第4話 霧の砦へ
里の門を出ると、雨の匂いがした。
加護の傘の外は、灰色の雨の世界だった。細い銀の糸が、絶え間なく地に降りそそぎ、触れたものを、じわじわと錆の色に染めていく。ガンドは門のところまで見送りに来て、何度も何度も、お気をつけて、と繰り返した。
「東の空、霧のたなびくあたりが、砦にございます。——どうか、ご無理は、なさらず」
アカリは、うなずいた。
そして、背に、意識を向けた。
——飛べる、はずだ。
なぜ、そう思ったのかは、わからない。ただ、身体が、知っていた。アカリが息を吸うと、背から、光が広がった。器に宿る、色を失っていたはずの翼。それが今、アカリの魂を得て、淡い光をまとって、はためいた。
地を、蹴る。
身体が、ふわりと、浮いた。
声が、出そうになった。空だ。飛んでいる。灰色の雲を近くに見上げながら、アカリは、雨の糸のあいだを、縫うように進んだ。糸の一本一本が、触れれば錆をもたらすと、身体が知っていたから、自然と、それを避けていく。
振り返ると、透明な傘に守られた里が、みるみる小さくなっていった。ガンドの姿は、もう見えない。この空に、味方はいなかった。心細さと、けれど、それを上回る、妙な高揚が、胸の奥で混じりあっていた。
——避ける。
その感覚が、ふいに、遠い記憶と重なった。
薄暗いゲームセンター。降りそそぐ、光の雨。髪の毛一本ほどの隙間を、指先が見つけていく、あの感覚。それが今、身体ぜんたいで、蘇っていた。
東の空に、白いものが見えてきた。
霧だった。
巨大な、浮遊する城塞が、渦巻く霧のなかに、うっすらと影を落としている。崩れかけた尖塔。苔むした城壁。もう、守る者のいなくなった、忘れられた砦。その霧の底から、ざわり、と、無数の気配が湧きあがった。
魔獣、だ。
鉄錆色の甲殻をまとった、獣のかたちをしたもの。雨に長く打たれ、朽ちながらも動きつづける、哀れな成れの果て。それらが、口のような裂け目から、ぼう、ぼう、と、光の弾を吐きだした。
赤い、光の玉。
いくつも、いくつも。それが、扇のように広がって、アカリめがけて降りそそいでくる。
——来た。
息を、詰めた。
迫る弾の群れ。けれど、それらは、見た目ほど、隙間なく撒かれてはいなかった。よく見れば——いや、見るより先に、身体が知っていた。当たって終わるのは、身体ぜんたいではない。ほんの、胸の奥の、小さな一点。そこさえ、光に触れさせなければ、いい。
アカリは、翼を、たたんだ。
速度を、落とす。ゆっくりと、ゆっくりと。急いではいけない。急げば、隙間を見失う。低く、静かに、弾と弾のあいだの、髪一筋ほどの道を——縫う。
赤い光が、頬をかすめて、後ろへ流れていった。
当たらない。
どこかの誰かの記憶ではなく、たしかに自分のものだった、あの指先の癖。それが今、翼と、器の身体と、ひとつに噛みあっていた。避けるたびに、心臓の音が、はっきりと聞こえた。生きている。ああ、わたしは、今、たしかに生きている。
——武者震いが、した。
こわいのでは、なかった。うれしかったのだ。
アカリは、弓を、構えた。
弦を引く。矢は、ない。けれど、引きしぼった弦の先に、光が、ひとりでに凝った。放つ。ひとすじの光の矢が、まっすぐに飛んで、魔獣の一匹を貫いた。もう一度。もう一度。指が、勝手に、次の弦を探す。連なる光の矢が、雨のように、魔獣の群れへ降りそそいでいく。
避けて、放って。避けて、放って。
迫る弾を低速で縫い、隙間から矢を返す。その繰り返しのなかに、奇妙な、静けさがあった。まるで、世界に、自分と弾しか、いないような。息の音さえ、遠かった。
最後の一匹が、光の矢に射抜かれ、鉄錆の粒になって、霧のなかへ、散っていった。
——やった。
アカリは、大きく、息をついた。手のひらに、じんわりと汗がにじんでいた。生きている手の、あたたかい汗だった。
散っていった鉄錆の粒を、アカリはしばらく見送った。あれもきっと、もとは、なにかだったのだろう。雨に打たれ、朽ちて、それでも動くことをやめられなかった、なにか。倒したというより、やっと止めてあげられた——そんな、静かな感覚が、胸の底に残った。
その、ときだった。
霧の、いちばん奥。
なにかが、こちらを、見ていた。
アカリは、はっと顔を上げた。城塞の中心、渦巻く霧のもっとも濃いあたりに、ふたつの、鈍い光が灯っていた。目、のように。それは、瞬きもせず、ただ、じっと、アカリを見つめていた。
敵意とも、違った。
もっと、静かで——もっと、悲しい、なにか。
『——気をつけて、アカリ』
遠く、ヴァルディスの声が、耳の奥に届いた。
『あの砦には、番人がいます。千年、たったひとりで、あそこを守りつづけている者が』
霧が、動いた。
風もないのに、白いとばりが、ゆっくりと、左右に割れていく。まるで、幕が、上がるように。
その奥から。
巨大な影が、ゆっくりと、立ちあがった。
崩れた尖塔よりも、なお高く。鈍色の光を全身にまとい、朽ちた翼のようなものを背に広げて。それは、地を揺らし、霧を裂いて、アカリを見おろした。
——番人。
アカリの弦が、きり、と、鳴った。
二度目の生の、最初の戦いが、霧の晴れた空で、幕を開けようとしていた。




