第四話 平成のハコスカ
三度目に工場を訪ねた日、村上は珍しく外にいた。
敷地の隅に積まれた廃車の前で、腕を組んで立っている。何かを考えているようだった。
ミカが声をかけると、振り返った。
「来たか」
それだけ言って、工場に歩き出した。
――――
この日、村上は平成の話をした。
「あの車がここに来たのは、平成十二年のことだ」
二〇〇〇年。ミカが生まれる三年前だった。
「一本の電話がかかってきた。GT‐Rがある。引き取ってくれないか、と」
「誰からですか」
「名前は言わなかった。ただ、置き場所に困っている、売りたいと言った」
村上は椅子に座った。ミカも座った。
「引き取りに行ったのは、翌朝だった。長野県の山の中だった。古い農家の納屋に、シートを被せて眠っていた」
――――
村上はシートを剥がした。
その瞬間、足が止まった。
白いボディに、黒いボンネット。
二十八年ぶりだった。
埃を被っていた。タイヤは潰れていた。ボディに錆が浮いていた。それでも、車の骨格は残っていた。長いノーズ。丸四灯のヘッドライト。
村上は車の前に立ったまま、動けなかった。
「わかりましたか。すぐに」
「わかった」と村上は言った。「忘れるわけがない。俺が組んだエンジンが入っている車だ」
村上は手を伸ばした。ボンネットに触れた。
埃の下に、黒い塗装が残っていた。
「二十八年、どこにいたんだ、と思った」
――――
「なぜそんな場所に」とミカは聞いた。
「わからない」村上は言った。「あのレースの後、車はどこかへ消えた。俺も行方を知らなかった。誰かが隠したのか、誰かが手放したのか。長野の農家がどこから手に入れたのかも聞かなかった」
「聞けばよかったのに」
「聞けなかった」村上は言った。「嬉しくて、それどころじゃなかった」
――――
村上はその車を買い取った。
値段はタダ同然だった。
平成の中頃、ハコスカに価値はなかった。旧車ブームはまだ来ていない。ただの古い車だった。解体屋が引き取るのが自然だった。
群馬の工場に運んだ。
仲間に見せた。当時はまだ生きていた、チームの古い仲間たちに。
みんな黙った。
それからみんなで車を囲んで、しばらくそうしていた。誰も何も言わなかった。でも誰も離れなかった。
「その時、仲間は何人いたんですか」
「四人だ」村上は言った。「俺を入れて五人だった」
「今は」
「みんな死んだ」
――――
村上は立ち上がって、棚から古い帳簿を取り出した。
黄ばんだ紙に、細かい字が並んでいる。
「これを見ろ」
ミカは帳簿を受け取った。
部品の売買記録だった。
エンジン → 埼玉県の旧車業者
ミッション → 栃木県のレースチーム
シート → 東京の個人コレクター
メーター → 大阪の旧車専門店
ミカは帳簿を見ながら、顔が強張った。
「これは全部、あのハコスカの部品ですか」
「そうだ」
「なぜ売ったんですか」
村上は答えなかった。
ミカはもう一度聞いた。
「なぜ売ったんですか」
村上は窓の外を見た。十一月の枯れた景色が広がっている。
「生活だ」と村上は言った。「解体屋というのはそういう商売だ。部品を売って飯を食う。感情で仕事はできない」
「でも」
「わかっている」村上は静かに言った。「わかっていてやった。だから今でも、こうして残っている」
村上は胸を指で叩いた。
――――
「全部売ったんですか」とミカは聞いた。
「売れなかったものがある」
村上は工場の奥に歩いた。シートを被せた車の前に立った。
「フレームだけは売れなかった」
「なぜですか」
村上はシートの端を少し持ち上げた。
フレームが見えた。錆が浮いている。しかし骨格はしっかりしている。
「見てみろ」
ミカは近づいた。
村上が懐中電灯で内側を照らした。
フレームの内側に、細い文字が彫ってあった。
小さく、しかし深く、確かに刻まれている。
「相沢健一」
ミカは息が止まった。
指を伸ばした。文字を辿った。
祖父の名前だった。
「いつから」
「引き取った日から、あった」と村上は言った。「健一が自分で彫ったんだろう。俺には何も言わなかった。でもここに残していた」
ミカはフレームに手を置いた。
冷たかった。金属の冷たさだった。しかしその下に、何かがある気がした。
「おじいちゃん」
声にならなかった。
口の中だけで言った。
――――
「だから売れなかった」と村上は言った。「名前が彫ってある鉄を、売れる人間がいるか」
ミカは顔を上げた。
目が赤くなっていた。泣かなかった。泣けなかった。
「ありがとうございます」
「礼を言うな」村上は言った。「俺はエンジンを売った。ミッションを売った。シートを売った。褒められたことは何もしていない」
「でも」
「フレームを残したのは、俺の都合だ。健一への義理じゃない。俺自身が、捨てられなかっただけだ」
村上はシートを戻した。
「商売人として失格だ」
ミカは小さく笑った。
初めて笑った。
村上はその笑顔を見て、少し目を細めた。
「健一に似てきたな」
「さっきは似ていないと言いましたよね」
「目が変わった」と村上は言った。それ以上は何も言わなかった。
――――
帰り際、ミカは工場の入り口で振り返った。
「村上さん、一つだけ聞かせてください」
「なんだ」
「フレームだけ残して、どうするつもりだったんですか」
村上は工具を手に取った。
「どうするつもりもなかった」と村上は言った。「ただ、捨てられなかった。それだけだ」
ミカは頷いた。
「次も来ます」
村上は答えなかった。
でも、工場のシャッターを閉めなかった。
第四話 完




