第3話 忘れられた祠
雨の音で、目が覚めた。
いや——雨の、音ではなかった。
どこかで、水がしたたっている。ぽつり、ぽつりと、石を打つ、しずかな音。アカリは、まぶたを開けた。
石造りの、狭い空間だった。天井は低く、苔むした梁が渡してある。壁の隙間から差しこむ細い光が、床に積もった埃を、金色に照らしていた。ずいぶん長いあいだ、誰も訪れていない場所のようだった。
——祠、だろうか。
身を起こそうとして、アカリは、息を呑んだ。
身体が、軽い。
いや、軽いだけではなかった。指を握れば、思っていたよりもずっと速く、迷いなく閉じる。首をめぐらせれば、視界が、鋭い。薄暗い祠のなかの、埃の一粒までが、はっきりと見えた。まるで、長いあいだ曇っていた眼鏡を、はじめて外したような。
自分の手を、まじまじと見た。
白く、ほっそりとして、けれど、たしかな力を秘めた指。生前の、書類ばかり触っていた手とは、違う。これが——器の、身体。
傍らに、なにかが立てかけてあった。
弓、だった。
背の高い、優美な曲線を描く弓。弦は、張られていないのに、ほのかに光の糸を宿しているように見えた。アカリが手を伸ばすと、それは、まるで待っていたかのように、すっと手のひらに収まった。
——重さが、ない。
いや、重さはある。けれど、その重さが、少しも邪魔に感じられなかった。ずっと昔から、この手に馴染んでいた道具のように。指が、勝手に、弦を探す。引く。放つ真似をする。その一連の動きが、驚くほど、なめらかだった。
自分の身体なのに、自分の知らない技を、身体のほうが覚えている。
——これが、残響。
ヴァルディスの言葉が、胸によみがえった。戦う技は、器に眠る残響が思い出させてくれる、と。
『——目覚めましたね、アカリ』
声が、祠に満ちた。
姿はない。けれど、それは、たしかにヴァルディスの声だった。星の海で聞いたのと同じ、鈴を伏せたような、澄んだ響き。ただ、遠い。とても、遠くから届いている。
「ヴァルディス……? どこにいるの」
『わたくしは、この祠に。里を雨から隠す加護を保つため、ここを離れられないのです。声だけしか、届けられません。——けれど、いつでも、あなたのそばに』
アカリは、弓を胸に抱えたまま、ゆっくりと立ちあがった。
足が、地を踏む。その感覚が、たしかだった。生きている、と、身体が言っていた。
『祠の外に、里があります。行ってごらんなさい。——あなたを、待っている人たちが、います』
アカリは、光の差すほうへ歩いた。
苔むした石段を上ると、木でできた粗末な扉があった。押し開ける。差しこむ光が、まぶしかった。
——そして、目を疑った。
空が、灰色だった。低く垂れこめた雲。その雲から、細い銀の糸が、絶え間なく降りそそいでいる。星の海で見た、あの映像のとおりに。神鉄の雨。世界を蝕む、終わらない雨。
けれど。
アカリの立つ場所には、その雨が、一滴も落ちてこなかった。
見あげると、里の上空だけ、雨の糸が、見えない天蓋にはじかれるように、四方へ逸れていく。まるで、透明な傘が、里ぜんたいを覆っているかのように。
——これが、女神の加護。
里は、こぢんまりとしていた。石と木でできた低い家々。細い路地。畑。井戸。どこか懐かしい、山あいの村のような佇まい。けれど、そのどれもが、雨に濡れていない、乾いた温もりを保っていた。
「——おっと、これは」
声がして、アカリは振り向いた。
里の入り口に、ひとりの男が立っていた。年老いた門番だった。使いこまれた槍を手に、分厚い外套を羽織っている。彼はアカリの姿を見ると、目を丸くし、それから、あわてて姿勢を正した。
「祠から、人が……。いや、失礼。長らく、あの祠から誰かが出てくるなど、なかったもので。——お怪我は、ございませんか。お足もとは。段は、滑りませんでしたか」
矢継ぎ早の気遣いに、アカリは、思わず笑ってしまった。
「大丈夫。ありがとう」
「それは、よろしゅうございました」
門番は、心底ほっとしたように、胸をなでおろした。
「わたくしは、ガンドと申します。この隠れ里ルーンヴィクの、門を預かる者。——あなたさまは、もしや、女神さまが」
「アカリ、っていうの。ヴァルディスに、頼まれて、来たの」
その名を口にすると、ガンドの表情が、ぱっと明るくなった。
「おお……おお! では、やはり! いや、失礼ながら、半信半疑でおりました。女神さまが、雨を止める御方を招くと、代々語り継がれてはおりましたが……まさか、この目で拝む日が来ようとは」
ガンドは、深々と頭を下げた。老いた背が、小刻みに震えていた。
アカリは、なんと言っていいか、わからなかった。ただの会社員だった自分が、こんなに真剣に、誰かに手を合わせられている。その重さが、少しだけ、こわかった。
そのとき。
里の奥から、若い男が、転がるように駆けてきた。手には、なにかの帳面を握っている。
「ガンドさん! 大変です、大変! 東の霧です、霧の砦! 見張りが、報せを——魔獣が、また這い出てきたって! しかも今度は、数が、いつもより多い、多いんです!」
几帳面そうな青年は、早口でまくしたてると、そこでようやく、アカリの姿に気づいた。ぽかん、と口を開ける。
「え……その方は……?」
ガンドが、槍を握りなおした。老いた顔に、緊張が走る。
「霧の砦の、魔獣……。里に近づいてくる前に、食い止めねば。——ですが、里の守り手は、もう、ほとんど残っておりません」
アカリは、自分の手のなかの弓を、そっと見おろした。
弦が、かすかに、鳴った気がした。まるで、行こう、と、そう言うように。
降りやまない雨の、いちばん近い出口。
——霧の、砦。
アカリは、顔を上げた。二度目の生の、最初の空が、そこにあった。




