第16話 最初の戦乙女の名
白い光は、雲の海を、まっすぐに貫いていた。
盾の消えた天蓋に、ひとすじの裂け目が生まれ、そこから、見たこともない光が差しこんでいる。雷鳴の名残さえ届かぬ、静かで、あたたかで、それでいて、どこか身の竦むような光だった。
アカリは、その光を見上げた。
裂け目は、ゆっくりと広がっていった。
覆っていた雲が、左右へ退いていく。天蓋の破れたその奥に——アカリは、それを見た。
空の、さらに上。星の海に浮かぶ、白い座があった。いくつもの円い階が光の霧のなかに連なり、いちばん高いところに、玉座のような影が、ぼんやりと佇んでいる。荘厳で、そして、しんと静まりかえっていた。
そして、その座の裾から。
細い光の糸が、無数に垂れ、雲の海へと注いでいた。目を凝らして、アカリは息を呑んだ。——雨だ。あの座から、光の糸のように雨が生まれ、世界へと降りそそいでいる。神鉄の雨の、源。すべての、始まりの場所。
あの糸の一本一本が、遥か下の里へ、世界へと届いている。里の人々が影に身を寄せ、傘の下で息をひそめて暮らす、あの終わらない雨に。工廠の炉で挽かれ、天蓋のこの高みまで汲み上げられた鉄が、いま、光の糸となって、静かにこぼれ落ちていく。
こんなにも、静かなのに。
これほど遠く、これほど高い場所から、たったひとすじの糸が、千年、世界を蝕みつづけてきた。その事実の重さに、アカリはしばらく、動けなかった。
「……ああ」
女神の声が、届いた。
それは、これまで聞いたどの声とも違っていた。祈りでも、詫びでもない。ずっと堪えてきた何かが、ふいに堰を切ったような——初めて、はっきりと、震えていた。
「あの座を、見るのは……千年ぶりです」
アカリは、じっと、声の余韻に耳を澄ませた。
「あそこに、かつて神々がおられました。星の海を見わたす、あの高みに。そして——神々の傍らには、いつも、ひとりの戦乙女が、控えていたのです」
女神の声が、遠い日を撫でるように、やわらいだ。
「弓を負い、いちばん前に立って、神々の露払いを務めた者。どんな戦場でも、けっして退かなかった者。妹たちが仰ぎ、神々が最も信を置いた、戦乙女の……」
そこで、声が、途切れた。
女神の声が、また震えた。言うべきか、言わざるべきか。長いあいだ胸の底に沈めてきた名を、ようやく、掬い上げるように。
「……ダグルーン」
その名が、雲の海に、静かに落ちた。
「戦乙女たちの、いちばん上の姉。最初の戦乙女です」
アカリは、その名を、そっと口のなかで繰り返した。ダグルーン。聞いたことのない響きのはずなのに、なぜか、器の奥が、微かに疼いた。まるで、この身体が、その名を、遠い昔に知っていたかのように。
胸のどこかが、締めつけられた。会ったこともない、名だけの誰か。それなのに、その名を耳にした瞬間、この器のいちばん深いところが、静かに応えたのだ。まるで、ずっと呼ばれるのを待っていた、とでもいうように。アカリには、その疼きの正体が、まだ分からなかった。ただ、器に眠る残響が、この名の前で、初めてはっきりと身じろぎしたことだけは、確かだった。
「千年前、〈終末〉との、あの最後の戦いで」女神は、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。「ダグルーンは、神々とともに、この空のいちばん高いところへ昇っていきました。そうして——空の果てに、消えたのです。あれから、誰も、その姿を見た者はいません」
消えた、最初の戦乙女。
その名を口にする女神の声には、ただの追憶とは違う、深い痛みが滲んでいた。まるで、消えたのが遠い伝説の誰かではなく——もっと近しい、掛け替えのない誰かであるかのように。
アカリは、問いたかった。ダグルーンは、いま、どこに。なぜ、あなたの声は、そんなに震えているのか。神々が燃え尽きたその戦いで、たったひとり昇っていった戦乙女に、何が起きたのか。
けれど、女神は、それ以上を語らなかった。
「……行ってください、アカリ」女神は、震えを押し隠すように言った。「あの座に、答えがあります。雨の、本当の源が。そして——あなたが、まだ知らない、すべてが」
アカリは、白い光の座を、見上げた。
あそこへ行けば、雨が止まる。里に朝が還る。それだけを頼りに、ここまで来た。けれど、いま、女神の震える声を聞いて、アカリは思った。あの座の奥には、雨の源だけではない、もっと深い何かが、待っている。ダグルーンという名の重さが、それを告げている。
こわい、と少し思った。
誰も、隣にはいない。この身に眠る英雄の残響と、生前の指先だけ。それでも——アカリは、破れた天蓋の裂け目を見上げた。あの光の奥に、ひとつでも救えるものがあるのなら。もう、来ない主を守りつづけた盾のように、誰かがずっと、あそこで待っているのなら。
翼は、もう、その光のほうを向いていた。
アカリは、雲の海を蹴った。破れた天蓋の裂け目へ、白い光の座へと、身体が昇っていく。背に、雷の絶えた静けさを負って。
神々の座——神域は、もう、すぐそこにあった。




