第10話 落とし子
それは、火そのものが立ち上がったような姿をしていた。
黒い岩の鎧の裂け目から、溶けた鉄が絶えず滴り、地面に落ちるたび、赤い花のように散る。背丈は、里の物見の塔をいくつ積んでも届かない。赤い双眸が、灰の向こうから、じっとアカリを見おろしていた。
「ムスペルの落とし子」女神の声が、緊張していた。「地の底の火が、かたちを持ったもの。……これが、火の源を守っています」
落とし子が、腕を振り上げた。
振り下ろされた拳から、溶けた鉄が扇のように撒かれる。アカリは低く沈み、その一滴一滴の隙間へ、身体を滑り込ませた。熱を避けるのではない。喰らってはならない一点だけを、避ける。あとは掠らせて構わない。生前、光の雨のなかで千度も繰り返した、あの呼吸で。
落とし子が、灰色の空へ吼えた。
空から、火の礫が降ってくる。今度は上からだ。予兆は、頭上の空気がわずかに歪むこと。アカリはその歪みを目で追い、落ちてくる筋の間へ、間へと、足を運んだ。焼けた地面が、いま抜けた場所を次々と穿っていく。
息を、詰める。
拳の一撃と、降りそそぐ火。ふたつの雨が、交互に、やがて重なって襲ってきた。避けきれる隙間は、どんどん細くなる。それでも、細ければ細いほど、アカリの指先は冴えた。髪一本の道が、はっきりと見える。ここを抜けろ、と身体が言う。
落とし子の胸の裂け目、赤くひときわ強く脈打つ一点。あそこが核だ。
アカリは、火の合間を縫って距離を詰め、矢を放ちつづけた。白い一条が、灰を裂いて、核の光に突き立つ。一射ごとに、脈打つ光がわずかに翳る。
落とし子が身を捩じるたび、鎧の裂け目から溶けた鉄が撒かれ、火口の縁を焼いた。逃げ場は、少しずつ狭まっていく。それでも、狭い道ほど、アカリの目は冴えた。あとひと息、と身体が言う。息を詰め、また詰め、細い隙間を縫って、核へ、核へと矢を通す。
落とし子が、膝をついた。
地響き。撒かれる火が、細くなる。アカリは弓を大きく引き絞った。器の奥から、力が集まってくる。放てば、視界ごと薙ぐ、白光の一矢。
――あなたも、守っているだけなのね。
命じた者は、もういないのに。
白光が、落とし子を貫いた。
巨体が、ゆっくりと崩れていく。溶けた鉄が、雨のように地へ還る。赤い双眸から、光が消えていくその一瞬、アカリには、それが安堵しているように見えた。ようやく、務めを下ろせる、とでもいうように。
崩れた岩の下から、火口の底が、口を開けた。
灰が、風にさらわれていく。
その底に――扉があった。
溶けた鉄も、降る灰も、そこにだけは触れていなかった。白い、静かな石の扉。まわりの荒々しさとは、まるで別の世界からそこに置かれたようだった。扉の縁から、雨に似た冷たい気配が、ほのかに漏れている。
「……あの向こうから」女神が、囁いた。「雨は、来ているのです。あの扉の先が――神々の座。すべての、源」
アカリは、扉へ向かって歩いた。
止められる。ここまで来た。あの向こうへ行けば、終わらない雨を、止められる。
弓を握りしめ、扉に手を伸ばしかけた、そのときだった。
「アカリ」
女神の声が、初めて、震えた。
「ここから先へは――わたしは、行けません」
アカリは、振り返った。声のするほうに、女神の姿はない。けれど、その気配が、初めて、目を伏せたのが分かった。
「わたしは、里を雨から隠す加護を、祠から保っています。祠を離れれば……ルーンヴィクは、あの雨に、さらされてしまう」
ヘルガの食堂が。ケトルの炉が。グンヒルドの訓練場が。子どもたちの笑い声が。あの、雨に濡れない里のすべてが、女神が祠を離れた瞬間、鉄の雨の下にさらけ出される。
「だから、あなたに頼んだのです」女神の声は、詫びるようだった。「わたしが行けない場所へ。……ひとりで、行かせてしまうことになる」
アカリは、息を呑んだ。
この先は、たったひとりだ。器の姉妹の残響と、生前の腕だけを頼りに、神々の座へ。誰も、隣にはいない。
怖くない、と言えば嘘になった。
けれど――と、アカリは扉を見つめた。あの向こうに、里の朝がある。雨のやんだ空がある。それを取り戻せるなら。
白い石の扉に、そっと手を当てた。
押しても、引いても、扉は、びくともしなかった。
冷たい石の面に、器の奥から響くものが、こつん、と跳ね返されるのを感じた。まだ、足りない。この扉を開くには、いまのアカリでは、なにかが足りない。
「……力が、要るのです」女神が、静かに言った。「ここまで来られたことが、まず、奇跡なのですよ。一度、里へ帰りましょう。あなたは、まだ、あなたの器を、半分も知らない」
アカリは、扉から手を離した。
振り返れば、来た道の遥か先に、あの雨の空がある。里が待っている。
――もう一度、帰ろう。
この身に眠る英雄の続きを、掴みに。
白い扉を背に、アカリは、灰の昇る道を、里へと引き返しはじめた。まだ、開かない扉の冷たさを、掌に残したまま。




