第四話 無能な善人への“無利子”の罠
第四話 無能な善人への“無利子”の罠
王宮財務局の空気は、湿った紙と古いインクの臭いで淀んでいた。
窓際に積み上げられた帳簿は山のようで、そのどれもが未処理の赤札を挟まれている。暖炉の火は弱く、冷えた部屋の中では役人たちの咳払いだけがやけに響いていた。
財務局長は額の汗を拭いながら、震える声で言った。
「……残高、底をつきました」
沈黙が落ちる。
机の前に立つジュリアンは、信じられないものを見るように目を見開いた。
「何かの間違いだろう?」
「間違いではございません……」
局長は青ざめた顔で帳簿を差し出す。
「王都西区の孤児院支援、南区炊き出し、無料診療所建設、慰問夜会開催費……加えてマリアンヌ様主催の慈善舞踏会費用が……」
「待て」
ジュリアンは眉を寄せた。
「慈善事業だぞ? 民のための支出じゃないか」
「は、はい……ですが……」
「なら問題ないだろう!」
局長が口を閉ざす。
部屋の隅で、若い役人が俯いた。
問題しかなかった。
慈善事業のほとんどは計画性がなく、継続費用も考慮されていない。無料配布した食料の代金は未払い。建設途中の診療所は資材不足で停止。さらに王宮は見栄のため、支援先すべてで豪華な記念式典を開いていた。
金は、底をつくべくして尽きた。
その時、扉が勢いよく開く。
「ジュリアン様!」
マリアンヌだった。
桃色のドレスを揺らしながら駆け寄り、無邪気な笑顔を浮かべる。
「聞いてくださいませ! 孤児院の子供たちが、とっても喜んでくださったんです!」
ジュリアンの表情が少し和らぐ。
「そうか」
「だから私、次は北区にも劇場を作りたいんです! みんな、辛い思いばかりじゃ可哀想ですもの!」
財務局長が絶望した顔になる。
ジュリアンは困ったように笑った。
「……今は少し難しいかもしれない」
「ええっ? どうしてですの?」
「王宮の予算がな……」
そこでマリアンヌが目を潤ませた。
「わ、私、間違っていたのでしょうか……? みんなを笑顔にしたかっただけなのに……」
「違う!」
ジュリアンが即座に否定する。
「君は優しい! 君は何も悪くない!」
その光景を見ながら、財務局長は胃が痛くなった。
優しい。
その言葉だけで、帳簿の赤字は消えない。
だがジュリアンは本気でそう信じている。
彼は悪人ではない。
ただ、数字を知らないのだ。
「……資金を調達します」
ジュリアンは決意したように顔を上げた。
「王家の名で融資を受ける」
三日後。
王都中央商業区。
雨上がりの石畳は水を弾き、夕暮れの光をぼんやり映していた。香辛料と革、焼き菓子の甘い匂いが漂う通りの奥に、“白銀のCasablanca”の看板が見える。
ジュリアンは深くフードを被り、裏口から店へ入った。
王太子が極秘で金を借りに来たと知られれば、王家の威信は終わる。
応接室へ通されると、そこには白銀の髪を持つ女が座っていた。
顔は薄いレースのベールで隠れている。
だが、空気が妙に冷たい。
「お待ちしておりました」
澄んだ声だった。
ジュリアンは席につき、緊張を隠すように咳払いする。
「単刀直入に言おう。融資を頼みたい」
「金額は」
「五百万ゴールドだ」
部屋が静まり返る。
普通の商会なら卒倒する額だ。
だが女は微動だにしなかった。
「用途を伺っても?」
「民の支援だ」
ジュリアンは胸を張った。
「困っている人々を助けたい。王族として当然の責務だ」
レティシアはベールの奥で静かに目を細めた。
前世と同じだ。
彼は本気で善人なのだろう。
だが善意だけで国家財政を回せるなら、誰も苦労しない。
「返済計画は」
「……これから立てる」
レティシアは一瞬、沈黙した。
暖炉の火が小さく揺れる。
「なるほど」
彼女は紅茶を一口飲んだ。
白磁のカップが小さな音を立てる。
「王家への支援ですから、利子は結構です」
ジュリアンが顔を上げた。
「本当か!?」
「ええ」
穏やかな声だった。
「ただし、担保をいただきます」
「担保?」
「王室直轄鉱山の採掘権。そして王都商業査察権を」
ジュリアンは目を瞬いた。
「……査察権?」
「市場監査権限です。脱税や不正流通を防ぐために必要ですので」
レティシアはさらりと言う。
「もちろん返済後は返還いたします」
ジュリアンは安堵したように息を吐いた。
彼には分からない。
その権利が、王都経済の喉元そのものだということを。
商業査察権。
それは流通、徴税、商人監督、すべてへ干渉できる巨大権限だった。
だがジュリアンにとって重要なのは、今すぐ金を借りられるかどうかだけだった。
「素晴らしい……!」
彼は本気で感動した顔をした。
「あなたはなんて心の温かい商人なんだ!」
レティシアは何も答えない。
ただ静かに契約書を差し出した。
羊皮紙の上には、細密な文字が並んでいる。
「契約内容をご確認ください」
「もちろんだ!」
ジュリアンは勢いよく羽根ペンを取った。
ぱらぱらと書類をめくるが、細かな条項など読んでいない。目に入るのは“無利子”という単語だけだ。
レティシアはその様子を静かに見ていた。
相変わらずだ。
彼は数字より感情を信じる。
契約より善意を信じる。
だから破綻する。
「では、こちらへ署名を」
ジュリアンが迷いなく名前を書く。
インクが羊皮紙へ染み込む。
その瞬間。
契約は成立した。
レティシアの脳内で、数字が組み上がる。
返済不能確率、九八%。
担保執行後の市場支配率、七三%。
鉱山収益回収予測、三年以内。
完璧だった。
ジュリアンは満足げに笑う。
「ありがとう。本当に助かった」
「お役に立てて光栄です」
「あなたのような人間ばかりなら、この国はもっと平和になるのにな」
レティシアはベール越しに彼を見る。
愚かなほど真っ直ぐな瞳。
かつて愛した男。
そして前世で、自分を断頭台へ送った男。
「ええ」
彼女は静かに微笑んだ。
「そうかもしれませんね」
外では夜の鐘が鳴っていた。
王都の空気は冷え始め、通りの灯火が石畳を濡らしている。
白銀のCasablanca。
その看板を見上げながら、レティシアは胸の奥で静かに呟いた。
もう逃がさない。
今度こそ。
数字と契約で、王家そのものを買い取ってみせる。




