第13話 ひとりで征く
発つ朝は、よく晴れていた。
里の空は、いつものように、雨に濡れていない。女神の加護が、この一角だけを、鉄の雨から隠しつづけている。アカリは、その澄んだ空を、しばらく見上げていた。この空を守るために、行くのだ。
鍛冶場の前で、ケトルが待っていた。
「持っていけ」
ぶっきらぼうに、革の矢筒を押しつけてくる。中の矢は、いつもより、ずしりと重かった。鏃が、青みがかった光を帯びている。
「炉にありったけの火を入れて、打ち直した。お前の弓が、変わったんだろう。前の鏃じゃ、置いていかれるからな。……折るなよ、一本も。折ったら、承知しないぞ」
ぶっきらぼうな声の、いちばん奥が、少しだけ、湿っていた。
里の門に着くと、人が集まっていた。
いや、集まっていた、どころではなかった。里じゅうの者が、みな、そこにいた。
門番のガンドが、進み出た。背筋を伸ばし、大きく咳払いをする。
「アカリ殿。このガンド、長らく里の門を預かってまいりましたが、これほど遠くへ発たれる方をお見送りするのは、生まれて初めてでございます。つきましては、門番として、ひとことご挨拶を――」
「ガンド」ヘルガが、脇から口を挟む。「長い。日が暮れるよ」
「まだ、はじまったばかりですぞ! ……えー、アカリ殿。道中、足もとには、くれぐれもお気をつけを。灰は滑ります。火口の縁は脆いゆえ、決して端をお歩きにならぬよう。それと、水は多めに。喉が渇いてからでは、遅いのです。それと――」
「ガンド」
「……それと。どうか、ご無事で」
ガンドは、最後に、深く、深く頭を下げた。慇懃な口上の、いちばん短い一行に、いちばん長い心が、込もっていた。
ヘルガが、布に包んだものを、両手で差し出す。ずしりと重い。
「おべんとう。冷めても美味しいように作ったからね。ちゃんと、食べるんだよ。あんた、集中すると、すぐごはんを忘れるんだから」
そう言って、ヘルガは、くしゃりと笑った。目のふちが、赤かった。
「……“おかえり”を、用意して待ってるからね」
スノーリが、几帳面に折りたたんだ紙を渡してきた。「道順です。分岐と、危険な箇所に印を。三度確認しました、間違いありません」。レイヴは飄々と肩をすくめ、「餞別だ」と、小さな火打ち石を放ってよこす。「あんたには、要らんかもしれんがね」。エギル爺は、のんびりと、「土産話を、待っとるよ」。ソルヴェイは、大きく手を振って、「絶対、帰ってきてよ! 畑のいちばんいいのを、とっておくから!」。インガは帳面を開き、「はい、記帳。“行って、帰る”。……ちゃんと、下の欄も、埋めてもらいますからね」。
最後に、グンヒルドが、前に出た。
何も、言わなかった。ただ、アカリの弓を、一度、両手で包むように握らせて、それから、離した。
「もう一本」
いつもの、稽古の号令だった。けれど、今日は、続きがあった。
「――撃ち終えたら、必ず、もう一本、番えられるようにしておけ。最後の一射だと、思うな。その次がある、と思って引け。そうすれば、お前は、還ってこられる」
祠の前で、アカリは足を止めた。
「アカリ」
女神の声が、静かに降ってくる。いつもの、あたたかい声。
「わたしは、ここから、あなたを見送ることしか、できません。……いっしょに行けたら、どんなによかったか」
「いいんです」アカリは、微笑んだ。「ここを、守っていてください。わたしが、帰ってくる場所を」
女神が、息を呑む気配がした。それから、ふっと、笑ったのが分かった。
「……ええ。守っています。あなたの、還る場所を」
里の者たちに、一度だけ振り返って頭を下げ、アカリは、空へ翔んだ。
灰の道を越え、火山域を抜けて、火口の底へ。ひとりだった。隣に、女神の声はない。けれど、背には、里じゅうの声が、あたたかく残っていた。ひとりで、ひとりではなかった。
灰の嵐は、来たときよりも、静かに思えた。溶けた鉄の川を飛び越え、崩れた岩のあいだを縫って、アカリは、ただ一直線に、火口の底を目指した。ときおり、背の荷が、ことり、と鳴る。ヘルガの弁当だった。その何気ない重みが、妙に心強かった。誰の声もしない道で、それは、里が確かにあることの、証のようだった。
白い石の扉の前に、アカリは立った。
掌を、あてる。
あの日、跳ね返された冷たさは、もう、なかった。器の奥から響くものが、扉の奥の何かと、ことん、と噛み合う。
白い扉が、ゆっくりと、内へ開いていった。
その向こうに、アカリは、息を呑んだ。
空では、なかった。海だった。――雷鳴の、海。
見わたすかぎり、黒い雲が幾重にも渦を巻き、その裂け目という裂け目を、青白い稲妻が、絶え間なく駆けている。轟音が、腹の底を、絶えず揺らしていた。晴れ間は、どこにもない。雷が雷を呼び、鳴りやむことを、知らなかった。
あの、鳴りやまぬ嵐の、いちばん奥に。
神々の座は、あるのだという。
アカリは、矢筒を負いなおし、弓を握った。一歩、扉の向こうへ、足を踏み出す。
背後で、白い扉が、静かに閉じた。
ここから先は、たったひとり。
雷鳴の海を、征く。




