第11話 翼を焼かれた人
里に帰って、三日が過ぎた。
灰の道の疲れは、ヘルガのあたたかい食事と、乾いた寝床が、じきに溶かしてくれた。けれど、掌に残った扉の冷たさだけは、消えなかった。押しても引いても、びくともしなかった白い石の感触。まだ、足りない。何かが。
だから、アカリは朝いちばんに、訓練場へ出た。
里のはずれ、岩を組んだ的が並ぶ一角。そこにはいつも、ひとりの女が立っている。
「もう一本」
グンヒルドの声は、低く、短い。里の訓練教官だった。背が高く、無駄のない身体つきをしていて、年の頃は読めなかった。アカリが矢を放つたび、彼女はただ的を見て、そう言う。褒めもしないし、貶しもしない。ただ、もう一本。
アカリは弓を引いた。放つ。的の中心の、わずかに外。
「もう一本」
放つ。今度は、中心。けれど、グンヒルドの表情は動かなかった。
「……的には、当たっています」たまらず、アカリは言った。「でも、まだ足りないって、顔をなさっている」
グンヒルドは、しばらく黙っていた。それから初めて的から目を離し、アカリの弓を握る手を、じっと見た。
「お前の腕は、器を追いきれていない」と、彼女は言った。「的の真ん中に当てるだけなら、里の子どもでもできる。だが、その器はな――もっと、遠くを狙える。お前がまだ知らない、ずっと遠くを」
そう言って、グンヒルドは背を向けた。
着ているものの、肩の合わせが、ずれる。その下に、アカリは初めて見た。両の肩甲骨から背にかけて、ひきつれた古い火傷の痕が、ふたひらの翼のかたちに、焼き刻まれていた。
「昔はな」グンヒルドは、背を向けたまま言った。「わたしにも、翼があった」
アカリは、息を呑んだ。
「戦乙女、と里の者は呼ぶ」低い声が、朝の冷たい空気に落ちていく。「神々が去るより前、空を翔け、神鉄の雨のなかを舞った娘たちがいた。……わたしも、そのはしくれだった。雨のなかを、翼一枚で滑って、掠らずに舞う。あの感覚を知ってしまうと、地の上を歩くのが、ひどく重く思えたものだ」
彼女は、火傷の痕を、そっと片手で覆った。
「だが、雨は、翼を焼く。一度でも掠れば、二度と空へは還れない。わたしは、落ちた。だから今は、まだ翔べる者に、翔び方を教えている。……それだけの女だ」
グンヒルドは、振り向いた。その目は、意外なほど穏やかだった。
「里に、古い語りがある。最初の戦乙女と、その妹たちの伝説だ」
――伝説。アカリは弓を握りなおした。
「いちばん初めに翼を得たのは、姉だった。誰よりも高く翔ぶ、いちばん強い戦乙女。そして、それに続いた、幾人かの妹たち。剣を振るう者。静かに星を降らせる者。獣の群れを率いる者。……そして、空を裂く矢を射る者」
アカリの手のなかで、弓が、かすかに震えた気がした。
「その、矢を射る娘には、異名があった」グンヒルドの視線が、アカリの弓に注がれる。「――空裂きの矢。放てば空をも裂き、どれほど遠い標的も、逃さなかったという。お前が背負っているのは、その器だ。アカリ」
空裂きの矢。
アカリは、その響きを、胸のなかで繰り返した。落とし子の核へ矢を通した、あの瞬間。指先が勝手に見つけた、髪一本の道。あれは自分の腕だと思っていた。けれど、半分は――この器に眠る、誰かの残響だったのかもしれない。避ける呼吸も、引き絞る指の角度も、ときどき、自分より先に身体が知っている。
「その残響が、お前のなかで、まだ半分眠っている」グンヒルドは言った。「起こしてやらねば、器は本当の遠さを見せてはくれん」
「その娘たちは、どうなったんですか」アカリは、訊いた。
グンヒルドは、しばらく答えなかった。
「――空の果てへ、翔んでいった」やがて、静かに言った。「なにかを、取り戻すために。そうして、還ってこなかった。里の語りは、そこで途切れている。ただ、彼女たちの身体だけが、どこかで眠りについた、と。真名を雨に奪われ、ただの器となって」
アカリは、自分の胸に、手を当てた。
この身体は。いま息をしている、この身体は、還ってこなかった娘のひとりのものだ。名も、行き着いた先も分からない、遠い、遠い誰かの。
急に、弓が、ずしりと重く感じられた。重く、そして――不思議と、あたたかかった。誰かがずっと守ってきたものを、そっと預けられたような。
「お前は、まだ、その器の半分も知らん」グンヒルドは、そう言って、訓練場の奥を指した。岩肌に、苔むした古い石の枠が、ぽつんと嵌まっている。長いあいだ、誰も潜らなかったのだろう。入り口は、闇に沈んでいた。「知りたいのなら、行くといい。あそこに――試練の間がある」
アカリは、その暗い入り口を、じっと見つめた。
この器の、続きが、あの奥にある。まだ足りない何かも、きっと。
「怖いか」グンヒルドが、静かに訊いた。
アカリは、首を横に振った。それから、少しだけ、頷いた。
グンヒルドは、初めて、ほんのわずかに口の端を上げた。
「それでいい。翔ぶ前は、みな、そうだった」




