第八話 フレームの名前
十二月の半ばになった。
工場に石油ストーブが一台置かれていた。村上が黙って出してきた。ミカのためだとは言わなかった。ただそこにあった。
ミカは何も言わずにストーブの前に座った。
それでよかった。
――――
この日、村上は珍しく作業の手を止めた。
「手伝え」と言った。
「何をしますか」
「フレームを動かす」
二人でシートを外した。
フレームが現れた。
錆が浮いている。塗装が剥げている。しかし骨格は歪んでいない。五十年を経て、それでもまっすぐに立っていた。
村上が鉄板を、フレームの下に差し込んだ。
「押すぞ」
「はい」
「せーの」
村上がフレームの端を押した。ミカが反対側を支えた。
鉄板の上を、フレームが少しずつ滑った。
重かった。しかし動いた。
――――
村上はフレームの状態を確認し始めた。
一センチずつ見ていく。錆の具合。溶接の跡。歪みがないか。
ミカは懐中電灯を持って、村上が見る場所を照らした。
しばらく無言で作業が続いた。
工場の外で、風が鳴った。ストーブが静かに燃えていた。
――――
村上がフレームの内側を照らすよう、ミカに指示した。
ミカは懐中電灯をフレームの内側に向けた。
光の中に、文字が見えた。
「相沢健一」
ミカは息を止めた。
何度か来るたびに、この文字を見ていた。しかし今日は違った。
フレームを二人で動かした後だった。
祖父の名前が刻まれた鉄を、自分の手で持った後だった。
「村上さん」
「なんだ」
「祖父は、なぜここに名前を彫ったんでしょう」
村上は作業を続けながら言った。
「さあな」
「村上さんはどう思いますか」
村上は手を止めた。
フレームの内側の文字を見た。
「忘れないためだろう」と村上は言った。「誰かに見せるためじゃない。自分が忘れないために彫った」
「自分が忘れないために」
「あのレースは記録に残らなかった。勝利は消された。メーカーの金も受け取らなかった。何も残さなければ、あの日は本当になかったことになる」村上は言った。「でもここに彫っておけば、消えない。コイツが存在する限り、あの日のことは消えない」
――――
ミカは文字を指で辿った。
「相沢健一」
祖父は一度もこの車の話をしなかった。しかしここに名前を残していた。
話さなかったのではない。
ここに話していた。
「おじいちゃんは」とミカは言った。「ずっとここで話していたんですね」
村上は答えなかった。
しばらくして言った。
「健一らしい」
「どういう意味ですか」
「人間には話さない。でも車には話す。そういう男だった」村上は言った。「俺も同じだ」
――――
作業が一段落した夕方、村上がお茶を出した。
缶のお茶だった。温かかった。
二人でストーブの前に座った。
「村上さんは」とミカは言った。「祖父のことを、どう思っていましたか」
「どう、とは」
「好きでしたか。嫌いでしたか」
村上は缶を両手で持った。
「好き嫌いで言う話じゃない」と村上は言った。「信頼していた。それだけだ」
「信頼」
「俺はエンジンを組んだ。健一はそのエンジンで走った。それだけの関係だ。しかしその関係は、言葉より深い」
村上は缶を見た。
「俺が組んだエンジンを、健一が走らせた。健一の走りを、俺が見ていた。それだけでわかる。コイツは信頼できる、と」
「祖父も同じだったと思います」とミカは言った。「一度だけ、いいエンジンだと言った。それだけだったけど、十分だったと思います」
村上は缶のお茶を一口飲んだ。
「そうだな」
――――
帰り際、ミカはフレームをもう一度見た。
「相沢健一」
祖父は十年前に死んだ。しかしここにいる。
フレームに手を置いた。
今日は冷たくなかった。
ストーブで温まった工場の空気が、金属にも移っていた。
「また来ます」とミカは言った。
村上はストーブの火を落としながら言った。
「明後日、キャブレター《燃料供給装置》の確認をする。手が足りない」
ミカは笑った。
「来ます」
第八話 完




