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鉄の墓場―コイツはまだ死んでない―  作者: 八雲 海


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8/12

第八話 フレームの名前

十二月の半ばになった。

工場に石油ストーブが一台置かれていた。村上が黙って出してきた。ミカのためだとは言わなかった。ただそこにあった。

ミカは何も言わずにストーブの前に座った。

それでよかった。

――――

この日、村上は珍しく作業の手を止めた。

「手伝え」と言った。

「何をしますか」

「フレームを動かす」

二人でシートを外した。

フレームが現れた。

錆が浮いている。塗装がげている。しかし骨格は歪んでいない。五十年を経て、それでもまっすぐに立っていた。

村上が鉄板を、フレームの下に差し込んだ。

「押すぞ」

「はい」

「せーの」

村上がフレームの端を押した。ミカが反対側を支えた。

鉄板の上を、フレームが少しずつ滑った。

重かった。しかし動いた。

――――

村上はフレームの状態を確認し始めた。

一センチずつ見ていく。錆の具合。溶接ようせつの跡。歪みがないか。

ミカは懐中電灯を持って、村上が見る場所を照らした。

しばらく無言で作業が続いた。

工場の外で、風が鳴った。ストーブが静かに燃えていた。

――――

村上がフレームの内側を照らすよう、ミカに指示した。

ミカは懐中電灯をフレームの内側に向けた。

光の中に、文字が見えた。

「相沢健一」

ミカは息を止めた。

何度か来るたびに、この文字を見ていた。しかし今日は違った。

フレームを二人で動かした後だった。

祖父の名前が刻まれた鉄を、自分の手で持った後だった。

「村上さん」

「なんだ」

「祖父は、なぜここに名前を彫ったんでしょう」

村上は作業を続けながら言った。

「さあな」

「村上さんはどう思いますか」

村上は手を止めた。

フレームの内側の文字を見た。

「忘れないためだろう」と村上は言った。「誰かに見せるためじゃない。自分が忘れないために彫った」

「自分が忘れないために」

「あのレースは記録に残らなかった。勝利は消された。メーカーの金も受け取らなかった。何も残さなければ、あの日は本当になかったことになる」村上は言った。「でもここに彫っておけば、消えない。コイツが存在する限り、あの日のことは消えない」

――――

ミカは文字を指で辿たどった。

「相沢健一」

祖父は一度もこの車の話をしなかった。しかしここに名前を残していた。

話さなかったのではない。

ここに話していた。

「おじいちゃんは」とミカは言った。「ずっとここで話していたんですね」

村上は答えなかった。

しばらくして言った。

「健一らしい」

「どういう意味ですか」

「人間には話さない。でも車には話す。そういう男だった」村上は言った。「俺も同じだ」

――――

作業が一段落した夕方、村上がお茶を出した。

缶のお茶だった。温かかった。

二人でストーブの前に座った。

「村上さんは」とミカは言った。「祖父のことを、どう思っていましたか」

「どう、とは」

「好きでしたか。嫌いでしたか」

村上は缶を両手で持った。

「好き嫌いで言う話じゃない」と村上は言った。「信頼していた。それだけだ」

「信頼」

「俺はエンジンを組んだ。健一はそのエンジンで走った。それだけの関係だ。しかしその関係は、言葉より深い」

村上は缶を見た。

「俺が組んだエンジンを、健一が走らせた。健一の走りを、俺が見ていた。それだけでわかる。コイツは信頼できる、と」

「祖父も同じだったと思います」とミカは言った。「一度だけ、いいエンジンだと言った。それだけだったけど、十分だったと思います」

村上は缶のお茶を一口飲んだ。

「そうだな」

――――

帰り際、ミカはフレームをもう一度見た。

「相沢健一」

祖父は十年前に死んだ。しかしここにいる。

フレームに手を置いた。

今日は冷たくなかった。

ストーブで温まった工場の空気が、金属にも移っていた。

「また来ます」とミカは言った。

村上はストーブの火を落としながら言った。

明後日あさって、キャブレター《燃料供給装置》の確認をする。手が足りない」

ミカは笑った。

「来ます」

第八話 完


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