第5話 霧の番人
霧が、ゆっくりと退いていく。
それまで乳白色の帳に閉ざされていた城塞の中庭が、少しずつ輪郭を取り戻していった。崩れかけた石の回廊。錆びついた長い鎖。苔むした巨大な礎。千年のあいだ誰も訪れなかった場所の匂いが、湿った風に乗って、アカリの頬をなでた。
——そして、その中央で。
影が、立ち上がった。
背丈は、里の見張り塔の倍はあった。石と鉄を継ぎ合わせた巨躯。片方の目にあたる場所に、青白い灯が一つ、ぼんやりと点っている。それは怒りでも、飢えでもなかった。ただ、命じられたことを繰り返すだけの、疲れきった光だった。
霧城の守護者、ニヴェリンド。
女神ヴァルディスの声が、遠く、胸の奥に届いた。「あれは——守るために、造られたもの。もう、守るべきものなど、何もないのに」
守護者が、腕を持ち上げる。
その動きに合わせて、空気がふるえた。巨躯の各所から、青白い光の珠が湧き出してくる。ひとつ、ふたつ——やがて、数えることを諦めるほどに。それらは音もなく宙に整列し、次の瞬間、いっせいにアカリめがけて放たれた。
光の、雨。
アカリは、息を詰めた。
——ここは、知っている。
降りそそぐ光の帳の、その隙間を、身体が勝手に読みはじめる。喰らってしまう急所は、足元のほんの小さな一点だけ。そこさえ光に触れさせなければ、死なない。かつて薄暗い筐体の前で、幾千回となく繰り返した、単純で残酷な理。
歩幅を小さく。呼吸を、細く長く。アカリは低く身を沈め、光の珠と珠のあいだ、髪の毛一本ほどの隙間へ、するりと器を滑り込ませていく。
器が、応えた。千年前の戦乙女の身体に眠る技が、生前の指先の記憶と、そっと噛み合う。避ける腕と、放つ技。ふたつが、ひとつの流れになる。
弓を引く。空を裂いて、光の矢が奔った。守護者の装甲を穿ち、青白い火花が散る。それでも巨躯は、倒れない。倒れないまま、また腕を持ち上げ、また光の雨を降らせる。
何度も。何度も。
やがて、巨躯の装甲に、罅が走りはじめた。青白い灯が、いっそう激しく明滅する。すると守護者は、これまでとは違う動きを見せた。両腕を大きく広げ、身の内に溜め込んだ光を、渦を巻くひとつの帳として、中庭いっぱいに解き放ったのだ。
逃げ場が、ない。
光は螺旋を描き、四方から迫ってくる。アカリは目を凝らした。——ある。渦の回転の、ほんのわずかに遅れる一点。そこにだけ、隙間が生まれる。彼女はその一点を信じて、身を投げるように滑り込んだ。頬のすぐ横を、光がかすめて過ぎていく。生きている。まだ、生きている。
弾幕は重く、途切れなかった。息が上がる。避けて、射て、また避ける。そのうちに、アカリはふと気づいた。
守護者の動きには、憎しみがない。
ただ、同じ所作を繰り返しているだけだった。命じられた「守れ」を、守るべきものが失われた後も、疑うことを知らぬまま。千年、たった独りで。その巨躯の関節は、あちこちが軋み、罅割れ、それでも止まることを、誰にも許されていなかった。
——あなたは、いつから、ここに。
胸の奥が、痛んだ。
これは、退治ではない。アカリは、ようやくそう思った。この番人にとって、倒されることだけが、たったひとつの解放なのだ。
最後の光の雨が、視界を白く埋め尽くした。
アカリは怯まなかった。低く沈み、隙間を縫い、間合いの底まで踏み込む。弓を、限界まで引き絞った。指先に、器の奥から昇ってくる熱が集まっていく。ありったけの光を束ねた、たった一射。
「——もう、いいよ」
放つ。
閃光が中庭を薙ぎ払い、守護者の胸の灯を、まっすぐに貫いた。
巨躯が、ぐらりと傾いだ。青白い目の光が、ふっと和らぐ。それはほんの一瞬、長い眠りにつく者の、安堵の吐息のようにも見えた。
石と鉄が、音もなく崩れていく。塵は霧に溶け、風に運ばれて、空へ還っていった。
あとには、静けさだけが残った。
アカリは、しばらく動けなかった。勝ったという実感よりも、見送ったという感覚のほうが、ずっと強かった。両手を合わせ、崩れた礎に向かって、そっと頭を下げる。討つことでしか、救えないものがある。——その悲しい型を、アカリはこの空で、初めて覚えた。
生前、光の雨を避けていたときは、ただ自分が死なないためだった。けれどこの空では、避けた先で、誰かを終わらせなければならない。それも、憎いからではなく、楽にしてやるために。——重いな、と思った。けれど、目を逸らすつもりはなかった。この番人が千年、たった独りで背負ってきたものに比べれば、ずっと軽い。
顔を上げると、霧はもう、すっかり晴れていた。
城塞の縁の、遥か向こう。雲海を挟んだ先に、鈍色に光る影が見えた。無数の煙突。うねる管。絶えず立ちのぼる、鉄くさい霧。——都市だ。あの鉄の霧こそ、この城塞を千年閉ざしていたものの、出どころらしかった。
「あの都で、なにが造られているのか」女神の声が、かすかに曇った。「わたしには、視えないのです」
「昔は、あの都にも人が暮らしていた、と聞きます。けれど今は……近づこうとすると、わたしの目は、ただ鉄の霧に阻まれてしまう。まるで、視てはならぬと、誰かに拒まれているように」
視えない場所へ、独りで踏み込む。それが、これから先の道なのだと、アカリは静かに理解した。
アカリは、鈍色の空をじっと見つめた。
守護者の残した静けさを胸に抱いて、翼は、もう次の空を向いていた。




