第一話 写真の中のハコスカ
※この物語に登場する人物、企業、団体はすべて架空のものです。実在する個人、企業、団体とは一切関係ありません。
その写真は、アルバムの一番最後に挟まっていた。
色褪せた一枚。端が少し丸まっている。それでも像は鮮明だった。
サーキットのピットだろう。背景に古いスタンドが見える。真ん中に一台の車が止まっている。白いボディに、黒いボンネット。端正なフロントグリルに、小さく「GT‐R」と書いてある。
その車の横に、男が立っている。革のレーシングジャケットを着て、ヘルメットを脇に抱えている。少し照れたように笑っている。
そして男の腕の中に、赤ん坊がいる。
生後六ヶ月か、七ヶ月か。丸々とした顔で、カメラを見ている。
その赤ん坊が、相沢ミカだった。
――――
「おじいちゃん、この車、何?」
子供の頃、一度だけ聞いたことがある。
祖父の相沢健一は、写真を見てしばらく黙っていた。それから言った。
「古い車だよ」
それだけだった。
それ以上は何も言わなかった。ミカも、それ以上聞かなかった。
祖父は十年前に死んだ。七十二歳だった。最後まで、あの車の話をしなかった。
――――
令和六年、十一月。
相沢ミカは二十九歳になっていた。
旧車専門誌「クラシックロード」の編集部で、ライターとして働いている。国産旧車の取材と執筆が主な仕事だ。サーキットにも工場にも行く。老いた職人の話も聞く。廃車置き場で泥に塗れることもある。
好きでやっている仕事だった。
なぜ旧車の仕事を選んだのか、と聞かれると、うまく答えられなかった。ただ気づいたらここにいた、としか言いようがない。
あの写真のことは、意識したことがなかった。
少なくとも、そう思っていた。
――――
その日、編集長の西川に呼ばれた。
「ハコスカの特集を組む。幻のGT‐Rを追う企画だ。相沢、お前にやらせたい」
ミカは頷いた。
「幻のGT‐R、というのは」
「昭和四十七年に、非公式のレースがあった。記録には残っていない。でもそこで走ったハコスカが、今でもどこかに残っているという話がある。旧車マニアの間では有名な噂だ」
西川は古い写真のコピーを机に置いた。
白黒。雨のサーキット。ピットロードに止まる一台の車。白いボディに黒いボンネット。
ミカの手が止まった。
「どうした」
「いえ」
ミカは写真を手に取った。
フロントグリルに、小さく「GT‐R」と書いてある。
――――
その夜、ミカは実家に電話した。
「お母さん、おじいちゃんのアルバム、まだある?」
「あるけど、急にどうしたの」
「見たい写真があって」
翌日、実家に寄った。母が押し入れから古いアルバムを出してきた。
ミカはページを繰った。
家族写真。運動会。海水浴。どこにでもある昭和の家族の記録。
最後のページを開いた。
あった。
色褪せた一枚。端が丸まっている。白いボディに黒いボンネット。祖父と、赤ん坊のミカ。
ミカは編集長からもらったコピーを取り出した。
並べた。
同じ車だった。
フロントグリルの形。ボンネットの黒さ。ピットの背景。
間違いなかった。
祖父が腕に抱いていたあの赤ん坊は、幻のハコスカの横で笑っていた。
――――
ミカはしばらく、二枚の写真を見比べていた。
母が横から覗いた。「どうしたの、その写真」
「仕事の資料」とミカは言った。
母は頷いて、台所に戻った。
ミカは祖父の顔を見た。少し照れたように笑っている。
一度もこの車の話をしなかった。
なぜ話さなかったのか。
なぜこの写真だけ、アルバムの最後に残していたのか。
ミカは写真をそっとアルバムに戻した。
それから自分のスマートフォンで撮影した。
――――
編集部に戻って、資料を漁った。
昭和四十七年、春。地方サーキット。非公式レース。記録なし。
旧車マニアのウェブ記事をいくつか読んだ。噂の域を出ない話ばかりだった。しかし一つの記事に、こう書いてあった。
「そのハコスカを最後に整備したのは、群馬県の解体屋だという話がある」
群馬県。解体屋。
ミカはメモを取った。
――――
翌朝、ミカは車で群馬へ向かった。
高速を降りて、山間の道を走った。十一月の山は、もう葉が落ちていた。枯れた色ばかりの景色が続いた。
カーナビが示す場所に着いた。
錆びた看板が立っていた。「村上解体」。
敷地に入ると、廃車の残骸が並んでいた。国産車、外国車、トラック。みんな色を失って、ただそこにある。
奥に古い工場があった。
シャッターが半分開いている。中から金属を叩く音がした。
ミカは工場の前に立った。
「すみません」
音が止まった。
しばらくして、奥から人影が出てきた。
七十歳くらいの男だった。作業着に油が染みている。白髪を短く刈り込んで、目が鋭い。手に工具を持ったまま、ミカを見た。
訪問者を歓迎しない目だった。
「何の用だ」
ミカは名刺を出した。
「旧車専門誌のライターです。少しお話を聞かせてもらえますか」
男は名刺を見た。それからミカを見た。
「取材は受けない」
「一つだけ聞かせてください」
男は返事をしなかった。
ミカは鞄から写真を取り出した。編集部でもらったコピーではない。実家のアルバムから撮影した、あの一枚。
「この車を、ご存知ですか」
男の目が写真に落ちた。
一瞬、動きが止まった。
工具を持つ手が、静かに下がった。
長い沈黙があった。
それから男は言った。
「お前、誰だ」
――――
ミカは息を呑んだ。
「相沢健一の孫です」
男はもう一度、写真を見た。
風が吹いた。廃車の残骸の間を、枯れ葉が転がった。
「中に入れ」
男は工場の奥へ歩き出した。
ミカは後をついた。
工場の奥、シートを被せた車があった。
男はその前で立ち止まった。振り返らずに言った。
「村上修だ。昔、あの車のエンジンを組んだ」
第一話 完




