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柴犬の名は、シバコウ。またの名を、ジョセフィーヌ  作者: 木村文彦


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 急だった。

 また神知学園から、卒業生が出ていた。

「心から、祝福したい」

 パチパチ、と桜井先生が抑揚のないリズムで、手を叩いている。

 数人と雑多な生き物が、桜井先生の拍手に続いた。

 ただ、教室全体には拍手が派生せず、ひっそりと祝福の音は止んでいった。

 誰よりもシバコウが悲しみに暮れるかと思っていたけれど、「そろそろ、さつまいもチップスも飽きてきたのう」と僕のバッグを見て、独り言ちている。

 シバコウの前の席が、空席になっていた。

 きなこが、卒業した。

 銃。

「本当に、シバコウは神になりたいんだよね?」

「当然じゃ。ワシが神に一番近い存在。またの名を、ジョセフィーヌ」

「じゃあ淳ちゃんやきなこが卒業した理由を、そろそろしっかりと考えた方がいいんじゃないかな?」

 途端に、シバコウの目がトロンとした。明らかに、興味がなさそうだ。

 淳ちゃんときなこが卒業したことで、一つの仮説が、より現実味を帯びてきていた。

 ペアのどちらかが卒業してしまうと、教室に取り残された方も、神知学園の卒業を余儀なくされてしまうのではないか。

 誰も口には出さない。ただ教室内の認識は一致していた。

「リエル。勝手に卒業しちゃ、ダメだからね?」

「分かっておりますよ」

 休憩時間になり、隣の部屋に移動してからも、ずっと茜は不安そうだった。

 卒業後、どのような未来が待ち受けているか分からない以上、誰もが慎重になっている。

 リエルはいつものように大らかな態度であり、シバコウにすっと蜜柑を手渡している。

「シバコウは卒業したいのかな?」

 敢えて、青梶の件は伏せていた。

 シバコウの口から、いつか青梶の話が披露されるかもしれない。

 少なからず、僕はまだシバコウを心のどこかで信じていた。

「ワシはワシじゃ。己の道は、己で決めるんじゃよ。大ちゃんもワシに構わず、好きなように生きたらいいんじゃ」

「じゃあ、まだ、ここを卒業したくはないかもね。もっと、この世界の秘密を知りたいし」

 そうでなければ、僕の失われた記憶を取り戻すこともできないだろう。

「ふむ、大ちゃん。それも一興じゃ」

 ちゃぶ台の上に、シバコウは勢いよく飛び乗る。

「今じゃ、とりゃー」

 ドロップキックをする直前、シバコウが力強く叫び、身体が宙に浮いた。

 と、同時に、ガラガラと、部屋の扉が開かれている。

「おい。うるさいぞ」

 桜井先生だ。床に着地したばかりのモフモフの首根っこを掴んだ桜井先生は即座に、説教を開始した。徐々に、柴犬の頭が垂れていく。


「ひゃっほーい」

 授業態度があまりに悪い、と数分前に怒られ、しょんぼりとしていはずの柴犬は、さつまいもチップス一枚により、機嫌を超回復させていた。

 休憩時間は終わり、授業中になっていた。

 あっという間に、シバコウは顔面一杯に、茶色の模様を装飾している。

「お代わりじゃ!」

 尻尾をぶんぶんと振りながら、何度も、何度も、袋の中に手を伸ばしていた。

 憤怒の形相になった桜井先生がシバコウを睨んでいるが、柴犬はお構いなしに、口を動かし続けている。

「シバコウ、次の休憩時間はトイレに行こうか」

 小声で、僕は提案する。

「どうしてじゃ?」

 憎たらしいくらいに、シバコウは大声だった。

 桜井先生の鋭い視線が、今度は僕に向けられる。

「柴犬らしからぬ顔色になっているからだよ」

 徹底して、僕は小声で返事をする。

 授業が終わるやいなや、僕はシバコウをズルズルと引きずりながら、急いでトイレに向かう。

 嫌々ではあったが、渋々、シバコウも従ってくれる。

「ワシは、この顔の匂いが好きじゃ」

「そりゃあ、さつまいもチップスの粉末を顔面に浴びてるからね」

「ほれ、大ちゃん。ワシの顔をペロペロと舐めてもいいんじゃぞ?」

「僕は犬じゃないから、やらないよ。ほら、こっち」

「なんじゃい、ワシの名はシバコウ。またの名を、ジョセフィーヌ」

 僕はシバコウを洗面台の前まで、なんとか持ち上げ、丸っこい顔を蛇口に近づけた。

 トイレのどこにも鏡はなく、シバコウの汚い顔をこれでもかと、柴犬に確認させることは叶わなかった。

「冷たいのう」

 シバコウは顔をブルブルと震わせながら、茶色い付着物を落としていく。

 顔だけでいいのに、なぜか柴犬は自ら、身体を小刻みに震わせることで、全身を隈なく濡らしていった。

「うむ、水浴びも悪くないのう」

 シバコウがどことなく凛々しい表情になっている。

 水の温度が冷たかったから、眠気が覚めただけだろうなとは、簡単に予想がついている。

 シバコウは満足げな顔を浮かべたまま、蛇口から離れ、勝手に辺りを散歩し始めた。

 そのせいでトイレの床が一面、水浸しになっている。

「一度、タオルで身体を拭くから、こっちに来てよ」

「嫌じゃ、ワシは自然乾燥派じゃ」

 こうなったら頑なに、シバコウは自らの意見を曲げようとしない。

 早々に、手を打っておく必要がある。

「ねえ、シバコウ?」

「ん、なんじゃ。タオルは嫌じゃよ」

「そうか。残念だなあ。早く、さつまいもチップスを食べたくはないのかな?」

「その手には乗らんのう。ワシは、自然乾燥派だからのう!」

「ちょっと前に、『ワシは、やっぱりタオル派じゃ』とか言って、しっかりと身体を拭かせてきたくせに」

 無意識に言い終えた後、それっていつの話だったっけ、と僕は脳内の記憶に訴えかける。

 思い出せない。

「ほう、ワシに歯向かうと」

 威嚇するようにして、シバコウは立派な忠犬のような構えを見せていた。

「じゃあ、交渉だね」

 シバコウの目が、あからさまに輝きだす。

 僕はバッグから、とある袋を取り出していた。

「期間限定の味を取り寄せたんだよ。前とは、違う味。これでどうだ。多分、シバコウが食べたことない味だよ」

「たった今、タオル派の気分になったわい。ほれ、早く身体を拭いてくれんかのう」

 すぐに、シバコウは僕に身体を預けてきた。

 何度も、その場で丸っこい顔をブルブルと振っている。

 シバコウ自ら、水気を落としてくれているらしい。

 僕はポケットからタオルを取りだし、ゴシゴシと力強く、柴犬の顔を拭いてやる。

「おい、こんな所で何をしている?」

 人の声だけが耳に届き、僕の位置からではまだ声の主は見えなかった。

 ただ、トイレに入ってくる巨大なとぐろで、簡単に、誰だか分かった。

 あれは、ドチグマの一部だ。つまり、奴だ。

「青梶こそ、こんな所で何をしているのさ?」

「大を探していたんだよ」

 あれだけ自然乾燥派じゃと、持論を繰り広げていたくせに、しっかりと前足のような手をシバコウは僕の方に向けて、きっちりと差し出してきている。

「で、だ。こんな所に何の用が、ある?」

 青梶は今にも舌打ちをしそうな顔をしていた。

 ドチグマも、同様だ。

「シバコウがさつまいもチップスで顔を汚したから、綺麗に洗ってたんだよ」

「さつまいもチップス? そんな物、支給されていないぞ」

 渋い顔をした青梶がシバコウに迫っていく。

「心から念じれば、目の前に食べ物が出てくるんじゃよ。ところで、ようやく大ちゃんにも友達ができたんじゃのう!」

「こいつとは友達ではない。おい。それより、その念とやらで、銃も出せるのか?」

 青梶の目つきは細く、鋭い。

 珍しく口を閉ざしたシバコウが、渋い顔つきになっている。

「ワシともお友達になっておくれ! ワシの名はシバコウ、またの名をジョセフィーヌ」

「あ、こいつも食ってやろうか?」

 ちょっと、ドチグマは楽しそうだ。

「止めろ、ドチグマ」すぐに、青梶が制する。

「大ちゃん、やったぞ! ドチグマ殿とお友達になれたぞい!」

「シバコウ。食ってやる、なんて面と向かって言ってくる奴が、本当にお友達だと思う?」

「いや、分からんぞい。特殊な愛情表現かもしらんじゃろう?」

「そうなのか、ドチグマ?」

 青梶が驚いたように、じっとドチグマを見る。

「そんなわけねえだろ」

 面白くなさそうな表情を浮かべたドチグマは、ゆっくりと目を閉じていく。

「それで、銃の件を答えろよ。柴犬」

 青梶はファイティングポーズを取っていた。

 訳も分からず楽しそうに、シバコウも対抗するかのような素振りを見せている。

 二本足で、モフモフパンチを繰り出せる姿勢だ。


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