表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/11

第二話 カサブランカの芽吹きと「人間離れした暗算」

第二話 カサブランカの芽吹きと「人間離れした暗算」


 春雨の降る朝だった。


 窓硝子を叩く細かな雨粒が、規則正しい音を立てている。アスラン公爵家の離れにある小さな応接室には、まだ新しい木材の香りが残っていた。暖炉では火が静かに燃え、湿った空気に赤茶色の熱を溶かしている。


 レティシアは長机に積まれた書類へ視線を落としていた。


 羊皮紙の山。契約書。仕入れ明細。運送経路図。


 そして、一枚の古びた独占契約書。


 王宮財務局と、白銀絹取扱組合の契約文書だった。


「お嬢様、本当に商会など……」


 執事のアルベルトが不安げに声を落とす。彼は六十を超えているが、背筋は真っ直ぐだった。幼い頃からレティシアを見守ってきた男である。


「王宮の利権ですよ。手を出せば危険です」


「危険だから価値があるのです」


 レティシアは顔を上げずに答えた。


 白い指先が契約書をなぞる。


 王宮専売契約――最高級白銀絹シルバー・シルクの流通権を王家が独占する旨が記されていた。


 だが。


 レティシアの瞳が細まる。


「……やはり」


「何か?」


「穴があります」


 アルベルトが目を瞬く。


 レティシアは契約書を机へ置いた。


「第三条。“王宮認可商会に限り流通を許可する”……曖昧です」


「曖昧、ですか?」


「ええ。認可基準が未記載です。つまり法的には、“王宮が認可した”という事実さえあれば成立する」


「ですが、認可など簡単に出ません」


「普通なら」


 レティシアは微笑んだ。


 冷えた刃物のような笑みだった。


「ですが、申請書類に不備がなければ、財務局は七日以内に受理しなければならない。そう規定されています」


 アルベルトの顔色が変わる。


「まさか……」


「王宮は独占した気でいただけです。契約を作った人間が愚かでした」


 レティシアは羽根ペンを取った。さらさらと紙を走る音が部屋へ響く。


 商会名。


 白銀のCasablanca。


 その文字を書き終えた瞬間、不思議と胸の奥が静かに熱を帯びた。


 前世の自分は、誰かに愛されるためだけに生きていた。


 だが今は違う。


 自分の価値を、自分で積み上げる。


 雨音の向こうで鐘が鳴る。


 午前十時。


「アルベルト、申請を」


「……承知しました」


 老執事は深く頭を下げた。


 その三日後。


 王都中央商業区は騒然としていた。


 石畳の道を馬車が行き交い、香辛料と革の匂いが混ざり合う市場の一角。その中心に、新しい看板が掲げられている。


 白銀のCasablanca。


 純白の花を象った紋章が、春の日差しを受けて輝いていた。


「おい、本当に認可されたのか?」

「王宮専売じゃなかったのかよ……!」


 商人たちがざわめく。


 店内には、光沢のある白銀絹が並べられていた。指先で触れれば水のように滑り、光を柔らかく反射する。粗悪な絹とは明らかに違う。


 そこへ乱暴に扉が開いた。


「レティシア・フォン・アスラン様ですね!」


 怒声と共に入ってきたのは、王宮財務官の男だった。脂ぎった額に汗を浮かべ、息を荒げている。


「これはどういうことです! 白銀絹は王宮の独占品のはずだ!」


 店内の空気が張り詰める。


 だがレティシアは椅子に座ったまま、紅茶を口へ運んでいた。琥珀色の液体から、柑橘の香りがふわりと立ちのぼる。


「契約に従っただけですが」


「そんなはずはない!」


 財務官は書類を机へ叩きつけた。


「こちらが正式契約書です! 貴商会の流通権は無効――」


 そこでレティシアが口を開く。


「嘘ですね」


「……は?」


「その帳簿、改竄されています」


 一瞬、財務官の顔が固まった。


「な、何を馬鹿な……!」


「インクです」


 レティシアは静かに言った。


「昨日書き換えましたね。乾きが均一ではありません」


 男の喉が鳴る。


 店内の商人たちも息を呑んだ。


 レティシアは続ける。


「本来、この帳簿は三年前のもの。ですが右端だけインクの艶が新しい。さらに筆圧も違う。数字の“七”だけ、書いた人間が別です」


「……っ」


「書き換えたのは独占条項。後から文言を追加した」


 財務官の額から汗が落ちた。


「で、でたらめだ!」


「では鑑定に回しますか?」


 レティシアの声は穏やかだった。


「王宮財務局による公文書改竄。かなり面白い罪状になりますが」


 男が絶句する。


 沈黙の中、暖炉の薪がぱちりと爆ぜた。


 レティシアは机の上で指を組む。


「さて。あなたは先ほど、我が商会に対し営業妨害を行いました」


「え……」


「店内で流通権無効を叫びましたね」


「そ、それは……」


「その結果、本日午前の契約予定三件が停止。損失見込み、金貨三百八十二枚」


 彼女は即答した。


 まるで最初から数字が見えているように。


「その発言、我が商会に対する損失補填義務が発生します」


 さらり、と契約書が差し出される。


「サインを」


 財務官の顔が青ざめた。


「ま、待て……」


「拒否されますか?」


 レティシアは微笑む。


「では公文書改竄の件を正式に王宮監査局へ提出いたします」


「……っ」


 男の肩が震えた。


 やがて彼は崩れるように椅子へ座り、震える手で羽根ペンを取る。


 インクが紙へ滲む音が、妙に大きく聞こえた。


 署名が終わる。


 その瞬間、店内の空気が変わった。


 商人たちの目が、驚愕から畏怖へ変わっていく。


 レティシアは契約書を受け取り、静かに立ち上がった。


 窓の外では雨が止み、雲間から陽光が差し込んでいる。


 白銀絹が、その光を受けて輝いた。


 まるで新しい時代の幕開けのように。


「アルベルト」


「はい、お嬢様」


「白銀絹の流通経路を全面確保します。王都南区の織工にも声をかけてください」


「……すでに?」


「市場は待ってくれませんので」


 レティシアは窓の外を見た。


 人々が行き交う王都。


 前世では、ただ愛されるために見上げていた景色。


 だが今は違う。


 この国の市場も、流通も、財政も。


 いずれすべて数字で掌握する。


 そのための第一歩が、今ここで始まったのだ。


「愛など不要です」


 誰に聞かせるでもなく、レティシアは小さく呟いた。


「裏切らないのは、契約だけですから」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ