第十話 タイヤと息吹《いぶき》
二月の終わりになった。
ボディが仕上がって、次は足回りだった。
サスペンション。ブレーキ。そしてタイヤ。
村上は部品を一つひとつ確認した。集めたパーツの中に、使えないものがあった。劣化が進みすぎていた。
「タイヤはどうしますか」とミカは聞いた。
「新しく作るしかない」
「作れるんですか」
「俺には作れない」村上は言った。「だが、作れる人間がいる」
――――
村上が電話をかけた。
相手は一発で出た。
「加納か。村上だ」
少し間があった。
「生きていたか」という声が聞こえた。
「生きている。頼みがある」
――――
三日後、一人の老人が工場を訪ねてきた。
加納隆、八十歳。元タイヤメーカーの技術者だった。痩せて小柄だが、目が鋭い。村上と同じ目だった。
「久しぶりだな」加納は言った。工場を見回した。「相変わらず汚い工場だ」
「相変わらずうるさい男だ」村上は言った。
二人は握手もしなかった。しかし空気が柔らかかった。長い付き合いの空気だった。
ミカが頭を下げた。「相沢です。お世話になります」
加納はミカを見た。それから村上を見た。
「健一の孫か」
「そうだ」
加納は小さく頷いた。「健一に似ていないな」
「私もよく言われます」とミカは言った。
「目が似ている」加納は言った。「真っ直ぐすぎる目だ。あの親父と同じだ」
――――
加納はハコスカの前に立った。
長い間、黙って見ていた。
「白いボディに黒いボンネット」加納は言った。「変わっていないな」
「塗り直した」と村上は言った。
「わかっている。でも変わっていない」
加納はしゃがんで、ホイールアーチを覗いた。
「タイヤは俺が用意する。当時のサイズに近いものを探す。完全に同じものは作れないが、限りなく近いものにする」
「頼む」と村上は言った。
「ただし」加納は立ち上がった。「条件がある」
「なんだ」
「エンジンがかかった時、俺も立ち会わせろ」
村上は少し間を置いた。
「来ても何も出ないかもしれない」
「構わない」加納は言った。「俺もあのレースにいた。タイヤを担当していた。チームの一人だ」
村上はミカを見た。
ミカは頷いた。
「わかった」と村上は言った。「来い」
――――
加納が帰った後、ミカは村上に聞いた。
「加納さんも、チームの仲間だったんですか」
「そうだ」
ミカは少し間を置いた。
「村上さんが最後の一人だと言っていましたが」
「加納は生きていた」村上は言った。「俺が最後だと思っていた。だが生きていた」
村上は工具を手に取った。
「バカヤロウだ」
「加納さんがですか」
「俺がだ」村上は言った。「連絡もせずに一人でやっていた。声をかければよかった」
ミカは黙って聞いた。
「お前が来なければ、一人でやり続けていた」
それだけ言って、村上は作業に戻った。
――――
三月に入った。
加納がタイヤを持ってきた。
四本。新しいゴムの匂いがした。
村上と加納が二人でタイヤを取り付けた。ミカは工具を手渡した。
一本目。二本目。三本目。四本目。
全部取り付け終わった時、工場が静かになった。
三人でハコスカを見た。
白いボディ。黒いボンネット。四本のタイヤ。
車の形になっていた。
完全に、車の形になっていた。
加納が言った。
「走りそうだな」
村上は答えなかった。
ミカは写真を取り出した。赤ん坊の自分と、祖父と、ハコスカ。
写真の中の車と、目の前の車を見比べた。
同じだった。
白いボディ。黒いボンネット。端正なフロントグリル。丸四灯のヘッドライト。
五十年の時間を越えて、同じ車がそこにあった。
「おじいちゃん」とミカは小さく言った。
声にならなかった。
――――
その夜、ミカは実家に電話した。
母が出た。
「お母さん、おじいちゃんのこと、何か知っている?昔、レースをしていたこと」
母は少し間を置いた。
「知っていたよ。でもお父さんが話すなって言って。昔、事故があったって。詳しくは知らないけど」
「そうか」
「何かあったの」
「ううん」とミカは言った。「祖父の車を見つけた。それだけ」
電話の向こうで、母が黙った。
それから言った。
「お父さん、喜ぶかな」
ミカは窓の外を見た。
三月の夜空に、星が出ていた。
「喜んでいると思う」とミカは言った。
第十話 完




