第9話 灰の嵐
裂け目を降りきると、そこは、赤く燃える世界だった。
工廠の橙色とはちがう。もっと古く、もっと荒々しい光。地平の果てまで、溶けた鉄の川が幾筋も流れ、その岸を、黒い岩が背骨のように連ねている。空は、灰色の雲に低く覆われていた。雲ではなかった。灰だ。降りしきる灰が、空と地の境を溶かしている。
息を吸うたび、喉の奥が焼けた。熱が、皮膚の外からではなく、内側から炙ってくるようだった。器の身体でなければ、とうに立っていられなかっただろう。
「ここは……」
「溶鉄の火山域」女神の声が、灰の向こうから届いた。少し遠い。「アカリ、無理をしないでください。この土地の火は、ふつうの火ではありません」
アカリは、流れる鉄の川を見た。表面に、時おり泡が浮き、赤い舌のように弾ける。近づけば、掠っただけで終わる。ここでは、大地そのものが弾幕だった。
「この火は――〈終末〉の、残り火なのです」
その言葉に、アカリは足を止めた。
〈終末〉。里の人々が、声をひそめて口にした言葉。かつて世界を焼き、滅ぼしかけた災厄。神々が己を賭して封じた、あの。
「封じられたはずでは……」
「ええ。けれど、封じるということは、消し去ることとは、ちがうのです」女神は、言葉を選ぶように話した。「大きすぎる火は、消えません。ただ、深く、深く、地の底へ押し込められた。……その残り火が、いまも、地の奥で燃えている」
工廠の炉が汲み上げていたのは、この火だった。千年前に封じられたはずの災厄の残り火を、機構は燃料に変えて、雨を降らせつづけていた。滅びが、滅びを終わらせない仕組みを、まだ回している。
神々は、世界を守るために〈終末〉を封じた。その封印の名残が、めぐりめぐって、いまは世界を蝕む雨を生んでいる。守ろうとした手が、そのまま、傷つける手になっている。それが、この世界だった。
アカリは、拳を握った。奥歯を噛みしめると、熱い息が漏れた。
――止める。
ただ、それだけを胸に、灰の道を歩きだした。
風が、変わった。
地鳴りとともに、灰が一斉に巻き上がる。視界が、灰色に塗りつぶされた。前も後ろも分からない。ただ、風のうねりのなかに、赤い光の粒が混じって、こちらへ流れてくるのだけが見えた。
灰の嵐だった。
火山が吐き出す火の礫が、灰の壁に紛れて、四方から降ってくる。アカリは目を細めた。灰は避けなくていい。避けるべきは、そのなかに紛れた、赤いものだけ。
息を詰める。
視界が利かないぶん、耳と、肌が冷える予感を頼りにした。熱い風のなかに、ひときわ熱い一点が生まれる。その瞬間、身体はもう半歩、横へ滑っている。生前、暗い画面のなかで、光の生まれる気配だけで指を動かした、あの感覚と同じだった。
暗い画面と、たったひとりで向き合っていたあの夜が、こんな遠い世界で自分を生かすことになるなんて。あの頃の自分に教えてやったら、どんな顔をするだろう。
火の礫が、いま立っていた場所を焼いた。
道の途中、溶けた鉄の川に、黒い影がいくつも浮かんでいた。岩でできた獣。灰のなかで固まり、また崩れ、寄せてくる。アカリは矢を放った。白い一条が、灰を裂き、獣の核を撃ち抜く。崩れた岩が、鉄の川に沈んで、赤い飛沫を上げた。
器の奥で、なにかが静かに応えるのを、アカリは感じた。矢を番える手つき、狙いを定める呼吸。それは、アカリが教わったものではない。この身体がもともと知っていた、遠い誰かの癖だった。避ける腕は、生前の自分のもの。射る技は、器に眠る英雄のもの。ふたつが噛み合うたび、身体が一段、軽くなる。
灰の獣が、また寄せてくる。アカリは足を止めず、射ちながら進んだ。
いくつ、討っただろう。
嵐が、ふいに凪いだ。
灰が、ゆっくりと落ちていく。焼けた喉で、アカリは荒く息をついた。汗が、流れる先から乾いていく。周りには、誰もいなかった。女神の声も、いまは遠い。器の姉妹の残響も、この熱のなかでは眠っているように静かだった。
ひとりだ、と思った。
里には、ヘルガの湯気立つ鍋があった。ケトルの炉の音があった。グンヒルドの、もう一本、という声があった。ここには、なにもない。あるのは、燃える大地と、降る灰と、止めなければならない雨のことだけ。
それでも、不思議と、心細くはなかった。
――生きている、とアカリは思った。
息を詰めて、死の隙間を縫っているこの時だけ、藤宮灯だった頃には掴めなかった、確かな心臓の音がする。二度目の生の意味が、この熱のなかに、はっきりと灯っている。
アカリは、弓を握りなおして、また歩きだした。
灰の平原の、遥か向こう。
黒い岩山だと思っていたものが、ゆっくりと、動いた。
背が、せり上がる。肩の稜線が、灰を払って持ち上がる。溶けた鉄が、その全身の裂け目から、血のように滴りはじめた。
岩ではなかった。
眠っていた、なにか巨大なものが、地の底の火を吸って、いま、目を覚まそうとしている。
灰の向こうで、赤い双眸が、ひとつ、またひとつと、灯った。




