第6話 影の下の暮らし
隠れ里ルーンヴィクの朝は、いつも少しだけ暗い。
里は、切り立った岩壁の影に抱かれるように築かれていた。遥かな空からは、今も絶え間なく神鉄の雨が降っている。けれどその雨は、里へは一粒も届かなかった。忘れられた祠に宿る女神ヴァルディスの加護が、見えない天蓋のように、この小さな里を覆っているからだ。
霧城から戻った翌朝、アカリは食堂の扉を押した。
「おかえり、アカリ!」
湯気の向こうから、ヘルガの声が飛んできた。里の食堂を切り盛りする、丸い肩をした女だ。「顔色がよくないねえ。ほら、まず食べな。空きっ腹で空を飛ぶやつがあるか」
差し出された椀は、根菜と干し肉の、温かい汁物だった。ひと口すすると、身体の芯に、じんわりと力が戻ってくるのがわかる。アカリは、避けることばかり考えていた自分に気づいた。強さというのは、こんなふうに、誰かの手からも分けてもらえるものらしい。
「ごちそうさま。……おいしかったです」
「あたりまえさ。おかわりもあるよ」
食堂を出ると、鍛冶場から槌の音が響いていた。
「遅い。矢じりができてるぞ」
鍛冶師のケトルは、こちらを見もせずに言った。ぶっきらぼうな男だが、その手のなかには、朝の薄明かりでも鈍く輝く、新しい矢じりが並んでいた。城塞で射込んだ矢がいくつも折れて戻ってきたのを、黙って打ち直してくれていたらしい。
「前のより、少しだけ遠くまで届く。……無駄弾は撃つな。一本一本、俺が打ってるんだからな」
「はい。大事に、使います」
受け取った矢じりは、ずしりと重かった。避ける腕だけでは、空は昇れない。射る矢そのものを、里のだれかが鍛えてくれている。——避ける腕と、育てる強さ。その両輪で、自分は少しずつ遠くへ行けるのだと、アカリは初めて実感した。
訓練場では、グンヒルドが待っていた。
背筋の伸びた、厳しい目をした女教官だ。木剣を構えるアカリに、彼女は幾度も打ち込みを浴びせ、そのたびに短く言った。「もう一本」。息が上がり、腕が痺れても、「もう一本」。倒れる寸前になって、ようやく彼女は木剣を下ろした。
「悪くない。生き延びる者の身体つきに、なってきた」
その横顔に、アカリはふと、かつて翼のあった場所のような、古い傷跡を見た気がした。けれど、訊いてはいけない気がして、口を噤んだ。
午後、アカリは里の外れの、小さな水辺を訪ねた。
加護の届く範囲に湧く、澄んだ泉。その縁で、エギル爺がのんびりと釣り糸を垂れていた。
「おや、戦乙女さまかい。まあ、座りなされ」
並んで水面を眺めていると、老人はぽつりと言った。「昔はの、この里ももっと広かった。空も、もっと近くに見えたもんじゃ。……雨が、みんな持っていってしもうた」
アカリは、黙って続きを待った。
「わしの息子もな。雨のやまぬ空へ、様子を見に行くと言うてな。それきりじゃ。もう、ずいぶんになる」
老人は、笑っていた。悲しみを、ずっと昔に飲み下してしまった者の、静かな笑みだった。
泉からの帰り道で、アカリは行商のレイヴと出くわした。
どこからともなく里に現れては、珍しい品を並べていく、飄々とした男だ。「よお、空裂きの姫さん。景気はどうだい」と、彼は荷袋から古びた革の手甲を取り出した。「掘り出しもんだぜ。昔の戦乙女が使ってたって代物だ。……まあ、半分は俺の口上だがな」
「半分は、本当なんですか」
「さあて。信じるかどうかは、あんた次第さ」
レイヴは、にやりと笑った。どこまでが本当で、どこからが嘘なのか、掴ませない男だった。それでも、彼が里の外から運んでくる品々が、アカリの装いを少しずつ確かなものにしていくのは、確かだった。集め、蓄え、身につけていく。その一つひとつが、次の空で、自分を生かしてくれる。
その日、アカリは里をゆっくりと歩いた。
畑を耕すソルヴェイが「今年は芋がよく育ったよ!」と手を振る。門番のガンドが「くれぐれも、お気をつけて」と何度も頭を下げる。倉庫番のインガが「はい、記帳」と帳面に矢じりの数を書きつける。受付のスノーリが、里へ出入りする者の名を、几帳面な字で並べていく。
——皆、明るかった。
けれど、誰もが心のどこかに、雨に奪われた何かを抱えていた。夫を、子を、翼を、故郷を。それでも今日を、静かに笑って生きている。この影の下の暮らしそのものが、雨に対する、ささやかで頑固な抵抗なのだと、アカリは思った。
思えば、この里で過ごす一日一日が、そのまま自分を強くしていた。ヘルガの汁物が身体をつくり、ケトルの矢じりが間合いを伸ばし、グンヒルドの木剣が芯を鍛える。戦って強くなるだけではない。誰かに育ててもらう強さが、確かにあった。避けることしか知らなかった生前の自分には、なかったものだ。
この人たちのために、雨を止めたい。
避ける腕と、育てる強さ。里の温もりを、そのまま力に変えて。アカリは、鈍色の空を見上げた。
次に昇るのは、あの鉄の霧の出どころ——誰ひとり帰ってこなかった、鋼の都だった。




