第二話 カサブランカの芽吹きと「人間離れした暗算」
第二話 カサブランカの芽吹きと「人間離れした暗算」
春雨の降る朝だった。
窓硝子を叩く細かな雨粒が、規則正しい音を立てている。アスラン公爵家の離れにある小さな応接室には、まだ新しい木材の香りが残っていた。暖炉では火が静かに燃え、湿った空気に赤茶色の熱を溶かしている。
レティシアは長机に積まれた書類へ視線を落としていた。
羊皮紙の山。契約書。仕入れ明細。運送経路図。
そして、一枚の古びた独占契約書。
王宮財務局と、白銀絹取扱組合の契約文書だった。
「お嬢様、本当に商会など……」
執事のアルベルトが不安げに声を落とす。彼は六十を超えているが、背筋は真っ直ぐだった。幼い頃からレティシアを見守ってきた男である。
「王宮の利権ですよ。手を出せば危険です」
「危険だから価値があるのです」
レティシアは顔を上げずに答えた。
白い指先が契約書をなぞる。
王宮専売契約――最高級白銀絹の流通権を王家が独占する旨が記されていた。
だが。
レティシアの瞳が細まる。
「……やはり」
「何か?」
「穴があります」
アルベルトが目を瞬く。
レティシアは契約書を机へ置いた。
「第三条。“王宮認可商会に限り流通を許可する”……曖昧です」
「曖昧、ですか?」
「ええ。認可基準が未記載です。つまり法的には、“王宮が認可した”という事実さえあれば成立する」
「ですが、認可など簡単に出ません」
「普通なら」
レティシアは微笑んだ。
冷えた刃物のような笑みだった。
「ですが、申請書類に不備がなければ、財務局は七日以内に受理しなければならない。そう規定されています」
アルベルトの顔色が変わる。
「まさか……」
「王宮は独占した気でいただけです。契約を作った人間が愚かでした」
レティシアは羽根ペンを取った。さらさらと紙を走る音が部屋へ響く。
商会名。
白銀のCasablanca。
その文字を書き終えた瞬間、不思議と胸の奥が静かに熱を帯びた。
前世の自分は、誰かに愛されるためだけに生きていた。
だが今は違う。
自分の価値を、自分で積み上げる。
雨音の向こうで鐘が鳴る。
午前十時。
「アルベルト、申請を」
「……承知しました」
老執事は深く頭を下げた。
その三日後。
王都中央商業区は騒然としていた。
石畳の道を馬車が行き交い、香辛料と革の匂いが混ざり合う市場の一角。その中心に、新しい看板が掲げられている。
白銀のCasablanca。
純白の花を象った紋章が、春の日差しを受けて輝いていた。
「おい、本当に認可されたのか?」
「王宮専売じゃなかったのかよ……!」
商人たちがざわめく。
店内には、光沢のある白銀絹が並べられていた。指先で触れれば水のように滑り、光を柔らかく反射する。粗悪な絹とは明らかに違う。
そこへ乱暴に扉が開いた。
「レティシア・フォン・アスラン様ですね!」
怒声と共に入ってきたのは、王宮財務官の男だった。脂ぎった額に汗を浮かべ、息を荒げている。
「これはどういうことです! 白銀絹は王宮の独占品のはずだ!」
店内の空気が張り詰める。
だがレティシアは椅子に座ったまま、紅茶を口へ運んでいた。琥珀色の液体から、柑橘の香りがふわりと立ちのぼる。
「契約に従っただけですが」
「そんなはずはない!」
財務官は書類を机へ叩きつけた。
「こちらが正式契約書です! 貴商会の流通権は無効――」
そこでレティシアが口を開く。
「嘘ですね」
「……は?」
「その帳簿、改竄されています」
一瞬、財務官の顔が固まった。
「な、何を馬鹿な……!」
「インクです」
レティシアは静かに言った。
「昨日書き換えましたね。乾きが均一ではありません」
男の喉が鳴る。
店内の商人たちも息を呑んだ。
レティシアは続ける。
「本来、この帳簿は三年前のもの。ですが右端だけインクの艶が新しい。さらに筆圧も違う。数字の“七”だけ、書いた人間が別です」
「……っ」
「書き換えたのは独占条項。後から文言を追加した」
財務官の額から汗が落ちた。
「で、でたらめだ!」
「では鑑定に回しますか?」
レティシアの声は穏やかだった。
「王宮財務局による公文書改竄。かなり面白い罪状になりますが」
男が絶句する。
沈黙の中、暖炉の薪がぱちりと爆ぜた。
レティシアは机の上で指を組む。
「さて。あなたは先ほど、我が商会に対し営業妨害を行いました」
「え……」
「店内で流通権無効を叫びましたね」
「そ、それは……」
「その結果、本日午前の契約予定三件が停止。損失見込み、金貨三百八十二枚」
彼女は即答した。
まるで最初から数字が見えているように。
「その発言、我が商会に対する損失補填義務が発生します」
さらり、と契約書が差し出される。
「サインを」
財務官の顔が青ざめた。
「ま、待て……」
「拒否されますか?」
レティシアは微笑む。
「では公文書改竄の件を正式に王宮監査局へ提出いたします」
「……っ」
男の肩が震えた。
やがて彼は崩れるように椅子へ座り、震える手で羽根ペンを取る。
インクが紙へ滲む音が、妙に大きく聞こえた。
署名が終わる。
その瞬間、店内の空気が変わった。
商人たちの目が、驚愕から畏怖へ変わっていく。
レティシアは契約書を受け取り、静かに立ち上がった。
窓の外では雨が止み、雲間から陽光が差し込んでいる。
白銀絹が、その光を受けて輝いた。
まるで新しい時代の幕開けのように。
「アルベルト」
「はい、お嬢様」
「白銀絹の流通経路を全面確保します。王都南区の織工にも声をかけてください」
「……すでに?」
「市場は待ってくれませんので」
レティシアは窓の外を見た。
人々が行き交う王都。
前世では、ただ愛されるために見上げていた景色。
だが今は違う。
この国の市場も、流通も、財政も。
いずれすべて数字で掌握する。
そのための第一歩が、今ここで始まったのだ。
「愛など不要です」
誰に聞かせるでもなく、レティシアは小さく呟いた。
「裏切らないのは、契約だけですから」




