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鉄の墓場―コイツはまだ死んでない―  作者: 八雲 海


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第十四話 コイツはまだ死んでない

一週間後だった。

村上はキャブレターの調整を終えていた。

ミカが工場に着くと、加納がすでに来ていた。折り畳み椅子に座って、缶コーヒーを飲んでいた。

「早いですね」とミカは言った。

「眠れなかった」と加納は言った。

「村上さんと同じですね」

「あいつも眠れなかったのか」

「先週、そう言っていました」

加納は缶を置いた。「似た人間だと言っただろう」

村上は工場の奥でハコスカに向かっていた。ボンネットを開けて、最後の確認をしている。

ミカは近づいた。

「どうですか」

「問題ない」と村上は言った。「あとはかけるだけだ」

――――

正午になった。

三人がハコスカの前に集まった。

先週と同じ場所に、同じように立った。

しかし空気が違った。

先週は緊張だった。

今日は静かだった。

怖れではない。覚悟かくごの静けさだった。

――――

村上がボンネットを閉めた。

丁寧に、静かに閉めた。

それからドアを開けた。

運転席に乗り込む前に、立ち止まった。

振り返って、加納を見た。

加納は頷いた。

村上はミカを見た。

ミカも頷いた。

村上は乗り込んだ。

ハンドルに手を置いた。

――――

工場が静まり返った。

加納は両手を前で組んだ。

ミカは息を止めた。

村上がキーを手に取った。

「これで掛からなかったら終わりだ」

加納が言った。「かかる」

「根拠は」

「お前が調整したキャブレターだ。それが根拠だ」

村上はフロントガラス越しに、工場のシャッターを見た。

その向こうに、春の空がある。

――――

キーを回した。

沈黙。

もう一度。

低く、何かが目を覚ます気配がした。

もう一度。

その瞬間。

S20が唸った。

先週より深く。先週より長く。

低い音が工場に満ちた。怒っていない。荒れていない。ただ真面目に、清潔に、力強く回っていた。

加納が目を閉じた。

ミカは動けなかった。

村上はハンドルを握ったまま、前を向いていた。

――――

一分が過ぎた。

五分が過ぎた。

まだ回っている。

十分が過ぎた。

まだ回っている。

加納がミカのそでを引いた。耳元でささやいた。

「止まらないぞ」

ミカは頷いた。のどが詰まっていた。

十五分が過ぎた。

S20は止まらなかった。

――――

村上がエンジンを切った。

自分で切った。

静寂せいじゃくが戻った。

村上はしばらく運転席に座ったままだった。

加納もミカも、動かなかった。

工場に、春の光が差し込んでいた。埃が光の中に舞っていた。

――――

村上がドアを開けた。

降りてきた。

ミカが言った。

「やっぱりダメだったですね」

村上は首を振った。

静かに、しかし確かに。

「違う」

ミカが顔を上げた。

「コイツはまだ生きてる」

村上はボンネットに手を置いた。

目が、さっきまでと違った。

怖れが消えていた。

迷いが消えていた。

ただ、確信だけがあった。

「かかったんだ。十五分、かかったんだ。死んだエンジンはうならない」

加納が言った。「そうだ。死んだエンジンは唸らない」

――――

「チームのみんなはもう死んでいない」と村上は言った。

工場が静かになった。

「俺だけだ。俺しか居ない」

村上はボンネットから手を離さなかった。

「だからコイツを起こした。俺が起こさなかったら、誰が起こす」

加納は目を赤くしていた。

ミカは泣かなかった。

泣いたら止まらない気がした。

――――

しばらして、加納が言った。

「走らせるか」

村上は頷いた。

「ああ」

三人で工場のシャッターを全開にした。

春の光が工場に流れ込んだ。

村上が運転席に乗った。

加納が後部座席に乗った。

ミカは助手席に乗った。

革のシートだった。古い匂いがした。しかし馴染なじむ匂いだった。どこかでいだことがある匂いだった。

「シートベルトはないぞ」と村上が言った。

「わかりました」

「文句を言うな」

「言いません」

――――

村上がキーを回した。

S20が唸った。

今度は迷わなかった。

一発でかかった。

加納が後部座席で笑った。声を出して笑った。

ミカも笑った。

村上は笑わなかった。

しかしアクセルを少し踏んだ。

S20の音が上がった。

低く、深く、力強く。

怒っていない。ただ、走りたがっている音だった。

――――

ゆっくりと、ハコスカが動き出した。

工場の外に出た。

春の光の中に、白いボディが現れた。

黒いボンネットが、光を受けた。

村上は駐車場をゆっくり走った。

百メートルほどの距離だった。

端まで行って、戻ってきた。

それだけだった。

しかしそれで十分だった。

――――

ハコスカが工場の前に止まった。

エンジンを切った。

三人が降りた。

誰も何も言わなかった。

工場の前に、春の風が吹いた。

ミカは写真を取り出した。

赤ん坊の自分と、祖父と、ハコスカ。

写真の中の車と、目の前の車を見比べた。

同じだった。

五十年の時間を越えて、同じ車がそこにあった。

同じ車が、今日、春の光の中を走った。

「おじいちゃん」とミカは言った。

今度は声に出た。

――――

村上はハコスカのボンネットを撫でた。

長い間、撫でた。

それから言った。

「聞こえたか、健一」

風が吹いた。

春の、柔らかい風だった。

加納が空を見上げた。

「聞こえたな」と加納は言った。「絶対に聞こえた」

第十四話 完


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