第三話 鉄血のドレス、思想のランウェイ
第三話 鉄血のドレス、思想のランウェイ
王宮大広間は、むせ返るような香水の匂いで満ちていた。
磨き抜かれた大理石の床には無数のシャンデリアが映り込み、黄金色の光がゆらゆらと波打っている。弦楽器の音色は甘く、壁際には色鮮やかな果実酒と料理が並び、貴族たちの笑い声が絶え間なく響いていた。
だが、その華やかさの裏で、女たちは苦しんでいた。
「……う、ぐ……」
若い伯爵夫人が扇子で口元を隠しながら、浅い呼吸を繰り返している。腰を異様なほど締め上げるコルセットのせいで、まともに息もできないのだ。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ……少し締めすぎただけですわ……」
そう言いながらも顔色は青白い。
別の令嬢は椅子に座ったまま立ち上がれず、侍女に裾を持ち上げてもらっていた。重すぎる装飾と何重にも重なった布が脚へ絡み、まともに歩けないのである。
だが誰も、それをおかしいとは言わない。
苦しいほど締め付けられ、動けぬほど飾り立てることこそ、“気品”だとされていた。
その時だった。
広間入口の扉が開く。
ざわめきが止まった。
空気が変わる。
静寂の中、ひとりの女がゆっくり歩いてくる。
レティシアだった。
白銀のドレスが、シャンデリアの光を柔らかく反射している。
誰も見たことのない衣装だった。
腰を締め付けるコルセットは存在しない。無駄に膨らんだスカートもない。白銀絹が身体の動きに合わせて滑らかに流れ、歩くたびに水面のような光が揺れる。
肩から背中へ流れるラインは凛として美しく、それでいて息苦しさを感じさせない。
何より。
彼女は自然に歩いていた。
優雅に。
堂々と。
まるで拘束から解き放たれたように。
「……なんだ、あれは」
「コルセットを着けていないのか?」
「でも……綺麗……」
貴族たちが呆然と囁き合う。
レティシアは視線を一身に受けながら広間を進んだ。裾が擦れるたび、白銀絹がさらさらと心地よい音を立てる。
彼女は知っていた。
前世、この夜会で何人もの令嬢が貧血で倒れたことを。
それでも王宮は“淑女の美徳”だと言って笑っていた。
愚かしい。
女性を苦しめる衣装が、なぜ美徳なのか。
その時、玉座近くにいたジュリアンが顔をしかめた。
「レティシア」
広間の視線が一斉に集まる。
ジュリアンは困惑と苛立ちを混ぜた声を出した。
「……その格好は何だ」
レティシアは立ち止まり、静かに一礼する。
「カサブランカの新作ドレスですが」
「新作?」
「ええ。女性が呼吸でき、歩ける衣装です」
周囲で小さな笑いが漏れた。
ジュリアンは眉を寄せる。
「そんなもの、淑女の装いではない。伝統も気品も感じられないぞ」
「気品、ですか」
レティシアは穏やかに聞き返した。
「女性が息もできず倒れることが、王国の気品でしょうか」
「それは……伝統には意味がある!」
「非効率にも、ですか?」
ジュリアンが言葉を詰まらせる。
その横で、マリアンヌが可愛らしく首を傾げた。
「でもレティシア様、女の子は可愛く我慢するのも大切だと思います。殿方に守っていただくためにも……」
周囲の男たちが頷く。
レティシアは彼女を見た。
淡い桃色のドレス。細い腰。苦しそうな呼吸。
あと二時間もすれば、彼女は確実に倒れる。
「守られなければ歩けない服に、価値はありません」
静かな声だった。
だが広間は水を打ったように静まる。
レティシアは続けた。
「服は人を飾るためではなく、人を生かすためにあるべきです」
「何を馬鹿な……!」
ジュリアンが苛立ったように声を荒げる。
「女性らしさとは慎ましさだ! 耐えることも美徳なんだぞ!」
その瞬間。
「失礼」
高位貴族のひとり、ランベルティ侯爵夫人が前へ出た。
四十代半ばの彼女は、重たいドレスを支えながらレティシアを見つめる。
「少し、その布地に触れても?」
「どうぞ」
夫人が恐る恐る白銀絹へ触れた瞬間、目を見開く。
「軽い……」
周囲がざわつく。
「それに柔らかいわ……!」
別の貴婦人も寄ってくる。
「本当にコルセットなしですの?」
「苦しくありませんの?」
「歩いてみても?」
レティシアは頷いた。
次の瞬間、婦人たちの空気が変わった。
「……楽」
「こんなに呼吸できるなんて……」
「肩が痛くないわ……!」
彼女たちの頬に、驚きと歓喜が広がる。
前世では誰も口にしなかった。
苦しい、と。
辛い、と。
それを言えば“淑女失格”だったから。
だが一度知ってしまえば、もう戻れない。
ランベルティ侯爵夫人がはっきりと言った。
「わたくし、このドレスが欲しいわ」
空気が変わる。
別の夫人が続く。
「私も」
「娘にも仕立ててちょうだい」
「夜会用に三着お願いできる?」
ジュリアンの顔色が変わった。
「なっ……!」
貴婦人たちはもう彼を見ていない。
彼女たちの視線は白銀のドレスだけへ向いていた。
それは単なる衣装ではなかった。
自由だった。
呼吸だった。
女たちを締め付ける旧時代からの解放だった。
レティシアは静かに彼女たちを見回す。
「カサブランカは、女性を拘束するための服は作りません」
白銀絹が光を弾く。
「美しさとは、苦痛ではなく機能の中に宿るものです」
広間の奥で、古参貴族たちが青ざめていた。
彼らには分かっていた。
これは単なる流行ではない。
市場そのものが変わる瞬間だと。
古い価値観が、音を立てて崩れ始めている。
ジュリアンが苦々しく呟く。
「……ただの服だろう」
レティシアは彼を見た。
「いいえ」
その瞳は静かだった。
「思想です」
外では春風が吹いていた。
王宮の庭に咲く白いカサブランカが、夜風に揺れている。
まるで、新しい時代の訪れを祝福するように。




