第六話 S20の声
北海道へは二人で行くことにした。
ミカが村上に電話で伝えると、村上は少し間を置いてから「わかった」と言った。それだけだった。
札幌の新千歳空港で待ち合わせた。
村上は作業着ではなく、紺色のジャンパーを着ていた。それだけで少し違う人間に見えた。ミカがそう言うと、村上は「余計なお世話だ」と言った。
レンタカーで南へ向かった。
雪道だった。両側に白い木立が続いた。村上は助手席で黙って窓の外を見ていた。
「緊張していますか」とミカは聞いた。
「していない」
「顔が固いですよ」
「いつもこういう顔だ」
ミカは笑った。村上は笑わなかった。
――――
コレクターの名前は、本間武といった。七十八歳。元機械メーカーの技術者で、定年後に旧車の収集を始めた。
自宅は小さな町の外れにあった。広い敷地に、大きな倉庫が二棟建っている。
インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。
本間は小柄な老人だった。白髪で、眼鏡をかけている。しかし目が鋭い。村上と同じ種類の目だった。長い間、機械と向き合ってきた人間の目だった。
「遠いところをよく来た」本間は言った。「中に入れ」
――――
倉庫の中は、旧車の部品で埋まっていた。
エンジン。ミッション。キャブレター《燃料供給装置》。棚に整然と並んでいる。一つひとつにタグが付いている。
村上は倉庫に入った瞬間、足を止めた。
棚の一角に、一基のエンジンがあった。
S20だった。
二十年以上前に売ったエンジンだった。それでもわかった。自分が組んだエンジンだ。忘れるわけがない。
村上はゆっくり近づいた。
エンジンの前に立った。
手を伸ばした。しかし触れなかった。
ただ、見た。
――――
「触っていい」と本間が言った。
村上は手を置いた。
ヘッドカバーに触れた。冷たかった。長い間、眠っていた冷たさだった。
「俺が組んだエンジンだ」と村上は言った。
本間は頷いた。「わかっている。カネダモータースから引き取った時、エンジンに刻印があった。組んだ職人の番号だ。調べたら、村上修という名前が出てきた」
村上は刻印を探した。エンジンブロックの側面に、小さく番号が打ってある。
「なぜ売らなかったんですか」とミカは聞いた。
本間は言った。「このエンジンは特別だった。他のS20と音が違う」
「音が違う」
「火を入れたことがある。一度だけ。清潔な音がした。余計な音が何もない。こういうエンジンは売れない」
村上は本間を見た。
「売るつもりはなかったが」と本間は続けた。「持ち主に返すなら話は別だ」
――――
「いくらですか」とミカは聞いた。
本間は首を振った。
「金はいらない」
「なぜ」
「俺はこのエンジンを二十年預かっていただけだ。預かり賃はもう十分もらった。このエンジンが倉庫にある間、俺は何度も火を入れた。その音を聞いた。それで十分だ」
村上はまたエンジンに手を置いた。
今度は離さなかった。
「すまなかった」と村上は言った。
本間がミカに小声で聞いた。「誰に言っているんだ」
ミカは小声で答えた。「エンジンにだと思います」
本間は少し目を細めた。「そういう人間が組んだエンジンだから、音が清潔なんだな」
――――
帰りの車の中、村上はずっと黙っていた。
エンジンは梱包されて、翌日工場に送られることになっていた。
「よかったですね」とミカは言った。
村上は窓の外を見たまま答えなかった。
しばらくして言った。
「本間さんは、二十年火を入れ続けた」
「はい」
「俺が売ったエンジンを、二十年間生かし続けた」
村上は窓に額を近づけた。
「俺はコイツを手放した。本間さんはコイツを守った。どちらがあのエンジンの持ち主だったのか」
ミカは答えなかった。
答えられなかった。
「バカヤロウ」と村上は言った。
誰に言っているのか、ミカにはわからなかった。
雪道を、レンタカーが走った。
窓の外に、白い原野が広がっていた。
第六話 完




