第十二話 土曜日の午後
土曜日になった。
朝から空が青かった。
三月の風はまだ冷たいが、光の質が変わっていた。冬の光ではない。もう少しで春になる、という光だった。
ミカは昼前に工場に着いた。
村上はすでに工場にいた。作業着を着ている。しかしいつもより清潔だった。油の染みが少ない。新しい作業着かもしれなかった。
「早いですね」とミカは言った。
「眠れなかった」と村上は言った。
それだけだった。
――――
加納が昼過ぎに来た。
いつもより少し正装していた。きれいなジャンパーを着ている。
「緊張しているか」と加納は村上に言った。
「していない」
「顔が固いぞ」
「いつもこういう顔だ」
ミカは笑った。以前も同じやり取りをした気がした。
三人でハコスカの前に立った。
白いボディに黒いボンネット。タイヤが四本。エンジンが載っている。
完成していた。
半年かけて、完成していた。
――――
村上がボンネットを開けた。
S20が現れた。
三人で覗き込んだ。
加納が言った。「綺麗に組んだな」
「当たり前だ」と村上は言った。
ミカはエンジンを見た。村上から教わったことを思い出した。直列六気筒。DOHC二十四バルブ。怒らないエンジン。どこまでも真面目に回る。
村上がボンネットを閉めた。
静かに、丁寧に閉めた。
――――
「ガソリンは」と加納が言った。
「入れてある」と村上は言った。
「バッテリーは」
「新しいものに替えた」
「冷却水は」
「確認した」
加納は頷いた。「では、あとはかけるだけだ」
村上はドアを開けた。
運転席に乗り込んだ。
シートに座った。
ハンドルに手を置いた。
工場が静まり返った。
加納はハコスカの横に立った。ミカも立った。
誰も動かなかった。
――――
村上はハンドルを握ったまま、前を向いていた。
工場のシャッターの向こうに、三月の空が見える。青い空だった。
村上は目を閉じた。
しばらくそうしていた。
何を考えているのか、ミカにはわからなかった。
チームの仲間のことかもしれなかった。
昭和四十七年の春のことかもしれなかった。
雨のサーキットのことかもしれなかった。
――――
村上が目を開けた。
キーを手に取った。
「これで掛からなかったら終わりだ」
加納が言った。「かかる」
「根拠は」
「お前が組んだエンジンだ。それが根拠だ」
村上はフロントガラス越しに、工場のシャッターを見た。
その向こうに、春の空がある。
――――
キーを回した。
沈黙。
もう一度。
沈黙。
加納が拳を握った。
ミカは息を止めた。
三度目。
その瞬間。
S20が唸った。
低い音が工場に満ちた。怒っていない。荒れていない。ただ真面目に、清潔に、力強く回っていた。
加納が口を押さえた。
ミカは動けなかった。
村上はハンドルを握ったまま、前を向いていた。
――――
五分間、エンジンは回り続けた。
工場に、S20の音が満ちていた。
昭和の音だった。
五十年前の音だった。
しかしそこにあった。今、この工場に、確かにあった。
ミカは写真を取り出した。
赤ん坊の自分と、祖父と、ハコスカ。
写真の中の車が、今、目の前で息をしている。
祖父が腕に抱いていた赤ん坊が、今、その音を聞いている。
――――
五分後、エンジンは静かに止まった。
また沈黙が戻った。
村上は運転席から降りなかった。
しばらく、ハンドルに手を置いたまま座っていた。
加納は目を赤くしていた。
ミカは泣かなかった。泣けなかった。
ただ、胸の中に何かが満ちていた。
――――
しばらくして、村上が降りてきた。
ミカが言った。
「やっぱりダメだったですね」
村上は首を振った。
静かに、しかし確かに。
「違う」
ミカが顔を上げた。
「コイツはまだ生きてる」
村上はボンネットに手を置いた。
目が、さっきまでと違った。怖れが消えていた。確信があった。
「かかったんだ。五分だけでも、かかったんだ。死んだエンジンは唸らない」
加納が言った。「そうだ。死んだエンジンは唸らない」
工場に、三月の光が差し込んでいた。
第十二話 完




