第14話 雷鳴の海
扉を、くぐった。
その先に、床はなかった。
足の裏に感じるのは、石でも鉄でもない。厚く渦を巻く、鈍色の雲だった。踏めば沈むかと身構えたが、器の翼が微かに広がって、アカリの身体を雲の面へそっと浮かせている。ここは、世界の天蓋——空のいちばん上、雲の海の底なのだと、そう理解するのに、しばらくかかった。
頭上を、絶え間なく光が奔っていた。
雷である。青白い枝が、雲の腹を裂いては消え、また別のところで裂ける。音は、遅れて届いた。腹の底を打つ、重い轟き。ひとつが去らぬうちに、次が来る。雷鳴は、途切れることを知らなかった。まるで、この空そのものが、千年、怒りつづけているようだった。
里は、もう見えない。振り返っても、くぐってきた扉は雲に呑まれて、どこにあったのかさえ分からなくなっていた。
——ひとりだ。
分かっていたことだった。それでも、こうして雲の海に立ってみると、その言葉の重さが、あらためて胸に沈んだ。誰の足音も、隣にはない。頼れるのは、この身に眠る英雄の残響と、生前、光の雨を避けつづけた指先だけ。
——けれど、独りきりでもない。
扉をくぐる前の、里の見送りを、アカリは思い出した。門番のガンドは、目を潤ませながら長い長い口上を述べ、最後まで言い終わらぬうちに詰まってしまった。ヘルガは、包みきれないほどの弁当を握らせてくれた。グンヒルドは、いつもの調子で「帰ったら、もう一本だ」とだけ言って、背を向けた。あの人たちの声が、いまも胸の奥にある。それだけで、雲の海の冷たさが、少しやわらいだ。
行くしかない。アカリは、雲の海へ足を踏み出した。
最初の予兆は、足元だった。
踏み出した雲の面が、青白く、ほのかに光りはじめる。円を描いて、じわりと明るさを増していく。——ここに、来る。生前、幾千の光の雨を読んだ指先が、それを言葉より先に告げた。アカリは、光る円から身を退いた。
次の刹那、その円めがけて、天から雷が落ちた。
空気が裂ける。遅れて轟音。いま自分の立っていた場所が白く焼け、雲が抉れて散った。もし一拍遅れていれば、あの光の中にいたのは、アカリだった。
喰らってから避けるのでは、間に合わない。
アカリは、そう悟った。この雷は、当たってから躱せるものではない。落ちる前に、落ちる場所を読み、そこにいないこと。位置取りだけが、命を分ける。——ちょうど、あの薄暗い筐体の前で、弾がまだ撃たれる前から、撃たれる先を読んでいたように。
足元が光る。退く。落ちる。また、別のところが光る。退く。落ちる。
単純で、残酷な理だった。けれど、その単純さのなかにだけ、アカリの居場所はあった。
雷鳴の合間、その一瞬の静けさに、声が届いた。
「……どうか」
女神の声だった。けれど、いつもよりずっと遠く、細い。雷に断ち切られ、途切れ途切れに、雲の海のどこか高いところから、祈りのように降ってくる。
「……あの子に、朝を。……燃え尽きた、あなたがたに、代わって……」
アカリは、足を止めそうになった。
燃え尽きた——? 誰が。何が。女神は、いま、誰に祈っているのか。その言葉の意味を掴もうとした瞬間、また足元が光り、アカリは反射で身を投げた。背に、雷の熱が奔る。
問いかけたかった。けれど、声は続かなかった。雷鳴が、また女神の祈りを、遠くへ押し流していく。
雲の海は、静かなだけの場所ではなかった。
渦の底から、光をまとった影がいくつも湧いて出た。雷を喰らって育ったような、鰭だけの魔物たち。身をくねらせるたび、口から青白い火花を吐き、それが螺旋を描いてアカリへ襲ってくる。
アカリは、身を沈めた。火花の帯の、折り重なる隙間を読む。ひとつ、ふたつ——喰らってはならない一点さえ守れば、あとは頬を掠めても構わない。弓を引き、螺旋の切れ目から、影の芯へ矢を通す。空を裂く白い一条。影は火花を散らして弾け、また雲の底へ溶けていった。
落雷と、魔物の火花。ふたつの雨が、いつしか重なっていた。上から落ちる光を読み、横から巻く火を躱し、そのあわいに矢を放つ。息を詰め、また吐く。生前、光の雨のなかで覚えた呼吸が、器の腕にそのまま流れこんでいた。
落ちる雷は、次第に数を増していった。
ひとつだった予兆が、ふたつ、三つと同時に灯る。アカリは、光る円のあいだを縫って走った。ここが安全、と身体が読んだ一点に、迷わず身を置く。息を詰め、雲を蹴り、また次の一点へ。光が落ち、抉れた雲の穴から、遥か下の世界が、一瞬だけ覗いた。
——落ちれば、あそこまで。
背筋が冷えた。それでも、アカリの目は冴えていた。危うい道ほど、隙間がくっきりと見える。生きている、と足の裏が言う。避けているあいだだけ、心臓の音が、はっきりと聞こえた。
どれほど、雲の海を渡っただろう。
やがて前方の雲が、ひときわ濃く、渦を巻いて盛り上がっているのが見えた。そこだけ、雷が落ちない。まるで、何かが上から傘のように覆い、雷を弾いているように。
近づくにつれ、アカリは、それを感じた。
巨きな、気配。雷そのものを従え、この天蓋を千年守りつづけてきた、古いもの。落ちる雷の一本たりとも、その渦の内には入れない。守る、という意志だけが、鉄の壁のように、そこに立ちはだかっていた。
雷鳴の合間に、また、女神の祈りが届いた。
「……あれも、待っているのです。……もう、来ない主を」
アカリは、渦の中心を見据えた。
その奥に——古の盾が、いる。




