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鉄の墓場―コイツはまだ死んでない―  作者: 八雲 海


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2/13

第二話 村上修とハコスカ

工場の中は薄暗かった。

天井から蛍光灯が一本下がっている。その光の下に、工具が並んでいる。棚に部品が積まれている。油の匂いと、鉄の匂いが混ざっている。

村上はシートを被せた車の横に椅子を二つ出した。古い丸椅子だった。自分も一つに座って、あごで示した。

「座れ」

ミカは座った。

村上は写真をミカに返した。それから腕を組んで、しばらく黙っていた。

「健一さんは、いつ死んだ」

「十年前です。七十二歳で」

村上は頷いた。それだけだった。

「あなたは祖父をご存知だったんですか」

「知っていた」

「どういう関係で」

「あの車を通じてだ」村上は言った。「それ以外の関係はない」

――――

「あの車というのは」とミカは聞いた。

村上は立ち上がった。シートを被せた車に近づいた。シートの端を少し持ち上げた。

白いボディが見えた。

ミカは立ち上がった。

「これが」

「そうだ」

村上はシートを戻した。

「まだ直っていない。だから見せられない」

ミカは車の輪郭をシートの上から見た。長いノーズ。端正なシルエット。

「いつからここに」

「二十年になる」村上は言った。「平成の中頃に引き取った」

「引き取った、というのは」

「買い取った。二束三文にそくさんもんでな」

村上は椅子に戻った。ミカも座った。

――――

「少し話してもらえますか」とミカは言った。「この車のことを」

村上はしばらく黙っていた。

工場の外で、風が吹いた。シャッターが小さく揺れた。

「お前は記事にするつもりで来たんだろう」

「はい」

「記事にされるのは嫌だ」

「なぜですか」

「俺がパーツを売ったことが世間に知れたら、叩かれる。伝説の車を解体した男だと」

ミカは村上を見た。

目が鋭い。しかしおびえていない。ただ、静かに構えている。

「叩かれることを恐れているんですか」

「恐れていない」村上は言った。「ただ、面倒くさい」

ミカは少し考えた。

「記事にするかどうかは、話を聞いてから決めます。今日は記者としてではなく、相沢健一の孫として来ました」

村上はミカを見た。長い間見ていた。

それから小さく息をついた。

「健一に似ていないな」

「よく言われます」

「顔じゃない」村上は言った。「目だ。真っ直ぐ過ぎる」

――――

村上が話し始めた。

昭和四十五年。村上修は二十歳だった。

日産系の下請け工場に就職したばかりだった。仕事は部品の組み付けから始まった。毎日同じ作業を繰り返した。面白くなかった。しかし辞めなかった。

半年後、上司に呼ばれた。

「お前、エンジンに興味があるか」

「あります」

「ならついて来い」

連れて行かれた先に、一基のエンジンがあった。

S20型。直列6気筒、DOHC24バルブ。

村上はそのエンジンを見た瞬間、何かが変わった。

「機械というのはな」と村上は言った。「触った瞬間にわかる。コイツは普通じゃない、と」

「S20が、ですか」

「怒らないエンジンだ」村上は言った。「どこまでも真面目に回る。限界まで回しても、嫌な顔をしない。俺はそういうエンジンを、それまで見たことがなかった」

――――

村上はS20の組み立てを任されるようになった。

一基一基、手で組んだ。トルクレンチ《締め付け工具》の感触を手で覚えた。エンジンが仕上がるたびに、火を入れた。その音を聞いた。

「音でわかるんですか」とミカは聞いた。

「わかる」村上は即座に答えた。「同じS20でも、組み方で音が変わる。ちゃんと組めたエンジンは、清潔な音がする」

「清潔な音」

「余計な音がしない、ということだ」

――――

昭和四十六年、秋。

村上が組んだS20エンジンが、一台のハコスカに載ることになった。

KPGC10。クーペボディのGT‐Rだ。

白いボディに、黒いボンネット。

村上は初めてその車を見た日のことを、今でも覚えている。

「工場に運ばれてきた。朝の光の中で、ただそこに止まっていた」

村上は少し間を置いた。

「全長四千四百ミリ。全幅千五百九十ミリ。数字で言えばそれだけだ。でも実際に目の前に立つと、違う。長いノーズが、まっすぐ前を向いている。丸四灯のヘッドライトが、こっちを見ている。黒いボンネットだけが、他と違う色をしている」

「どう違ったんですか」

「静かだった」村上は言った。「エンジンが止まっているのに、何かが動いているような気がした。走りたがっている、というのか。ただ止まっているだけなのに、前に向かっている感じがした」

ミカは黙って聞いていた。

「俺はその時、二十一歳だった。若造だった。でもわかった。コイツは特別だ、と」

――――

「祖父とはいつ出会ったんですか」とミカは聞いた。

「エンジンを載せた後だ。テスト走行に来た男がいた。それが健一だった」

「どんな人でしたか」

村上は少し考えた。

「無口な男だった。挨拶あいさつして、車に乗って、走って、降りて、また挨拶して帰る。余計なことを何も言わない」

「祖父らしい」とミカは言った。

「ただ一度だけ」村上は言った。「テスト走行から戻って、車を降りた後に言った。『いいエンジンだ』。それだけだ。それだけだったが、俺には十分だった」

村上は手の平を見た。油の染みた、厚い手だった。

「自分が組んだエンジンを、ドライバーに褒められた。若い頃の話だ。でも今でも覚えている」

――――

ミカは鞄からメモ帳を出そうとした。

村上が言った。

「メモはするな」

ミカは手を止めた。

「今日は記録じゃない」村上は言った。「ただの話だ」

ミカはメモ帳を鞄に戻した。

「わかりました」

村上は立ち上がった。シートを被せた車の前に立った。

「健一の孫が来るとは思わなかった」

「私も、ここに来るとは思っていませんでした」

「なぜ来た」

ミカは答えた。

「祖父が一度もこの車の話をしなかったから。でも写真だけは残してあって、それが気になったので」

村上はシートに手を置いた。

「健一は話さない男だった。でも覚えていた。ずっと覚えていた。俺と同じだ」

工場に沈黙が満ちた。

蛍光灯が、小さくまたたいた。

「また来てもいいですか」とミカは言った。

村上はシートから手を離した。

「来ても何も出ないぞ」

「それでも来ます」

村上は答えなかった。工具を手に取って、作業に戻ろうとした。

それから、ぼそりと言った。

「次は昼過ぎに来い。午前中は忙しい」

ミカは頭を下げた。

工場を出ると、十一月の風が吹いた。

駐車場に向かいながら、ミカは振り返った。

工場のシャッターの奥で、蛍光灯の光が揺れていた。

第二話 完


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