第12話 試練の間
入り口をくぐると、外の朝の光は、すぐに背後で途切れた。
石の通路は、思ったよりも長かった。壁に手を這わせながら、アカリは闇のなかを、一歩ずつ進んだ。足音が、遠くまで反響する。やがて、行き止まりに、ひとつの空間が開けた。
円い、石の間だった。
天井のどこかから、細い光が一条だけ差している。その光の落ちる床のまんなかに、水が張られていた。浅い、鏡のように静かな水面。風もないのに、そこだけが、かすかに波打っている。
壁の一面に、古い彫り込みがあった。弓を引く、翼の娘の姿。長い年月に磨り減って、その輪郭は、もう、おぼろげだった。
女神の声は、ここまでは届かない。祠を離れられない女神は、この地の底には来られなかった。アカリは、ひとりだった。
水面をのぞきこむ。映っているのは、自分の顔。いや――この器の、顔。
アカリは、そっと、水に指を触れた。
触れた瞬間、指先から、冷たいものが、腕を駆けのぼった。
――と思うより早く、石の間は、消えていた。
空だった。
果てのない、鉛色の空。神鉄の雨が、無数の細い針となって、四方から降りそそいでいる。その雨のなかを、アカリは――いや、この身体のかつての持ち主は、翼を広げて、翔んでいた。
自分の意思では、身体は動かなかった。ただ、その娘が見たものを、感じたことを、なぞるように、追いかけていく。
隣に、気配があった。ひとつ、ふたつ、みっつ。
剣を提げた娘。杖の先に、小さな星を宿した娘。足もとに、幾つもの獣の影を従えた娘。みな、雨のなかを、まっすぐ前だけを見て翔んでいる。
ときおり、剣の娘が、こちらを振り返って、笑いかけた。声は聞こえない。けれど、その笑みが言おうとしていることは、なぜか、はっきりと分かった。――大丈夫。わたしたちは、いっしょだ。
――姉さま。
その娘の胸に、たしかに、その言葉が響いた。アカリの胸にも、同じように。
空の果て。降りしきる雨の、いちばん奥。そこに、ちいさな光が、ひとつ、灯っていた。とても遠い。手を伸ばしても、まだ届かない。けれど、あの光のもとへ、行かなければならない。取り戻さなければならない。四人は、ただ、そのためだけに翔んでいた。
雨が、強くなる。
針の雨が、翼を掠める。翔ぶたびに、羽根が、一枚、また一枚と、焼け落ちていく。
背後の気配が、ひとつ、またひとつと、遠ざかっていった。振り返る余裕は、もう、なかった。ただ、遠ざかっていく気配のぶんまで、前へ、前へと翔ぶしかなかった。
――もう、間に合わないかもしれない。
それでも、その娘は、弓を引いた。
引いて、引いて、引き絞る。器の奥の、いちばん深いところから、力を残らず、この一射に集める。狙うのは、敵ではなかった。空の果ての、あの遠い光。届かないなら、空を裂いてでも、届かせる。
――待っていて。
放った。
白い一条が、鉛色の空を、まっすぐに裂いた。雨が割れる。裂けた空の向こうへ、光の矢が、吸い込まれていく。遠い光へ向かって、ひたすらに、まっすぐに。
届いたのかは、分からなかった。
その瞬間、視界のすべてが、白に溶けたから。
――アカリ。
自分の名を呼ばれた気がして、目を開けた。
石の間だった。水面が、静かに凪いでいる。膝が、濡れていた。いつのまにか、水のふちに、崩れるように座りこんでいた。頬を、冷たいものが伝う。涙だった。自分のものか、あの娘のものか、分からなかった。
この身体は、あの娘のものだった。
空の果ての光へ届こうとして、届かないまま、雨に翼を焼かれて散った、誰か。名も、その光が誰だったのかも、いまはまだ分からない。けれど、あの最後の一射に込めた想いだけは、たしかに、アカリの胸に残っていた。まっすぐで、あたたかくて、少しだけ、切ない。ずっと守り、ずっと届かせたかった、誰かへの想い。
指の節のかたち。矢を番えるときの、わずかな癖。息の詰め方。そのどれもが、もう自分のものだと思っていた。けれど、そのひとつひとつを、あの娘が長い時をかけて、この身体に刻んだのだと、いまは分かる。アカリは、この身体を借りているのではなかった。手渡されたのだ。届かなかった一射の、その続きを撃つために。
――あなたの続きを、わたしが。
アカリは、立ち上がった。弓を、握る。
引き絞ってみて、驚いた。器の奥の、これまで手の届かなかった深いところが、いま、静かに開いていた。もっと遠くへ。もっと鋭く。指先が、はっきりと、それを知っている。千年、この身体のなかで眠っていた続きが、ようやく、アカリと手を繋いだのだった。
闇に沈んだ通路の、いちばん奥へ向けて、アカリは矢を放った。
白い一条が、空気を裂いて走る。それは、ただ飛んだのではなかった。飛んだ跡に、空そのものが裂けたような白い残光が、糸を引いて、しばらく闇に灯っていた。
空裂きの矢。
いま、たしかに、それはアカリの手のなかにあった。
石の間を出ると、外は、まだ朝だった。ずいぶん長くいた気がしたのに。
グンヒルドが、訓練場に立っていた。アカリの姿を見て、彼女は何も訊かなかった。ただ、その手のなかの弓を一瞥して、静かに頷いた。
「……行けそうか」
アカリは、掌を見た。あの白い石の扉の、冷たさをまだ覚えている掌を。
もう、跳ね返されはしない。そんな予感が、器の奥から、たしかに響いてくる。
「はい」アカリは、顔を上げた。「今なら――あの扉、開きます」




