第十五話 春のハコスカ
四月になった。
桜が咲いていた。
工場の敷地の隅に、一本の桜の木がある。村上が植えたのではない。いつの間にか生えていた。誰も世話をしていない。それでも毎年咲く。
ミカが工場に着くと、村上は外に出て桜を見ていた。
「珍しいですね」とミカは言った。「外で立っているのを初めて見ました」
「花見だ」と村上は言った。
「一人でですか」
「今は二人だ」
ミカは村上の横に立った。
二人で桜を見た。
風が吹くたびに、花びらが舞った。
――――
「記事を書きます」とミカは言った。
村上は桜を見たまま答えた。
「そうか」
「怒りますか」
「怒らない」村上は言った。「ただ、正確に書け」
「はい」
「エンジンのことも、パーツのことも、正確に書け。感情だけで書くな。事実を書け。事実の中に感情がある」
「わかりました」
「タイトルは何にするんだ」
ミカは少し考えた。
「村上さんの言葉をそのまま使います」
「俺の言葉?」
「コイツはまだ死んでない」
村上は桜を見たまま、少し黙った。
それから言った。
「悪くない」
――――
工場の中に入った。
ハコスカが止まっている。
先週走った車が、また静かに立っている。
ミカはハコスカの前に立った。
「村上さん、これからどうするんですか」
「どうするとは」
「このハコスカを、これからどうするんですか。売りますか。飾りますか」
村上は椅子に座った。
「どちらでもない」
「では」
「乗る」と村上は言った。「たまに乗る。遠くには行かない。このあたりの道を、たまに走る」
「それだけですか」
「それだけだ」村上は言った。「派手なことはしない。ただ走る。それだけでいい」
ミカは頷いた。
「祖父も喜ぶと思います」
「健一は喜ばない」
「え?」
「あいつは喜ぶより、文句を言う男だった」村上は言った。「遅すぎる、とか。なぜもっと早くやらなかった、とか」
ミカは笑った。
「そうかもしれないですね」
「絶対そうだ」
――――
加納が昼過ぎに来た。
缶コーヒーを三本持ってきた。いつもそうだった。
三人でストーブの前に座った。
「記事を書く気になったか」と加納がミカに言った。
「はい」
「俺のことも書くか」
「書きます。タイヤの話を書いてもいいですか」
「構わない」加納は言った。「ただ、一つだけ正確に書いてくれ」
「なんですか」
「俺がタイヤの空気圧を下げたのは、雨だったからだ。技術的な判断だ。カンで下げたわけじゃない」
「わかりました」
「職人というのはな」加納は言った。「カンでやっているように見えて、全部根拠がある。その根拠を書いてくれ」
村上が言った。「俺も同じだ。エンジンの話を書く時は、根拠を書け」
ミカはメモ帳を取り出した。
「二人とも、改めて教えてください。根拠を全部」
村上と加納が顔を見合わせた。
珍しいことに、二人同時に笑った。
――――
その午後、ミカは二人から話を聞いた。
メモ帳が埋まった。
S20エンジンの構造。組み付けのトルク値。タイヤの空気圧と路面の関係。昭和四十七年のレースの詳細。雨の中のコーナリング。チェッカーフラッグが振られた瞬間。
事実が、積み重なっていった。
その事実の中に、感情があった。
村上が言った通りだった。
――――
夕方になった。
加納が帰り際に言った。
「また来ていいか」
「来なくていい」と村上は言った。
「来る」
「勝手にしろ」
加納はミカに言った。「あいつはいつもああだ。気にするな」
「知っています」とミカは言った。
加納は笑って、工場を出た。
――――
村上とミカだけになった。
工場の外に、夕陽が広がっていた。
オレンジ色の光が、工場の中まで差し込んでいた。
ハコスカが、その光の中に立っていた。
白いボディが、オレンジに染まっていた。
黒いボンネットが、光を受けて輝いていた。
ミカはしばらくその車を見ていた。
――――
「村上さん」とミカは言った。
「なんだ」
「ありがとうございました」
「何が」
「全部です。話してくれたこと。見せてくれたこと。一緒にいさせてくれたこと」
村上は工具を棚に戻した。
「礼を言うな」
「言います」
村上は振り返らなかった。
しばらくして言った。
「お前が来なかったら、一人でやっていた」
「そうですね」
「一人でやっていたら、もっと時間がかかった」
ミカは少し驚いた。
「それは、ありがとうということですか」
村上は棚を整理しながら言った。
「そういうことだ」
ミカは笑った。
「素直じゃないですね」
――――
ミカは帰り際、ハコスカの前に立った。
写真を取り出した。
赤ん坊の自分と、祖父と、ハコスカ。
写真の中の車を見た。
目の前の車を見た。
同じだった。
五十年の時間を越えて、同じ車がそこにある。
しかしもう、幻ではなかった。
記録には残っていない。でも走った。
誰も知らない。でも生きていた。
そして今、春の光の中に立っている。
「ありがとう」とミカは言った。
車に向かって言った。
おかしいかもしれなかった。
でも言いたかった。
――――
工場を出た。
桜の木の下を通った。
花びらが一枚、ミカの肩に落ちた。
ミカは立ち止まった。
空を見上げた。
桜が満開だった。
青い空に、白い花が広がっていた。
風が吹いた。
花びらが舞った。
どこかへ向かうように、舞い上がっていった。
――――
記事を書く前に、ミカは西川に会いに行った。
「今月号には出せません」とミカは言った。
西川は眉をひそめた。「まただめか」
「はい。でも、来月なら必ず出します。今度こそ」
「今度こそ、とはどういう意味だ」
「今まで、締め切りに追われて書いていました」ミカは言った。「今回は違います。事実を全部集めてから書きます。急いで書いた記事は、きっと薄っぺらいものになる」
西川はしばらくミカを見ていた。
「お前、変わったな」
「そうかもしれません」
「いつからだ」
「工場に通うようになってからです」
西川は小さく笑った。「まあいい。来月号だ。それ以上は待たない」
「ありがとうございます」
ミカは編集長のデスクを離れた。
今度は、迷いがなかった。
――――
後日、ミカは記事を書いた。
旧車専門誌「クラシックロード」の五月号に掲載された。
タイトルは「コイツはまだ死んでない」。
記事の最後に、こう書いた。
「昭和に勝った。平成に眠った。令和に、また走った。エンジンの音は五十年前と同じだった。村上修は今日も工場に入る。工具を手に取る。ハコスカのボンネットを撫でる。それだけで十分だと、私は思う。祖父、相沢健一も、きっとそう思っている」
――――
記事が出た翌週、村上から電話があった。
「読んだ」
「どうでしたか」
「悪くない」
「ありがとうございます」
「一つだけ文句がある」
「なんですか」
「俺の年齢を書くな。七十歳と書いてあった」
「事実です」
「うるさい」
電話が切れた。
ミカはしばらく、電話を持ったまま笑っていた。
――――
その日の夕方、ミカは工場に行った。
理由はなかった。
ただ、行きたかった。
工場のシャッターが半分開いていた。
中から、エンジンの音がした。
S20の音だった。
低く、深く、真面目に回っている音。
怒っていない。荒れていない。
ただ、生きている音だった。
ミカはシャッターの前で立ち止まった。
中には入らなかった。
ただ、その音を聞いた。
春の風が吹いた。
桜の花びらが、工場の中に舞い込んだ。
――――
コイツはまだ死んでいない。
――――
第十五話 完
『鉄の墓場 ―コイツはまだ死んでない―』 完




