながら、しばらく黙った。
問題が表面化して、一旦安全な場所へ移った。
それは確かに前進だ。
でも、じゃあこれで終わりかと言われれば違う。
朝倉が抱えてきた恐怖も、学習した自己否定も、そんなに簡単には消えない。
「水城くん」
篠宮が言う。
「朝倉さん、戻ってきたら、どうしたらいいと思う?」
その問いは、遼にもまだ答えがなかった。
「普通に接する、が正解なんだろうけど」
篠宮は続ける。
「普通って何だろうね」
「たしかに」
「何もなかったみたいにするのも違うし、腫れ物みたいに扱うのも違う」
「難しいな」
「うん」
学校という場では、一度空気が変わると、それを元に戻すのは難しい。
とくに思春期は、周囲の目が自己像に直結する。
学校心理学でも、クラス内での扱われ方は回復過程に大きく影響する。
朝倉に必要なのは、保護だけではなく、戻ってきたときに「いてもいい」と思える環境だ。
「たぶん」
遼はゆっくり言う。
「戻ってきたときに、過剰に何もしないこと、かな」
「うん」
「でも、いることだけは伝わるようにする」
篠宮はその言葉を反芻するように頷いた。
「それ、いいかも」
「たとえば?」
「挨拶するとか、一緒に昼食べるとか、提出物の話もいつも通りするとか」
「いつも通り、でも置いていかない」
「そう」
「難しいけど、やるしかないね」
「うん」
その日の夜、遼は自分の部屋で机に向かっていた。
教科書は開いている。
でも視線は文字を追わない。
スマホを何度も手に取っては置く。
連絡先は知らない。
知っていたとしても、送れる気はしない。
今、何を言っても軽い気がした。
勉強に集中できず、本棚の奥から昔のアルバムを取り出す。
探すつもりがあったわけじゃない。
ただ、何か別のものを見ていたかった。
ページをめくると、小さな女の子が笑っている写真が出てきた。
妹だった。
七歳で亡くなった妹。
病室で笑っていた。
大丈夫だよ、とよく言っていた。
痛くない、とも言っていた。
子どものくせに、親を安心させるみたいに。
遼はそこで、ようやく理解した。
どうして朝倉の「大丈夫」があんなに嫌だったのか。
どうして見過ごせなかったのか。
似ていたのだ。
本当はつらいはずなのに、周りを困らせないために先に笑うところが。
自分の痛みより、相手の安心を優先するところが。
妹を助けられなかった。
それは病気で、どうしようもなかった。
頭ではわかっている。
でも感情は別だ。
だから朝倉に対して、遼は必要以上に反応してしまうのかもしれない。
今度こそ間に合うかもしれない、とどこかで思っているのかもしれない。
その認識は、少し怖かった。
助けたい気持ちの中に、自分の過去の穴埋めが混ざると、判断を誤る。
臨床でも支援でもよくあることだ。
相手のための行動が、自分の救済にすり替わる。
「……最悪だな」
小さく呟く。
でも同時に、それを自覚できたのは悪くないとも思った。
少なくとも、自分が何でこんなに揺れているのかは見えた。
翌日の朝。
教室に入ると、空席が一つ埋まっていた。
朝倉紬が、席に座っていた。
遼は立ち止まりそうになる。
彼女もこちらを見た。
頬の痕は薄い化粧テープのようなもので隠されていたが、完全ではない。
手首は今日は長袖のカーディガンで見えない。
「……おはよう」
遼が言うと、朝倉はほんの一拍遅れて返した。
「おはよう」
声は少しだけかすれていた。
でも、教室にいる。
それだけで十分なはずなのに、遼の胸は妙に苦しかった。
いなくならなくてよかった。
そう思った瞬間、自分の中にある感情の輪郭が、昨日より少しだけはっきりしてしまったからだ。
けれどその朝、教室の空気はまだ何も知らないままではいてくれなかった。
朝倉が席に着いて数分後。
後ろの方の女子が小声で言った。
「ねえ、あの顔どうしたんだろ」
ごく小さな囁きだった。
でも、朝倉の肩が一瞬で固くなったのを、遼は見逃さなかった。




