第二話 村上修とハコスカ
工場の中は薄暗かった。
天井から蛍光灯が一本下がっている。その光の下に、工具が並んでいる。棚に部品が積まれている。油の匂いと、鉄の匂いが混ざっている。
村上はシートを被せた車の横に椅子を二つ出した。古い丸椅子だった。自分も一つに座って、顎で示した。
「座れ」
ミカは座った。
村上は写真をミカに返した。それから腕を組んで、しばらく黙っていた。
「健一さんは、いつ死んだ」
「十年前です。七十二歳で」
村上は頷いた。それだけだった。
「あなたは祖父をご存知だったんですか」
「知っていた」
「どういう関係で」
「あの車を通じてだ」村上は言った。「それ以外の関係はない」
――――
「あの車というのは」とミカは聞いた。
村上は立ち上がった。シートを被せた車に近づいた。シートの端を少し持ち上げた。
白いボディが見えた。
ミカは立ち上がった。
「これが」
「そうだ」
村上はシートを戻した。
「まだ直っていない。だから見せられない」
ミカは車の輪郭をシートの上から見た。長いノーズ。端正なシルエット。
「いつからここに」
「二十年になる」村上は言った。「平成の中頃に引き取った」
「引き取った、というのは」
「買い取った。二束三文でな」
村上は椅子に戻った。ミカも座った。
――――
「少し話してもらえますか」とミカは言った。「この車のことを」
村上はしばらく黙っていた。
工場の外で、風が吹いた。シャッターが小さく揺れた。
「お前は記事にするつもりで来たんだろう」
「はい」
「記事にされるのは嫌だ」
「なぜですか」
「俺がパーツを売ったことが世間に知れたら、叩かれる。伝説の車を解体した男だと」
ミカは村上を見た。
目が鋭い。しかし怯えていない。ただ、静かに構えている。
「叩かれることを恐れているんですか」
「恐れていない」村上は言った。「ただ、面倒くさい」
ミカは少し考えた。
「記事にするかどうかは、話を聞いてから決めます。今日は記者としてではなく、相沢健一の孫として来ました」
村上はミカを見た。長い間見ていた。
それから小さく息をついた。
「健一に似ていないな」
「よく言われます」
「顔じゃない」村上は言った。「目だ。真っ直ぐ過ぎる」
――――
村上が話し始めた。
昭和四十五年。村上修は二十歳だった。
日産系の下請け工場に就職したばかりだった。仕事は部品の組み付けから始まった。毎日同じ作業を繰り返した。面白くなかった。しかし辞めなかった。
半年後、上司に呼ばれた。
「お前、エンジンに興味があるか」
「あります」
「ならついて来い」
連れて行かれた先に、一基のエンジンがあった。
S20型。直列6気筒、DOHC24バルブ。
村上はそのエンジンを見た瞬間、何かが変わった。
「機械というのはな」と村上は言った。「触った瞬間にわかる。コイツは普通じゃない、と」
「S20が、ですか」
「怒らないエンジンだ」村上は言った。「どこまでも真面目に回る。限界まで回しても、嫌な顔をしない。俺はそういうエンジンを、それまで見たことがなかった」
――――
村上はS20の組み立てを任されるようになった。
一基一基、手で組んだ。トルクレンチ《締め付け工具》の感触を手で覚えた。エンジンが仕上がるたびに、火を入れた。その音を聞いた。
「音でわかるんですか」とミカは聞いた。
「わかる」村上は即座に答えた。「同じS20でも、組み方で音が変わる。ちゃんと組めたエンジンは、清潔な音がする」
「清潔な音」
「余計な音がしない、ということだ」
――――
昭和四十六年、秋。
村上が組んだS20エンジンが、一台のハコスカに載ることになった。
KPGC10。クーペボディのGT‐Rだ。
白いボディに、黒いボンネット。
村上は初めてその車を見た日のことを、今でも覚えている。
「工場に運ばれてきた。朝の光の中で、ただそこに止まっていた」
村上は少し間を置いた。
「全長四千四百ミリ。全幅千五百九十ミリ。数字で言えばそれだけだ。でも実際に目の前に立つと、違う。長いノーズが、まっすぐ前を向いている。丸四灯のヘッドライトが、こっちを見ている。黒いボンネットだけが、他と違う色をしている」
「どう違ったんですか」
「静かだった」村上は言った。「エンジンが止まっているのに、何かが動いているような気がした。走りたがっている、というのか。ただ止まっているだけなのに、前に向かっている感じがした」
ミカは黙って聞いていた。
「俺はその時、二十一歳だった。若造だった。でもわかった。コイツは特別だ、と」
――――
「祖父とはいつ出会ったんですか」とミカは聞いた。
「エンジンを載せた後だ。テスト走行に来た男がいた。それが健一だった」
「どんな人でしたか」
村上は少し考えた。
「無口な男だった。挨拶して、車に乗って、走って、降りて、また挨拶して帰る。余計なことを何も言わない」
「祖父らしい」とミカは言った。
「ただ一度だけ」村上は言った。「テスト走行から戻って、車を降りた後に言った。『いいエンジンだ』。それだけだ。それだけだったが、俺には十分だった」
村上は手の平を見た。油の染みた、厚い手だった。
「自分が組んだエンジンを、ドライバーに褒められた。若い頃の話だ。でも今でも覚えている」
――――
ミカは鞄からメモ帳を出そうとした。
村上が言った。
「メモはするな」
ミカは手を止めた。
「今日は記録じゃない」村上は言った。「ただの話だ」
ミカはメモ帳を鞄に戻した。
「わかりました」
村上は立ち上がった。シートを被せた車の前に立った。
「健一の孫が来るとは思わなかった」
「私も、ここに来るとは思っていませんでした」
「なぜ来た」
ミカは答えた。
「祖父が一度もこの車の話をしなかったから。でも写真だけは残してあって、それが気になったので」
村上はシートに手を置いた。
「健一は話さない男だった。でも覚えていた。ずっと覚えていた。俺と同じだ」
工場に沈黙が満ちた。
蛍光灯が、小さく瞬いた。
「また来てもいいですか」とミカは言った。
村上はシートから手を離した。
「来ても何も出ないぞ」
「それでも来ます」
村上は答えなかった。工具を手に取って、作業に戻ろうとした。
それから、ぼそりと言った。
「次は昼過ぎに来い。午前中は忙しい」
ミカは頭を下げた。
工場を出ると、十一月の風が吹いた。
駐車場に向かいながら、ミカは振り返った。
工場のシャッターの奥で、蛍光灯の光が揺れていた。
第二話 完




