第九話 組み上がるまで
十二月の後半になった。
冬至を過ぎて、日が短くなった。工場に夕陽が差し込む時間が早くなった。
ミカは週に三度、工場に来るようになっていた。
気づいたらそうなっていた。
――――
村上の作業は、着実に進んでいた。
フレームの錆を落とした。防錆処理をした。棚に集めたパーツを一つひとつ確認して、使えるものから取り付けていった。
ミカは工具を手渡した。部品を押さえた。懐中電灯で照らした。
言葉は少なかった。
しかし作業は続いた。
――――
ある日、村上が言った。
「お前、旧車の記事を書いているんだろう」
「はい」
「エンジンの仕組みはわかるか」
「少しは」
「少しじゃ足りない」村上は言った。「教えてやる」
それからその日の午後は、作業が止まった。
村上がS20の構造を説明した。
直列六気筒。DOHC二十四バルブ。各部品の役割。組み付けの順番。どこが重要で、どこが繊細か。
ミカはメモを取った。
村上は丁寧に教えた。言葉が多い日だった。
――――
「なぜ急に教えてくれるんですか」とミカは聞いた。
村上は言った。
「お前が書くんだろう。いつか」
「記事にするつもりはまだ決めていません」
「記事じゃなくてもいい」村上は言った。「お前が書くなら、正確に書け。エンジンのことを知らずに書いた文章は、読めばわかる」
ミカは頷いた。
「わかりました」
「S20は怒らないエンジンだ」と村上は言った。「どこまでも真面目に回る。それを書く時に、なぜ真面目に回るのかわかっていなければ、ただの言葉になる」
「なぜ真面目に回るんですか」
村上はエンジンブロックに手を置いた。
「各部品の精度が高い。そして組んだ人間が、手を抜いていない。機械というのは、作った人間の仕事がそのまま出る」
村上は自分の手を見た。
「俺が組んだから、このエンジンは真面目に回る。そう思っている。おこがましいかもしれないが」
ミカは首を振った。
「おこがましくないです」
――――
年が明けた。
令和七年、一月。
工場に年賀状が一枚も来なかった。村上が言った。「出さないから来ない」。それだけだった。
ミカは小さな手土産を持って工場を訪ねた。栗の羊羹だった。
村上は受け取って、棚に置いた。食べなかった。しかし捨てもしなかった。
翌週来ると、半分なくなっていた。
――――
一月の半ば、ミッションが取り付けられた。
村上は取り付けが終わると、その場に立ったまま少し動かなかった。
「どうしましたか」とミカは聞いた。
「見ていた」と村上は言った。
「何を」
「少しずつ車になっていくのを」
ミカも並んで見た。
フレームにエンジンが載り、ミッションが付いた。まだボディはない。タイヤもない。しかし確かに、車の形に近づいていた。
「祖父が見たら、何と言うでしょう」
村上は少し考えた。
「何も言わないだろう」と村上は言った。「ただボンネットに手を置く。それだけだ」
「それだけで十分ですか」
「健一はそういう男だった。言葉より手の方が正直だ」
――――
二月に入った。
ボディの補修が始まった。
村上は板金の道具を引っ張り出してきた。長い間使っていなかった道具だった。
「板金もできるんですか」とミカは聞いた。
「解体屋をやる前は、板金屋だった」と村上は言った。「何でもやった。エンジンも、板金も、塗装も」
「すごいですね」
「すごくない」村上は言った。「食うためだ。昔の職人はみんなそうだった。専門だけやっていたら食えない時代だった」
村上はハンマーを手に取った。
「ただ、何でもやっているうちに、何でもできるようになった。それだけのことだ」
――――
ボディの錆を落とした。
凹みを叩いて直した。
白い塗装を重ねた。
そしてボンネットを黒く塗った。
工場に塗料の匂いが満ちた。
乾くまで、二人は外で待った。
十二月から始まって、二月になっていた。
外は寒かった。しかし空が青かった。
「村上さん」とミカは言った。
「なんだ」
「この仕事が終わったら、どうするんですか」
村上は空を見た。
「終わってから考える」
「終わらなかったら」
「終わらせる」村上は言った。「終わらせてから死ぬ」
ミカは村上を見た。
「縁起でもないことを言わないでください」
「七十歳だ。縁起でもないことを言う年齢だ」
――――
塗装が乾いた。
工場の中に戻った。
白いボディに、黒いボンネット。
昭和四十七年の春、雨のサーキットを走った車が、少しずつ戻ってきていた。
村上はボンネットに手を置いた。
しばらくそうしていた。
それから言った。
「もう少しだ」
誰に言っているのか、ミカにはわからなかった。
しかし誰かに届いている気がした。
第九話 完




