第十三話 まだ終わっていない
エンジンが止まってから、三人はしばらく工場にいた。
誰も帰ろうとしなかった。
加納が缶コーヒーを三本、近くの自動販売機から買ってきた。温かい缶だった。
三人でストーブの前に座った。
「五分だったな」と加納が言った。
「五分だった」と村上は言った。
「原因はわかるか」
「わかる」村上は言った。「燃料の供給が安定していない。キャブレターの調整が足りなかった」
「直せるか」
「直す」
――――
加納は缶コーヒーを一口飲んだ。
「俺はてっきり、今日で終わりだと思っていた」
「終わりじゃない」と村上は言った。「まだ終わっていない」
「わかっている」加納は言った。「だから来週も来る」
村上は缶を見た。
「来なくていい」
「来る」
「勝手にしろ」
「お前に言われたくない」
ミカは二人を見た。
この二人は五十年以上、こういう関係なのだろう。言葉は少ない。しかし離れない。
――――
「村上さん」とミカは言った。「次はいつかけますか」
「キャブレターを調整してからだ。一週間もあれば直る」
「また来ます」
「来なくていい」
「来ます」
村上は缶を置いた。
「お前も加納も、口数が多い」
加納が笑った。
ミカも笑った。
村上は笑わなかった。しかし缶コーヒーをもう一口飲んだ。
――――
加納が帰った後、ミカは村上と二人で工場に残った。
村上はハコスカのボンネットを開けた。キャブレターを外し始めた。
「今日やるんですか」とミカは言った。
「やれる時にやる」
ミカは工具を手渡した。
しばらく無言で作業が続いた。
工場の外が暗くなってきた。
――――
「村上さん」
「なんだ」
「今日、エンジンがかかった時、何を考えていましたか」
村上は手を止めた。
キャブレターを作業台に置いた。
「何も考えていなかった」と村上は言った。「ただ聞いていた」
「何を」
「音を」村上は言った。「S20の音を。五十年ぶりに聞いた音を」
「どうでしたか」
村上は少し間を置いた。
「同じだった」
「同じ?」
「昭和四十七年に聞いた音と、同じだった」村上は言った。「五十年経っても、コイツの音は変わっていなかった」
ミカは黙って聞いた。
「機械というのは正直だ」村上は続けた。「人間は変わる。歳を取る。弱くなる。でもちゃんと組んだエンジンは、何年経っても同じ音がする」
村上はキャブレターを手に取った。
「俺が二十一歳の時に組んだエンジンが、今日、七十歳の俺の前で同じ音を出した。それだけで十分だ」
――――
「祖父も聞いていたと思います」とミカは言った。
村上は答えなかった。
しばらくして言った。
「健一はうるさいのが嫌いな男だった。静かな場所が好きだった」
「そうなんですか」
「レースの前も、一人でいることが多かった。みんなが騒いでいる時に、一人でハコスカのそばに座っていた」
「それは知りませんでした」
「孫には見せない顔だろう」村上は言った。「でも車のそばでは、素直になる。健一はそういう男だった」
ミカは祖父の顔を思い出した。
写真の中で、少し照れたように笑っている顔。
「祖父は今日の音を聞いて、どんな顔をしたでしょう」
村上はキャブレターを分解しながら言った。
「照れた顔をしただろう」
ミカは笑った。
「そうですね」
――――
夜になった。
村上がキャブレターの分解を終えた。
部品を並べて、一つずつ確認している。
ミカは帰る準備をした。
「村上さん」
「なんだ」
「一つだけ聞かせてください」
「なんだ」
「エンジンが完全にかかった時、どうするつもりですか」
村上は部品を見たまま答えた。
「走らせる」
「どこを」
「ここの駐車場でいい。百メートルも走れれば十分だ」
「それだけですか」
「それだけだ」村上は言った。「派手なことはしない。ただ走る。それだけでいい」
ミカは頷いた。
「私も乗せてください」
村上は顔を上げた。
「免許はあるか」
「あります」
「お前が運転するのか」
「村上さんが運転してください。私は助手席でいいです」
村上は少し考えた。
「助手席はない」
「え?」
「二人乗りじゃない。四人乗りだ」村上は言った。「加納も乗せる」
ミカは笑った。
「三人で乗りましょう」
村上は部品に目を戻した。
「まずかけることが先だ」
「そうですね」
――――
ミカが工場を出た。
三月の夜だった。
星が出ていた。
ミカは空を見上げた。
今日、S20は五分間だけ息をした。
まだ終わっていない。
しかし今日、確かに生きていることがわかった。
コイツはまだ死んでいない。
それだけで、今日は十分だった。
第十三話 完




