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鉄の墓場―コイツはまだ死んでない―  作者: 八雲 海


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3/15

第三話 昭和のハコスカ

翌週、ミカは昼過ぎに工場を訪ねた。

村上は工場の奥で作業をしていた。古いエンジンを分解している。油まみれの手で部品を一つひとつ取り出して、並べている。

ミカが入ってきても、顔を上げなかった。

「そこに座れ」

工具箱の上に板を渡した簡単な椅子があった。ミカはそこに座った。

村上は作業を続けながら話した。

――――

昭和四十七年、春。

地方サーキットだった。

山間やまあいの小さなサーキット。スタンドは古くて、観客席は半分も埋まっていない。新聞記者もいない。カメラマンもほとんどいない。

非公式のレースだった。

「なぜ非公式だったんですか」とミカは聞いた。

「メーカーが表に出られない事情があった」村上は言った。「詳しいことは俺も知らない。ただ、走ることになった。それだけだ」

村上は部品を一つ、布で拭いた。

「あの日は朝から雨だった」

――――

村上はピットでエンジンの最終確認をしていた。

二十二歳だった。

S20に触れるたびに、自分が組んだエンジンだとわかった。ボルトの締め具合。パッキンの感触。自分の手の記憶がそのまま残っている。

相沢健一がやってきた。

革のレーシングジャケット。白いヘルメットを脇に抱えている。いつも通り無口だった。

村上はエンジンの状態を報告した。

健一は黙って聞いた。それからボンネットを一度だけ、手で叩いた。

軽く、確かめるように。

「行くか」と健一は言った。

村上は頷いた。

――――

ハコスカがコースに出た。

雨の中、白いボディが走り出した。

村上はピットから見ていた。

最初のコーナーを抜けた瞬間、村上は息をんだ。

速い。それだけじゃない。

綺麗だった。

雨の中を走るハコスカは、水しぶきを上げながら、それでもどこか静かだった。荒れていない。乱れていない。路面が濡れていても、車が路面を選んでいるように見えた。

「祖父の運転は、どんなでしたか」

ミカが聞いた。

村上は手を止めた。

「丁寧だった」と村上は言った。「速いのに、丁寧だった。怒鳴りつけるような運転じゃない。車と話しながら走っているみたいだった」

「車と話しながら」

「エンジンの声を聞きながら、ということだ。S20は正直なエンジンだ。無理をすれば音が変わる。健一はその変化を聞きながら走っていた。だから長持ちした。だから速かった」

――――

レース終盤。

ハコスカがトップに立った。

村上はピットで拳を握った。

最終コーナーを抜けて、ストレートに入る。黒いボンネットが雨を切る。白いボディが光の中を走る。

チェッカーフラッグが振られた。

村上は思わず声を上げた。チームの仲間が抱き合った。

ハコスカがピットに戻ってきた。

そっと止まった。

まるで眠るように、静かに止まった。

健一が降りてきた。ヘルメットを脱いだ。

村上は駆け寄った。

「やりました」

健一は頷いた。それからハコスカのボンネットに手を置いた。

「コイツが走った」と健一は言った。「俺じゃない」

――――

ミカは黙って聞いていた。

「祖父らしい言葉ですね」

「そういう男だった」村上は言った。「手柄を車に渡す男だった」

村上は分解したエンジンの部品を、一列に並べた。

「その三十分後に、事故が起きた」

工場が静かになった。

「後続の車が炎上した。若いドライバーが亡くなった」

ミカは息を止めた。

「祖父は」

「何も言わなかった」村上は言った。「ただハコスカのボンネットにひたいをつけて、しばらくそうしていた」

村上は工具を置いた。

「勝利は消された。記録から抹消まっしょうされた。関係者は全員口を閉じた。俺たちもそうした」

「後悔していますか」

村上はしばらく黙っていた。

「後悔という言葉じゃない」と村上は言った。「ただ、あの日のことは一日も忘れたことがない」

――――

「亡くなった方は、どんな方だったんですか」とミカは聞いた。

村上はしばらく黙っていた。

布で手を拭いた。何度も、同じところを拭いた。

「大手自動車メーカーの、御曹司おんぞうしだった」

ミカは息を呑んだ。

「非公式のレースに、会社に内緒で出ていた。それが事故で死んだとなれば」村上は言った。「会社の信用に関わる。遺族の名誉にも関わる。誰も公にしたくなかった」

「それで、記録が消されたんですか」

「メーカーの人間が来た」村上は言った。「金は出す。ただし、全員黙っていてくれ、と。俺たちに拒否権はなかった。健一もチームも、みんな下請けか個人事業主だった。メーカーに逆らえば、明日から仕事がなくなる」

「祖父は、それに従ったんですか」

「従うしかなかった」村上は言った。「だが、健一は金を受け取らなかった。それだけは覚えている」

「なぜですか」

「わからない」村上は言った。「金を受け取れば、それで終わりだと思ったのかもしれない。健一は、終わらせたくなかったんだろう」

村上は布を置いた。

「金の代わりに、あいつは何を残したか。それは、もう少し後で話す」

ミカは頷いた。それ以上は聞かなかった。

――――

「チームの仲間は今も」とミカは聞いた。

村上は首を振った。

「みんな死んだ。俺だけだ」

工場の外で、風が鳴った。

「だから俺しか知らない。あの日、コイツが本当に何をしたのかを」

村上は立ち上がって、シートを被せた車の前に立った。

「コイツは勝った。記録には残っていない。でも勝った。それだけは本当のことだ」

ミカは村上の背中を見た。

七十歳の背中だった。丸くもなく、しかし若くもない。ただ、まっすぐに立っていた。

「なぜその車を引き取ったんですか」とミカは聞いた。

「それは次の話だ」と村上は言った。

工具を手に取って、また作業に戻った。

――――

ミカは工場を出た。

十一月の空が、低く曇っていた。

祖父が一度もこの車の話をしなかった理由が、少しわかった気がした。

話せなかったのではない。

話してしまったら、あの日のことを全部話さなければならなかった。勝利も、事故も、金も、沈黙も。

だから黙っていた。

ミカは空を見上げた。

雲の切れ間から、薄い光が差していた。

第三話 完


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