第七話 エンジンが戻る日
エンジンが届いたのは、翌週の水曜日だった。
朝一番に運送会社のトラックが工場に来た。
村上は早朝から工場にいた。ミカが着いた時、村上はすでにシャッターを全開にして、工場の床を掃いていた。
「珍しいですね」とミカは言った。「掃除をしているのを初めて見ました」
「知るか」
村上は箒を棚に戻した。
――――
トラックから木箱が降ろされた。
村上は木箱の前に立った。
蓋を開けた。
梱包材の中に、S20が収まっていた。
思っていたより、小さい。
村上はしばらく動かなかった。
工場の外で、冬の風が鳴った。
「玉掛けするぞ」
村上がチェーンブロックのフックを掛けた。
ワイヤーが張った。
エンジンが宙に浮いた。
村上はブロックの下に立ち、両手で側面を支えた。
振れを止める。
それだけの力に、腕が鳴った。
台の上に、静かに下ろした。
手を離した。
――――
ミカは村上の横に立った。
二人でエンジンを見た。
錆が浮いている部分がある。長い年月の痕跡だった。しかしブロックはしっかりしている。ヘッドカバーに歪みはない。
「直りますか」とミカは聞いた。
「やってみなければわからない」村上は言った。「ただ、本間さんが二十年火を入れ続けた。完全に死んではいない」
村上はエンジンに手を置いた。
「コイツは生きている。俺にはわかる」
――――
その日から、村上の仕事が変わった。
解体屋の仕事は午前中だけにした。午後は全てハコスカに充てた。
ミカが週に二度、工場を訪ねた。
村上は黙って作業した。ミカは横で見ていた。時々、工具を手渡した。それだけだった。
しかし工場の空気が変わっていた。
以前は静かだった。今は何かが動いている感じがした。
――――
村上は一つひとつ部品を確認した。
棚に集めたパーツを取り出して、状態を調べる。使えるものと、使えないものを分ける。使えないものは、また探す。
「気が遠くなる作業ですね」とミカは言った。
「慣れている」と村上は言った。「エンジンを組むというのは、そういうものだ。一つひとつ確認して、一つひとつ合わせていく。急いだら終わりだ」
「昭和四十六年に組んだ時も、同じでしたか」
村上は手を止めた。
「同じだ」と村上は言った。「ただ、あの時は二十一歳だった。今は七十だ」
「何が違いますか」
「手が遅くなった」村上は言った。「でも丁寧になった」
――――
「西川さん」とミカは編集部で声をかけられた。
「例のハコスカ企画、進んでいるか」
「進んでいます」
「来月号に間に合うか」
ミカは少し詰まった。「まだ、取材を続けている段階です」
「悠長だな」西川は言った。「幻のGT‐Rを追う、というのが企画の売りだ。見つかったなら、さっさと書け。読者が待っている」
「もう少し、時間をください」
西川はミカを見た。「お前らしくないな。いつもは締め切りより早く出すのに」
ミカは答えられなかった。
「まさか、情に流されているんじゃないだろうな」西川は言った。「取材対象と近づきすぎるのは、ライターとしては危険だぞ」
「わかっています」
「わかっているならいい」西川は言った。「来月号は無理でも、再来月号には出せ」
ミカは頷いた。
編集長のデスクを離れた。
西川の言葉は正しかった。取材対象と近づきすぎている。客観性を失っている。プロとして失格かもしれない。
しかし、と思った。
村上が五年かけてパーツを集めた話を、締め切りのために急いで書けるだろうか。
――――
ある日、村上が棚から古い紙を取り出した。
手書きのメモだった。
「なんですか」
「S20を組んだ時のメモだ。トルクの数値。部品の順番。自分で書いた」
ミカは紙を見た。細かい数字と図が並んでいる。五十年前の字だった。
「五十年前のメモを、まだ持っていたんですか」
「捨てられなかった」村上は言った。「いつかまた使うと思っていた」
「本当に使う日が来ましたね」
村上はメモを作業台に広げた。
「遅すぎたかもしれない」
「そんなことはないです」
「七十歳だぞ」
「だから間に合ったんです」とミカは言った。「六十九歳までに来ていたら、エンジンはまだ北海道にありました」
村上はミカを見た。
それから小さく鼻を鳴らした。
笑ったのかもしれなかった。
――――
その夜、ミカは編集部で記事の下書きを書いた。
しかし途中で手が止まった。
記事にするつもりで来た。それは今も変わっていない。
しかし何かが違う気がした。
村上が五年かけてパーツを集めた話。本間が二十年エンジンを守った話。フレームに彫られた祖父の名前。
これは記事の話ではない。
ミカはパソコンを閉じた。
また明日、工場へ行こうと思った。
第七話 完




