第十一話 火を入れる前に
三月の半ばになった。
エンジンの最終確認が続いていた。
村上は毎日工場に入った。朝から夕方まで、S20と向き合った。一つ確認して、また一つ確認する。同じ部分を何度も見た。
「もう大丈夫じゃないですか」とミカは言った。
「大丈夫かどうかは、かけてみなければわからない」村上は言った。「だからかける前に、できることを全部やる」
「いつかけますか」
「準備が終わった時だ」
「それはいつですか」
村上は手を止めた。
「知るか」
――――
加納が週に一度、工場に来るようになっていた。
タイヤの状態を確認するためだった。しかし実際は、ハコスカを見に来ていた。
加納は来るたびに、しばらく車の前に立った。何も言わない。ただ見ていた。
ある日、加納がミカに言った。
「昭和四十七年のレースの前、タイヤの空気圧を確認したのは俺だ」
「覚えていますか」
「覚えている」加納は言った。「雨だったから、空気圧を少し下げた。路面の状態に合わせて。それが正解だったと思っている」
「なぜですか」
「健一があのコーナーを抜けられたのは、タイヤが路面を掴んでいたからだ。俺のタイヤが、健一を助けた」加納は言った。「そう思っている。おこがましいかもしれないが」
ミカは首を振った。
「村上さんも同じことを言っていました。エンジンについて」
加納は村上を見た。
「そうか」加納は言った。「俺たちは似た人間だな」
村上は作業をしながら言った。「似ていない」
加納は笑った。工場に久しぶりに笑い声が響いた。
――――
ある夜、ミカは一人で工場に残った。
村上が「戸締まりをして帰れ」と言って先に帰った。
ミカはハコスカの前に椅子を置いて、座った。
工場の蛍光灯が一本、薄く光っている。
ハコスカが、その光の中に立っている。
白いボディ。黒いボンネット。
ミカは写真を取り出した。
赤ん坊の自分と、祖父と、この車。
「会ったことがあるんだね」とミカは言った。「私が覚えていないだけで」
ハコスカは答えない。
当然だった。
しかしミカは続けた。
「祖父は一度もあなたの話をしなかった。でもフレームに名前を彫った。村上さんはパーツを売ったことを後悔して、五年かけて集め直した。加納さんはタイヤを作りに来た。みんな、あなたのことをずっと覚えていた」
風が工場の隙間から入ってきた。
「私も覚えていた。覚えていたことを、知らなかっただけで」
ミカは写真をしまった。
立ち上がって、ボンネットに手を置いた。
冷たかった。
しかし確かにそこにあった。
「もうすぐだよ」
――――
翌日、村上が言った。
「来週、火を入れる」
ミカは顔を上げた。
「本当ですか」
「準備が終わった」村上は言った。「これ以上やれることはない。あとはかけるだけだ」
「加納さんに連絡します」
「俺がする」
村上は電話を取り出した。加納に電話した。
「来週の土曜日だ。昼過ぎに来い」
電話の向こうで加納が何か言った。
村上は「ああ」とだけ言って電話を切った。
「何と言っていましたか」とミカは聞いた。
「楽しみにしていると言った」
「村上さんは」
「なんだ」
「楽しみですか」
村上は工具を棚に戻した。
しばらく黙っていた。
「怖い」と村上は言った。
ミカは少し驚いた。
「怖い?」
「かからなかったら終わりだ」村上は言った。「五十年待って、五年かけてパーツを集めて、半年かけて組み上げた。それでかからなかったら、俺にはもうできることがない」
工場が静かになった。
「でもやる」と村上は言った。「やらなければ、何も始まらない」
――――
土曜日まで、あと六日あった。
ミカはその六日間、毎日工場に来た。
村上は毎日、同じ作業を繰り返した。確認して、また確認する。
二人はほとんど話さなかった。
しかし工場の空気は穏やかだった。
ストーブが燃えていた。工具の音がした。時々、風が鳴った。
それだけだった。
それで十分だった。
――――
土曜日の前日、ミカは帰り際に振り返った。
「村上さん、明日が楽しみです」
村上はハコスカのボンネットを拭きながら言った。
「来ればわかる」
「ドキドキしています」
「お前がドキドキしてどうする」
「村上さんがドキドキしているから、移ったんです」
村上は拭く手を止めた。
それから小さく言った。
「うるさい」
しかし口元が、わずかに緩んでいた。
ミカは工場を出た。
三月の夜風が冷たかった。
しかし空が広かった。
明日、S20に火が入る。
第十一話 完




