第三話 昭和のハコスカ
翌週、ミカは昼過ぎに工場を訪ねた。
村上は工場の奥で作業をしていた。古いエンジンを分解している。油まみれの手で部品を一つひとつ取り出して、並べている。
ミカが入ってきても、顔を上げなかった。
「そこに座れ」
工具箱の上に板を渡した簡単な椅子があった。ミカはそこに座った。
村上は作業を続けながら話した。
――――
昭和四十七年、春。
地方サーキットだった。
山間の小さなサーキット。スタンドは古くて、観客席は半分も埋まっていない。新聞記者もいない。カメラマンもほとんどいない。
非公式のレースだった。
「なぜ非公式だったんですか」とミカは聞いた。
「メーカーが表に出られない事情があった」村上は言った。「詳しいことは俺も知らない。ただ、走ることになった。それだけだ」
村上は部品を一つ、布で拭いた。
「あの日は朝から雨だった」
――――
村上はピットでエンジンの最終確認をしていた。
二十二歳だった。
S20に触れるたびに、自分が組んだエンジンだとわかった。ボルトの締め具合。パッキンの感触。自分の手の記憶がそのまま残っている。
相沢健一がやってきた。
革のレーシングジャケット。白いヘルメットを脇に抱えている。いつも通り無口だった。
村上はエンジンの状態を報告した。
健一は黙って聞いた。それからボンネットを一度だけ、手で叩いた。
軽く、確かめるように。
「行くか」と健一は言った。
村上は頷いた。
――――
ハコスカがコースに出た。
雨の中、白いボディが走り出した。
村上はピットから見ていた。
最初のコーナーを抜けた瞬間、村上は息を呑んだ。
速い。それだけじゃない。
綺麗だった。
雨の中を走るハコスカは、水しぶきを上げながら、それでもどこか静かだった。荒れていない。乱れていない。路面が濡れていても、車が路面を選んでいるように見えた。
「祖父の運転は、どんなでしたか」
ミカが聞いた。
村上は手を止めた。
「丁寧だった」と村上は言った。「速いのに、丁寧だった。怒鳴りつけるような運転じゃない。車と話しながら走っているみたいだった」
「車と話しながら」
「エンジンの声を聞きながら、ということだ。S20は正直なエンジンだ。無理をすれば音が変わる。健一はその変化を聞きながら走っていた。だから長持ちした。だから速かった」
――――
レース終盤。
ハコスカがトップに立った。
村上はピットで拳を握った。
最終コーナーを抜けて、ストレートに入る。黒いボンネットが雨を切る。白いボディが光の中を走る。
チェッカーフラッグが振られた。
村上は思わず声を上げた。チームの仲間が抱き合った。
ハコスカがピットに戻ってきた。
そっと止まった。
まるで眠るように、静かに止まった。
健一が降りてきた。ヘルメットを脱いだ。
村上は駆け寄った。
「やりました」
健一は頷いた。それからハコスカのボンネットに手を置いた。
「コイツが走った」と健一は言った。「俺じゃない」
――――
ミカは黙って聞いていた。
「祖父らしい言葉ですね」
「そういう男だった」村上は言った。「手柄を車に渡す男だった」
村上は分解したエンジンの部品を、一列に並べた。
「その三十分後に、事故が起きた」
工場が静かになった。
「後続の車が炎上した。若いドライバーが亡くなった」
ミカは息を止めた。
「祖父は」
「何も言わなかった」村上は言った。「ただハコスカのボンネットに額をつけて、しばらくそうしていた」
村上は工具を置いた。
「勝利は消された。記録から抹消された。関係者は全員口を閉じた。俺たちもそうした」
「後悔していますか」
村上はしばらく黙っていた。
「後悔という言葉じゃない」と村上は言った。「ただ、あの日のことは一日も忘れたことがない」
――――
「亡くなった方は、どんな方だったんですか」とミカは聞いた。
村上はしばらく黙っていた。
布で手を拭いた。何度も、同じところを拭いた。
「大手自動車メーカーの、御曹司だった」
ミカは息を呑んだ。
「非公式のレースに、会社に内緒で出ていた。それが事故で死んだとなれば」村上は言った。「会社の信用に関わる。遺族の名誉にも関わる。誰も公にしたくなかった」
「それで、記録が消されたんですか」
「メーカーの人間が来た」村上は言った。「金は出す。ただし、全員黙っていてくれ、と。俺たちに拒否権はなかった。健一もチームも、みんな下請けか個人事業主だった。メーカーに逆らえば、明日から仕事がなくなる」
「祖父は、それに従ったんですか」
「従うしかなかった」村上は言った。「だが、健一は金を受け取らなかった。それだけは覚えている」
「なぜですか」
「わからない」村上は言った。「金を受け取れば、それで終わりだと思ったのかもしれない。健一は、終わらせたくなかったんだろう」
村上は布を置いた。
「金の代わりに、あいつは何を残したか。それは、もう少し後で話す」
ミカは頷いた。それ以上は聞かなかった。
――――
「チームの仲間は今も」とミカは聞いた。
村上は首を振った。
「みんな死んだ。俺だけだ」
工場の外で、風が鳴った。
「だから俺しか知らない。あの日、コイツが本当に何をしたのかを」
村上は立ち上がって、シートを被せた車の前に立った。
「コイツは勝った。記録には残っていない。でも勝った。それだけは本当のことだ」
ミカは村上の背中を見た。
七十歳の背中だった。丸くもなく、しかし若くもない。ただ、まっすぐに立っていた。
「なぜその車を引き取ったんですか」とミカは聞いた。
「それは次の話だ」と村上は言った。
工具を手に取って、また作業に戻った。
――――
ミカは工場を出た。
十一月の空が、低く曇っていた。
祖父が一度もこの車の話をしなかった理由が、少しわかった気がした。
話せなかったのではない。
話してしまったら、あの日のことを全部話さなければならなかった。勝利も、事故も、金も、沈黙も。
だから黙っていた。
ミカは空を見上げた。
雲の切れ間から、薄い光が差していた。
第三話 完




