第7話 誰もいない都市
雲海を抜けると、そこは鋼の都だった。
霧城で見た、あの鈍色の影。近づいてみれば、それは想像していたよりも遥かに巨大だった。空に浮かぶ、鉄でできた一個の街。無数の煙突が、絶え間なく灰色の霧を吐き出し、それが天へと昇っては、神鉄の雨の一部になっていくらしかった。
アカリは、崩れかけた高架の上に降り立った。
建物は、どれも窓を持たなかった。灯りのひとつも点っていない。ただ黒々とした鉄の塊が幾重にも折り重なり、その隙間を、蒸気と火花が縫っていく。空の高みには何本もの太い管が伸び、都の吐き出す霧を、さらに上へ、雨の降る天へと汲み上げているようだった。
そして、すぐに違和感を覚えた。
——静かすぎる。
いや、音はあった。歯車の軋み。蒸気の吐息。金属を打つ、規則正しい響き。都のいたるところで、機械が休みなく動いている。けれど、その音のどこにも、人の気配がなかった。
声がない。足音がない。誰かが誰かを呼ぶ声も、笑い声も、ない。ただ、機械だけが、機械のために動きつづけている。
通路の脇に、朽ちた小さな社のようなものがあった。かつて、ここで働いた者たちが、無事を祈った跡だろうか。積もった鉄の粉の下に、擦り切れた手袋が片方、落ちていた。持ち主は、とうに、いない。
人が去ったあとも、機械だけは律儀に働きつづけている。命じられた仕事を、終わらせる術を知らぬまま。——霧城の番人と、同じだ。アカリの胸に、あの青白い灯の記憶が、ちらりとよぎった。
アカリは、細い通路を進んだ。
巨大な回廊の底で、幾筋ものベルトが、絶え間なく流れていた。その上を、赤熱した鉄が運ばれ、無人の腕が正確に打ち、研ぎ、形を与えていく。生まれてくるのは——剣だった。
美しい剣だった。反りも、刃文も、柄の巻きも、寸分の狂いもない。名のある職人が、生涯をかけて打つような一振り。それが、いくつも、いくつも、ベルトの上を流れていく。
誰が、これを振るうのだろう。
アカリが、そう思った、次の瞬間だった。
流れの果てで、剣は、あっけなく砕かれた。
巨大な槌が振り下ろされ、寸分の狂いもなかったはずの刃は、砕けて赤い破片になった。その破片は、また炉へと運ばれ、溶かされ、ふたたび剣になるために、ベルトを逆流していく。
造っては、砕く。造っては、砕く。
誰の手にも渡らぬまま。何のために——アカリには、わからなかった。ただ、背筋を、冷たいものが這い上がってきた。この整然とした営みには、どこか、狂ったものの匂いがした。
「気をつけて」女神ヴァルディスの声が、緊張していた。「そこは、生きているものの造る場所では、ありません」
その声が終わらぬうちに、回廊の奥で、赤い光がいくつも灯った。
人の形をした、鉄の兵たちだった。顔のない兜が、いっせいにアカリのほうを向く。侵入者を、造りかけの武器の一つとでも見なしたように、腕を持ち上げ、その掌から、鋭い鋼の光を撃ち出してきた。
弾幕が、来る。
霧城の、あの柔らかな光の雨とは違った。鋭く、速く、直線的な、鋼の弾。アカリは息を詰め、身を低くして、その隙間へ滑り込んだ。喰らう急所は、足元の一点だけ。触れさせなければ、いい。
鋼の弾は、壁に当たると火花を上げて跳ね返り、二重、三重の網になって襲ってきた。アカリは足を止めない。止まれば、囲まれる。低速で滑り、時に大きく跳んで、迫る網の目を、一つずつ抜けていく。生前、光の雨のなかで培ったこの感覚が、器の軽やかさと噛み合うたび、心臓が確かに鳴った。——避けている間だけ、わたしは、生きている。
弓を引き、光の矢を放つ。鉄の兵が、火花を散らして崩れ落ちる。けれど、崩れた兵の残骸は、すぐにベルトへと運ばれていった。——また、溶かされ、造り直されるのだろう。
ここでは、壊すことにも、終わりがない。
造るためだけに造り、壊すためだけに壊す。この都は、まるで、目的を失ったまま止まれなくなった、巨大な一つの心臓のようだった。誰のためでもない鼓動を、ただ打ちつづけている。
あの美しい剣たちは、いったいどこへ行くのか。溶かされた鉄は、何に姿を変えるのか。考えるほどに、答えは遠のき、かわりに、ひとつの嫌な予感だけが、輪郭を濃くしていく。
アカリは、通路の奥を見つめた。都の中心、幾筋ものベルトが集まっていくその先に、赤々と燃える巨大な炉の口が、大きく開いていた。
造られた剣は、あそこへ流れていく。砕かれた鉄も、あそこへ還っていく。
この都のすべての答えは、あの炉の奥にある。アカリは、そんな気がした。
女神は、もう何も言わなかった。視えない、と告げたきり、その声は鉄の霧の向こうで、途切れがちになっていた。ここから先は、誰の目も届かない。導きの声さえ、届かない。
それでも、進むしかなかった。里の人々が、この鋼の都に呑まれた者たちが、なぜ帰ってこなかったのか。その答えの尻尾を、いま、掴みかけている気がした。
鉄くさい霧を吸い込んで、彼女は一歩、炉のほうへ踏み出した。
誰もいない都市の、その一番深いところへ。




