第15話 古の盾
渦の中心に、それは立っていた。
盾だった。ただし、人の背丈の何倍もある、円い大盾。表面には、見たこともない文様が幾重にも彫り込まれている。星の配置のようにも、祈りの文字のようにも見えた。盾の縁に沿って青白い雷が絶えず走り、時おり火花を散らしては、また盾へ吸い込まれていく。
スヴァリンの残響——。
その名を、どこで知ったのか、アカリには分からなかった。ただ、器の奥が、その名を知っていた。古の盾スヴァリン。かつて、何かを守るために掲げられ、いまはその意志だけが、雷を纏って残っている。
盾が、ひとりでに、宙で回りはじめた。
縁を走っていた雷が、いっせいに解き放たれる。青白い光の刃が、放射状に、アカリめがけて撒かれた。
アカリは、身を低くした。
放たれた雷の刃は、まっすぐには来ない。途中で角を変え、折れ曲がって、逃げ道を塞ぎにくる。それでも、喰らってはならない一点は、足元の小さな灯にしかない。あとは、掠っても構わない。アカリは、折れ曲がる光の隙間へ、するりと器を滑り込ませた。
弓を引く。空を裂いて、白い矢が奔った。盾の表面で、火花が散る。——硬い。矢は文様に弾かれ、通らなかった。
盾は、真正面からの矢を、ことごとく弾いた。守ることに千年を費やしてきたものだ。前を破るのは、たやすくない。
アカリは、避けながら、盾の動きを読んだ。回り、雷を撒き、また回る。その所作の合間、盾が大きく傾いで、裏の面をさらす、ほんの一瞬がある。そこにだけ、文様の走らない、無防備な芯が覗く。
——あそこだ。
雷鳴の合間に、女神の声が、また届いた。今度は、さっきより少しだけ、近く。
「アカリ。……聞いてください。あなたが、あの盾を哀れむ前に」
盾が回る。雷が撒かれる。アカリは隙間を縫いながら、耳を澄ませた。
「神々は、この世界を捨てて去ったのではありません」
女神の声が、震えを堪えていた。
「千年前——〈終末〉が、すべてを呑もうとしたとき。神々は、逃げなかった。己の身を、その身に宿す神の火を、ひとつ残らず燃やして……〈終末〉を、封じたのです。世界を、守るために」
アカリの手が、一瞬、止まりかけた。
「燃やして、封じて……そして、使い果たした。神々は、去ったのではなく——燃え尽きて、もう、どこにもいないのです。この空にも、あの座にも」
——だから。
アカリは、回る盾を見た。
この盾が守っているのは、もう、いない神々だった。掲げよと命じた主は、千年前、己を燃やして世界を守り、燃え尽きた。それでもこの盾は、命令を疑うことを知らぬまま、来るはずのない主のために、雷を纏い、天蓋を守りつづけている。
守るべきものが、もう、いないのに。
霧の番人がそうだった。工廠の巨腕も、火の落とし子も。皆、いなくなった者のために、命じられたことだけを繰り返していた。けれど、この盾は——それらの誰よりも、哀しかった。守るべき神々は、逃げたのではない。世界のために、自らを焼き尽くした。その尊い犠牲の跡を、この盾はたったひとりで、千年、守りつづけてきたのだ。誰にも、労われることもなく。
胸が、締めつけられた。
——それでも。
アカリは、弓を握りなおした。
この盾を破らなければ、天蓋は開かない。神々が己を焼いてまで守った世界に、いまも鉄の雨が降りつづけている。それを止めるには、この哀しい盾の、向こうへ行くしかない。
だから、これは、退治ではない。番人のときと、同じだ。この盾を、千年の務めから、下ろしてやること。それだけが、いまのアカリにできる、たったひとつの手向けだった。
盾は、破られまいと、いっそう激しく雷を撒いた。
放たれる光の刃が、二重、三重に折り重なる。折れ、また折れ、逃げ道を編むように迫ってくる。アカリは、そのどこか一点に必ずある隙間を、指先で手繰った。喰らわなければ、生きている。掠める光の熱に頬を焼かれながら、傾いだ盾の芯へ、芯へと、矢を通しつづける。一射ごとに、盾の文様の光が、わずかに翳っていった。
どれほど、繰り返しただろう。やがて盾の内側で、なにかが軋み、限界の光を漏らしはじめた。
盾が、これまでで最も速く回りはじめた。
撒かれる雷が渦を巻き、四方から迫る。逃げ場は、糸のように細い。アカリは息を詰め、渦の回転のわずかな遅れ——その一点だけに生まれる隙間へ、身を投げた。頬のすぐ横を、青白い光が焼いて過ぎる。生きている。まだ、生きている。
渦が、ほどける。盾が、大きく傾いだ。裏の芯が、無防備に、こちらを向く。
いまだ。
アカリは、弓を限界まで引き絞った。器の奥から、力が集まってくる。ありったけの光を束ねた、たった一射。
「——もう、おやすみなさい」
放つ。
白光が、盾の芯を、まっすぐに貫いた。
雷が、止んだ。
あれほど途切れなかった雷鳴が、嘘のように、ふっと絶えた。盾の縁を走っていた光が、静かに消えていく。大盾は宙でゆっくりと傾き、その文様を、最後にひとつ、淡く光らせた。——それは、長い務めを終えた者の、安堵の吐息のようだった。
盾が、ほどけていく。星の砂のように青白い粒になって、雲の海へ、こぼれ落ちていった。
アカリは、両手を合わせた。崩れゆく盾に向かって、そっと頭を下げる。ありがとう、と、心のなかで言った。もう、いない主を、ここまで守り抜いて。
顔を上げると。
雷の絶えた雲の海の、ずっと上。渦の晴れた天蓋の裂け目から——白い光が、一条、差しこんでいた。




